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【エカチェリーナ2世とは】ロシアの大女帝を知るための5つのこと

2020/09/06
 
エカチェリーナ
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

1718世紀ロシアのトップに君臨し、大女帝と呼ばれたエカチェリーナ (旧名キャサリン)。この記事では、この有名なロシアの統治者『エカチェリーナ2世』に関して、知られざる5つのことをご紹介します。

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① 実際は生粋のドイツ人だった

若き日のエカチェリーナ2世 キャサリン (若きキャサリンの肖像画)

ロシアで最も長い治世をもった女帝、『エカチェリーナ2世 (キャサリン・ザ・グレート) 』として歴史に残る彼女は、貧しい北ドイツに生まれました。1729年に生まれた彼女のドイツ名は、ソフィー・フォン・アンハルト=ツェルブスト

1744年、15歳のソフィーはロシア女帝エリザヴェートによって『皇太子妃候補』としてロシアに招かれました。未婚で子供がいなかったエリザヴェートは、甥のピョートルを後継者に指名。皇太子を支える聡明な花嫁を探していたのです。母親の熱心な教育のおかげかよい娘に育ち野心に満ちていたソフィー夫はさておきエリザヴェートの心を掴みました結婚は1745年8月21日に行われ、この若く聡明な花嫁は、エカチェリーナと名を改めました

 

② お互いに浮気、長男の本当の父親は誰か

エカチェリーナ (皇太子夫妻) (ピョートル3世、エカチェリーナ夫妻の肖像画)

婚姻は政治的には大成功だったのですが、ピョートルは妃にまったく興味を示さず幸せな夫婦とは程遠いものでした。エカチェリーナはロマノフ王朝の世継ぎをつくるためにドイツから嫁いできたわけですが、結局夫婦は子どものいないまま8年が過ぎました結婚生活に不満があったピョートルと、エカチェリーナはふたりとも不倫をしていたといいます。そして1754年、結婚9年目にしてエカチェリーナは長男パーヴェルを出産しました

エカチェリーナ (ロマノフ王朝 家系図) (ロマノフ王朝 エカチェリーナ周辺の家系図)

しかし実際の父親はエカチェリーナと公然と関係を持っていたセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵ではないかといわれています。(そしてエリザヴェータも知っていた黙認されたという説も… ) いずれにしても真実は闇のなか、女帝エリザヴェータは待ち焦がれた世継ぎに大喜び、問題にもならなかったそうです。

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③ 命をかけて、夫と玉座を取り合った

エカチェリーナ (エカチェリーナの肖像画)

女帝エリザヴェータが亡くなった1762年1月、甥ピョートルがロシア皇帝『ピョートル3世』として即位、エカチェリーナはロシア皇后となりました。国家に自らの印を押すことを熱望していた彼は、プロセインとの戦争を終わらせるなど、強引な手をつかい、からも国民からも反感を買います。貧しい人々の生活を改善するための国内改革を行いますが、それは下級貴族を遠ざけることに…. 。

ピョートルに不信をおぼえた人々が助けを求めたのは、聡明な皇后エカチェリーナでした。彼女は慎重にことをすすめ、同国最強の軍事連隊の支持を経てついに動きました。皇帝と皇后の軍がたたかい、結果勝利をしたのは皇后派の軍でした。ピョートルは半年めにして退位においこまれ、皇后がエカチェリーナ2世として即位することになりました。

 

④ 在位中に12件以上の反乱に直面

エカチェリーナ2世 戴冠式 (戴冠式でのエカチェリーナ2世エリクセン画)

多くの反乱に見舞われたエカチェリーナの治世。特に大きかったのが、1773年、エメリアン・プガチョフ率いるコサックと農民の武装集団による反乱です。ロシアの最下層階級である農奴の過酷な社会経済条件に反発し彼らは『エカチェリーナの統治の妥当性』に疑問を投げかけました。元陸軍将校のプガチョフは、自分は退位させられたピョートル3世であり、王位の正当な継承者であると言い出す始末…. (ピョートル3世は死んでいたはずだが…)

1年以内に数千人の支持者を集めたプガチョフ、これには当初は無関心だったエカチェリーナも大規模な武力で対応、1775年には鎮圧されました。また、前帝により幽閉されていた、イヴァン6世を面に出そうといった動きもありました。

ロマノフ王朝家系図 (イヴァン6世)(ロマノフ王朝 イヴァン6世周辺の家系図)

しかしそちらもまた制圧され、イヴァン6世は看守に殺害されました。ロシアの血を一切ひいていないエカチェリーナ、それ故の脅威はエリザヴェータ以上だったといえるでしょう。だからこそ人望が光ったのかもしれません。

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⑤ 息子との確執、長男は父親と同じ運命をたどった

パーヴェル (エカチェリーナの長男 パーヴェルの肖像画)

エカチェリーナと、長男パーヴェルの間には大きな確執がありました。それもそのはず、彼は生まれてすぐに当時の女帝エリザヴェータに奪い取られ、息子であえど会えるのは許可がおりた時のみ。エカチェリーナ2世は、産後すぐに手元から引き離された息子に、世間一般のような愛情を感じることはなかったといいますパーヴェルは女帝エリザヴェータと、家庭教師たちによって育てられました

パーヴェル (エカチェリーナ2世の長男) (幼少期のパーヴェルは可愛く、エリザヴェータに溺愛されていた)

実の息子であれどそんなに関わりがなかったわけで、さらに子から見れば母は実父を退位と死に追い込んだ女性エカチェリーナは、彼がが仕返しをしてくるではないかと恐れ、パーヴェルを自分からも国務からも遠ざけました。それは逆もしかり、パーヴェルもまた母親に殺されるのではないか、と恐れていました。実際エカチェリーナに暗殺の気はなかったようですが、パッとしない頼りないとして、エリザヴェータがピョートル3世が孫に期待をかけたのと同じく後継者として孫の『アレクセイ』を指名することを企んでいました

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あとがきにかえて

アレクサンドル1世 (エカチェリーナの孫 アレクサンドル1世)

仕返しを恐れて、息子を帝位から遠ざけたエカチェリーナ孫のアレクセイに帝位を継がせようとしていることに焦ったパーヴェル。孫のアレクセイは祖母の企みに気づいていたようですが、圧力に屈して、父の邪魔をすることはしませんでした。しかしエカチェリーナは、諸々の手続きを終える前に脳梗塞で亡くなりパーヴェルがツァーリの座につきました。

しかし即位すると母が心配していた通り常軌を逸していて人気がなく在位5年で暗殺結局23歳の息子がアレキサンダー1世として即位することになります。父と似たような運命をたどることになったパーヴェル、血といいますか、向き不向きも遺伝するのか。ピョートルにしても、パーヴェルにしても、器にそぐわないことをすると、どうしてもその反動がやってくるのかもしれません。そしてそれを冷酷に見ていたエカチェリーナもまた、だからこそこの時代のロシアの頂点に長く君臨することができたのかもしれません。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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