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【アンネの日記】彼女と家族について知っておきたい5つのこと

2020/06/21
 
アンネの日記
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ナチスドイツが行ったユダヤ人の大虐殺アンネ・フランクは15歳で亡くなりましたが、彼女が経験したことは100歳まで生きた人々よりも恐ろしい体験をした、といわれています。長年アンネは家族とともに隠し部屋で息を潜めて暮らしていました。

アンネと家族は、第二次世界大戦中の2年間ナチスからうまく身を隠していましたが、密告により強制収容所へそこで亡くなったアンネがのこした歴史的な遺産が、かの有名なアンネの日記』です。今日はアンネ・フランクと彼女の家族について、知っておきたい5つのことをご紹介します。

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アンネ・フランクまつわる5つの逸話

① 何人もの人々が、フランク一家を手助けした

Otto Heinrich Frank

1940年初頭、オットー・フランクが家族がキューバに移住するためのビザを取得できなかったとき、彼は最も信頼できる友人と従業員に相談しました。オットー、ミープ・ガイス、ビクター・クグラー、ヨハネス・クライマン、エリザベス・ボルケイル、彼らは協力して、フランク一家を隠す計画を思いつきます

そしてフランクス一家は、父オットーのオフィスの別館に避難。それは秘密の場所であり、唯一の入り口は本棚で閉じられていたので、誰も別の階がありそこに人が住んでいるとは思わなかったでしょう。従業員たちは、家族がスイスに逃げたといううわさも流して一家をかくまったのでした。

 

② アンネが住んでいたのは、本棚で隠された秘密の部屋

Annelies Marie Frank

事業家でもあった父オットー・フランクはナチスの迫害を避けるため、家族をオランダから出国させようとしましたが何度も失敗…. 。そこで彼は最も信頼できる従業員数人の助けもあり、オフィスに隠れ家をつくることにしました。オットーのもとで働いていたヨハネス・ボスケイルは、ここをより見つかりにくくするために蝶番の本棚を作りました。

ヨハネス氏が本棚の作業を始めたのは1942年8月で、その数週間後にオットー・フランクの家族が隠れ家に入りました。ビル内の本棚の背後で、オットー・フランクは働いていました。それから家族の逮捕まで、誕生日に受け取った日記を描き続けました。ちなみにこの本棚は父オットーにより1960年に一般公開されています

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③ 心理的に苦しんだ、アンネの母エディート

Otto Heinrich Frank

2年の隠居生活はオットーとエディスの結婚生活には負担をかけましたが、れでも夫婦はまだお互いを深く愛していました。ナチスがアウシュビッツで父オットーと家族を引き離したとき、エディートは夫がガス処刑されたものだと確信しました。 

悲しみを処理することができず、エディートは相当な精神的打撃を受けました。当局はエディートを1945年の初めにアウシュビッツ ビルケナウの病室にうつしましたが、キャンプの解放のわずか数週間前に彼女は亡くなりましたオットーは1マイル離れたところに住んでいたのですが、両者ともに知ることはなく、彼女が亡くなったこともオットーには知らされませんでした

 

④ 隠れ家生活は、2年と35日にわたって続いた

Annelies Marie Frank

彼らが秘密の別館に入った後、彼らが一体この先どうなるか誰もわかりませんでした。家族が隠れて住んでいた間、2年以上の間、空を見ることも太陽を感じることもできませんでした。アンネは気をそらすためアンネは執筆と読書に明け暮れました自分の体験を書き綴り、同じ本を繰り返し読んだのです。彼女はまた、外に再び住むことができたら何をしたいかをリストしたりと、明るく生きようとしていたようです。

フランク家の希望は、終戦まで平和にそこにひっそりと留まることでしたが、匿名の密告によりフランク一家はナチスに見つかり強制収容所へ送られてしまいます。

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⑤ 隠れ家の生存者は、父オットーのみ

Otto Heinrich Frank

ドイツ軍は別館に隠れているフランク一家を発見すると、直ちに強制収容所に連行しました着後すぐに男女に分けられ軍は父オットーをから妻と2人の娘を引き離しました。この時がオットーが妻と娘の姿を見た最後となりました。彼女らは父親が殺されたと思っていたそうですが、実際は逆で…. 残念なことに彼女らは第二次世界大戦が終わる前に強制収容所で亡くなりましたオットーは1945年1月27日アウシュヴィッツの病棟にいたところ、ソビエト赤軍により解放されます。

Hut-AnneFrank-Westerbork

2月23日にスイスにいる母親にあてかいた手紙には「エーディトと子供たちの所在は分かりません。1944年9月5日に別れたきり、無事でいてくれることを願うだけです」と書いています。3月になってようやく収容所を出ることが認められ、ポーランドを経由して帰路へ。妻と娘が強制収容所で亡くなったことを知ったのはアムステルダムに到着したときでした。彼が隠れ家のなかで、唯一の生存者だったのです。

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あとがきにかえて

Annelies Marie Frank

アンネがいたベルゲン=ベルゼン強制収容所は、1944年3月27日以降、他の強制収容所の囚人のうち病人や高齢の者が、休養のために送られてくるようになり「休養収容所」とも呼ばれましたしかし特別な医療施設が設けられていたわけではなくその実態は他の強制収容所とほとんど変わらなかったといいます。また収容所内の衛生状態が劣悪であり伝染病が流行しました。食料もほとんど与えられず、餓死者と病死者が続出する収容所だったのです。この収容所でアンネはチフスに罹患して命を落としました

アンネの日記

隠れ家の住人のなか、ただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクは、ミープからこの日記を手渡されました生々しい日常が刻まれた『アンネの日記』、オットーはアンネの”戦争と差別のない世界になってほしい”という思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意しました。この日記は60以上の言語に翻訳され、2,500万部を超える世界的ベストセラーとなっています。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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