【わかりやすい神話の世界】アダムとイブに投影された人類の罪とは

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人類が犯してきた愚かな行為のすべてに責任がある、といわれる所以は最初の人間であるアダムとイブでしょう。なぜ人間は失敗ばかり起こすのか、その多くをこのふたりの中に多くみることができます。

すなわち、嫉妬や暴食、色欲に知識欲、そして、「言いつけに背いても何とかなるであろう」という強い思い込みです。この記事では、結局「アダム」と「イブ」に投影された人類の罪とは何だったのかをわかりやすく解説していきたいと思います。

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アダムとイブの寓話

これがすべてのはじまりですね。

エデンの園で神によって創造されたアダムは、「園の木々の果実はどれを食べても良いが、知恵の木の果実だけは食べてはならない」といわれた。

 

その後、神はアダムの肋骨からイヴを創ってアダムの妻としたが、イブは蛇にそそのかされて知恵の木の果実を取り、夫であるアダムにも与えて2人で食べた

しかしそのことを知った神は、2人をエデンの園の東方に追放した。

アダムとイブの罪

ちょっとわかりにくいので、アダムとイブがおこした罪を箇条書きにしてみましょうか。

  • 彼らは神に背いた
  • 彼らは天の父を不名誉にした
  • 彼らは (神に) 感謝していなかった 
  • アダムとイブは悔い改めなかった
  • アダムとイブは自分たちに嘘をついた
  • 彼らは神の知恵よりも自分の知恵を信頼したかった
  • 彼らは利己的だった
  • 彼らは自分たちの過ちを認める謙虚さを持っていなかった

これが、「創世記」のストーリーの中にみえる罪の一部ですね。

人が背負うことになった原罪 (罪)

アダムとイブの罪

さて、アダムとイブによる「原罪」は、その後人類にどういう結果をもたらしたのでしょうか。

ちなみに「原罪」とは、キリスト教で、最初の人間アダムとイブが神にそむいて犯した罪のこと。ちょっと言い回しが堅いのですが、カトリック教会のカテキズムは次のように述べています。

人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなか

人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった

 

人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた

これでは、ちょっと難しく聞こえますよね。つまるところ、神の怒りをかったアダムとイブは、「罪」を背負うことになり、二度と楽園へ戻ることを許されなかったのです。

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楽園追放が意味すること

実際、「エデン」と「アダム」は、シュメール語以前の言語で、それぞれ「肥沃な平野」と「移住」を意味すると考えられています。神の怒りをかった結果として、ふたりはこの地 (富と資源を生む肥沃な土地で安楽に生きる暮らし) を失うことになったのです。

以降、人々は「罪」を背負って生きていくことになりました。「原罪」をおった結果として、人の世には、苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生、が生まれることになったのです。

原罪から赦されるための 「洗礼」

ちなみに「洗礼」によって、原罪も含めたすべての罪が赦されるとされています。

よく「洗礼を受けてカトリック信者となった」といった言葉を聞くこともあるとおもいます。それは、カトリック教会では、こう考えられているためです。

幼児は原罪によって神の恵みを失って生まれてくる

そのため、洗礼によって新たに生まれる必要がある

人間は生まれながらにして罪を背負っているということですね。とくにルイ14世時代のフランスには、何か悪いことがおこった場合、それは聖杯を受けることで罪から救われるといった考え方が顕著にあらわれていました。

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まとめ

アダムとイブの楽園追放

なかなか触れることがない神話の世界、いかがでしたでしょうか。

たとえキリスト教信者でなくても、アダムとイブの罪を熟考することには大きな意味があります。「ふたりの罪」を理解することは、結局のところ、自分を理解することに繋がるのです。

何か (誰か) のせいにしたり、利己的な理由で嘘をついたり、はたまた感謝が足りなかったり、過ちを認める謙虚さを持たなかったり。寓話というのはいささか大袈裟ではあるものの、誰もが覚えのあるものだったのではないでしょうか

「創世記」や「神話」ときくととっつきにくいイメージではありますが、いくら便利なものが増えて生活様式が変わろうとも『人類の失敗や罪』の本質は変わっていないのです。身の回りの人や事柄にとたえてみると、またあらたな発見があるかもしれませんね。

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