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【本当は怖いサンタンジェロ城】監獄となりローマ劫掠の舞台となった惨劇の地

 
サンタンジェロ城
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

ローマ教皇を守る砦、あるいは牢獄のイメージの強いサンタンジェロ城ですが、ローマ市民の大量虐殺の舞台となるなど悲劇的な歴史を秘めています。まさに監獄といったこのフォルムで人々を惹きつけてやまないこのお城は、中世以降、ローマ教皇を守る城塞としての役割も果たしてきました。この記事では、そんな教皇を守る城塞であり牢獄であった、サンタンジェロ城をみていきたいとおもいます。

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サンタンジェロ城とは

サンタンジェロ城

サンタンジェロ城は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞です。

イタリア・ローマ市内テベレ河畔に位置し、東南の方角にローマ市街地を望み、西にはバチカン市国を控えています。同城は135年、ローマ帝国の皇帝でいわゆる「五賢帝」のひとりハドリアヌスが自らの霊廟 (死者や祖先の霊を祀る場所)として建設を開始し、139年に完成しました。天使 (アンジェロ) の名を冠するのは、剣を鞘に収める天使の出現によってペストの流行が止んだことを称えて、6世紀末に教皇グレゴリウス1世が礼拝堂を増築した故事によるものです。

サンタンジェロ城の礼拝堂

霊廟はきれいな円形平面をなし、太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置されました。

しばらくすると軍事施設として使用されるようになり、14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、同時に牢獄や避難所としても使用されていくようになりました。ちなみに約700メートル離れたバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは城壁上の通路で繋がっています。

 

一度入ったら出られない、恐怖の牢獄

サンタンジェロ城の牢獄

サンタンジェロ城は当初皇帝たちの陵墓として建てられたのですが、その円筒形の建造物はその後4世紀頃に城塞となり、次第に牢獄として使用されるようになりましたこに投獄された者のなかには、純潔を奪われたために父親を殺して断頭台にたった「美しき親殺し」として知られている悲劇の少女ベアトリーチェ・チェンチ芸術家のティリオーネやベンベヌート・チェリーニがいます。

怖い絵 ベアトリーチェ・チェンチ

スタンダールの『パルムの僧院』の主人公ファブリスが投獄された牢獄もここサンタンジェロ城がモデルとなっているといわれています。

 

ローマの大虐殺の舞台

サンタンジェロ城

とはいえ、最大の悲劇といえば1527年4月に起こったローマ大虐殺でしょう。

当時スペインのカール5世とローマ教皇クレメンティス7世の対立が激化し、ローマはヨーロッパ最強を誇っていたスペイン、ドイツの傭兵部隊ランツクネヒト軍団1万2000人の襲撃を受けることとなったのです。無差別殺戮と略奪によって、歴史と芸術の街ローマは次々と破壊され、血の海と化しました。

ローマの大虐殺

このローマでの大暴虐はローマ却掠 (ごうりゃく)」とも呼ばれ、初日だけで9,000人以上が殺されたという記録もあります。財物を奪い取り、ローマ市内全域を燃やし尽くして6ヶ月もの間、スペイン兵、ドイツ傭兵部隊はローマで暴れまくって暴虐を働きました。

 

サンタンジェロ城の悲劇

サンタンジェロ城サンタンジェロ城とローマ大虐殺

そんななか、サンタンジェロ城には、傭兵たちの暴力や殺戮から逃れた約3,000人の市民が避難していました。しかし、誰もが安全な場所だと信じて疑わなかったサンタンジェロ城の守りは、凶暴化した傭兵らによって打ち破られ、一挙に城内に侵入されて占拠されてしまったのです。まさに逃げ場をなくした市民たちは、傭兵らの手によって次々と殺されていきました。

抵抗のできない子供たちを手当たり次第に抹殺し、女性は衣服を剥ぎ取り乱暴された後に殺害。身分の高い家の娘にいたっては、人目に晒しながら公然と乱暴し殺害するなどまさに目の当てられないような惨劇が繰り広げられたのです。

サンタンジェロ城の牢獄

このサンタンジェロ城の惨劇は8日間も続けられ、近くを流れるテベレ川にも水面が見えなくなるほどの死体が浮かんでいたそうです。その中には、乱暴の恥辱から逃れるために自ら身を投げた若い娘の遺体も数多くあったといわれています。

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あとがきにかえて

Pope Clement VII and Emperor Charles V on horseback under a canopy, by Jacopo Ligozzi, c. 1580

勝利したのはスペインの皇帝カール5世しかしローマを廃墟と化し絶対的権力を手にした彼にも、心休まるときはありませんでしたハプスブルク家の視点からみるとこれは「大きな勝利」ですが、ローマにとっては大きな大きな痛手でありました。

ローマの大虐殺(劫掠)によって、ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れることとなりました。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えることになります。これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げることとなります。

しかしこれを契機として、カール5世率いるハプスブルク家は世界各地に領地を展開し、『日の沈まぬ国』と呼ばれる最強の帝国を築き上げます。しかし最盛期を迎えたものは終焉に向かう運命にあるのでしょうか。そんなスペインハプスブルク家は、2代目のフェリペ2世の時代に最盛期を迎え、その後は君主の力不足により停滞。最後は青い血の呪いを受け、わずか5代で断絶してしまうのでした。これは血族結婚により血が濃くなったためだといわれていますが、初代カール5世の時代から散々と殺戮を繰り返してきた因果も、もしかしたら、どこか関係しているのかもしれません。

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参考文献

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