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家系図でみるチャールズ1世【イギリスで唯一処刑された国王】

2020/11/07
 
チャールズ1世 (肖像画でみるイングランド王)
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謎の女性。歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

1000年以上の伝統を受け継ぐイギリス王室。王の威厳は確固たるもので、肖像画の中に描かれる王族の姿はいつでも圧倒されるものです。そんな伝統と歴史の中で唯一処刑された王こそが、チャールズ1世。こちらの凛々しい姿にはそぐわぬ残酷な最後を迎えた王でもありました。この記事では、なぜイングランド王は処刑されたのか、チャールズ1世という人物にせまっていきます

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チャールズ1世とは

チャールズ1世 (肖像画でみるイングランド王)

チャールズ1世は、ステュアート朝時代のイングランド王。スコットランド、アイルランドも兼ねていました。チャールズ1世は王としても男としても、彼は勇気と威厳をもって死に立ち向かった人物でした。プロテスタントを押し進める議会と、カトリックで絶対王政を強引に進めようとする彼の間には埋められない溝があり、最終的に彼は裁判のうえ処刑されるに至りました。イギリス王室で処刑された王は、後にも先にもチャールズ1世だけです。

 

絶対王政にこだわり、議会と仲違い

ジェームズ1世の子供達 (チャールズ1世 (肖像画でみるイングランド王)

チャールズ一世は王位継承者第一位だった兄のヘンリーが1612年に亡くなり、初めて世継ぎとなりました。チャールズには立派な資質がありましたが、反対に内気で自信がない面もあり、リーダーシップに欠かせないカリスマ性とビジョンにも欠けていたといいます。そういった不安があったからか、絶対王政を無理やりおすすめ権力の分散を提案する議会への妥協を頑なに拒んだことが、ついに内戦の火種となりました。

オリバークロムウェル (チャールズ1世との争い)

チャールズの支持者とオリバー・クロムウェルの議員たちの7年間の戦いは、数千人の命を奪い、最終的には国王自身の命をも奪うことになります。チャールズは反逆罪で有罪となり、1649年1月30日にホワイトハウスの宴会場の外で処されたのです。その後11年間は王が不在の時期が続き、内政はオリバーが見ることとなりました。

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家系図でみるチャールズ1世

ステュアート朝 家系図 (チャールズ1世)

チャールズは1600年11月19日、スコットランドのファイフにあるダンフェルムライン城で誕生しました。イングランドのジェームズ1世 (スコットランド王としてはジェームズ6世) の次男として生まれました。近い祖先には、イングランドを世界に知らしめたエリザベス1世の天敵、メアリー・ステュアートがいます。

 

チャールズ1世の生い立ちと治世

チャールズ1世

生まれた当初は人気があり好感度もたかい兄のヘンリーが王位継承者でありましたが、彼はチフスが原因で18歳で早逝してしまいます。兄ヘンリーが若くして亡くなっていなければイギリスが血なまぐさい内戦で分裂することはなかったかもしれません。

チャールズは病弱な子供で、とても小さく(彼の大人の身長はわずか150cmだった)、2歳になっても歩くことも話すこともできず、父親の自信のなさとわずかな言語障害を受け継いでいましたが、自分の力で克服しようとする努力家でもありました。1603年に彼の父ジェームズ1世が英国の王位を継承 (併任) したとき、一家はロンドンへとうつりました。

 

ヘンリエッタ・マリアとの結婚

チャールズ1世

チャールズは、フランスのアンリエッタ・マリアと結婚します。そして翌年父ジェームズ1世が亡くなると、1626年25歳で即位しました。王室の結婚で生まれた子どもは9人で、その中には未来のチャールズ2世や、オレンジ公ウィリアム2世と結婚したメアリー・ヘンリエッタもいました。

チャールズ1世

 

物議を醸す王、絶対王政に反対する英国議会

チャールズ1世

イングランド王という立場をのぞけば、チャールズは優しく礼儀正しく、誰から見ても愛情深い父親でした。しかし、公の場では、国王の鋭い内気さが高慢で傲慢に見えたのです。チャールズはまた、妻以外は彼の前に座ることを許しませんでしたこれに彼の敵、オリバーをはじめ英国議会を激怒したのです。

彼には共感力が欠けており、反対意見を考慮することを拒否したため彼の人気はますます落ちるばかり。『国王』が絶対的な権力を維持することを望んだチャールズのやり方は、時代の変化にはそぐわなかったのです。

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裁判と国王の処刑

チャールズ1世

絶対王政を推し進める王と、プロテスタントをおす英国議会の亀裂は修復されることもなく、1649年1月27日、裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告されました。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズ1世は斬首されました。

チャールズ1世

こちらが処刑シーンを描いた絵です。斧が振り下ろされたとき民衆は驚き悲しんだといいます。チャールズ1世は、最後に「英国の末永き平和を、世は今現世の王冠を捨て、不滅の王冠をかぶる」といって命をたったといわれています。

世にいう、”王権神授説”とはなにか

チャールズ1世 (神格化)
チャールズはスチュアート朝が支持していた『国王の神格化』に関する概念を父から受け継いでいました彼らは王たちが神によって選ばれて統治し神のみが彼らを征服できると信じていたのです。

チャールズはまた、彼には律法を制定する唯一の権利があると信じていたので、彼に反抗することは神に対する罪であるとして、絶対王政 (独裁) こそが唯一の有効な政治形態だと心から信じていたのです。1636年に完成したバンケティング・ハウスの壮大なルーベンスの天井画は、これらの神聖な原則を賛美するためにチャールズに依頼され描かれたものです。

チャールズ1世とルーベンス

主なキャンバスである 「ジェームズ一世の神格化」 のこの細部では、彼の父親が栄光の雲の中で天に昇る様子が描かれています

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チャールズ1世の最後

1646年、チャールズはクロムウェルに投獄され、ハンプトン・コート宮殿の古いアパートに軟禁されました。彼はすぐに再逮捕され、ワイト島のカリスブルック城で捕虜となりそこで十分な待遇を受けました。

チャールズ1世 (ハンプトン・コート宮殿)

しかし、多くの機会にもかかわらず、チャールズ1世は悔い改め、交渉による平和を求めることを拒否しました。彼は敗北を認めることも、共和制権力に屈服することも頑強に拒んだといいます。

チャールズ1世に与えられたのはわずか3日間でした。彼の状況を整理し家族に別れを告げるために。裁判の後、彼はホワイトホール宮殿の古い部屋に少し離れたところにあるセダンチェアに連れて行かれました。チャールズは、自分の子どもたちとチャプレンのジュクソン司教以外には会うことを拒否しました。翌日、国王はセント・ジェームズ宮殿に移されました。チャールズ1世はこの日、新聞を焼き末っ子のヘンリー・デューク・オブ・グロースター (9歳) とエリザベス王女 (11歳) に哀悼の意を表したといいます。

 

あとがきにかえて

オリバークロムウェル (チャールズ1世との争い)

チャールズ1世が処刑され、国王の不在が11年間続きました

王がいなくなると、オリバークロムェルが内政の舵をとりました。この絵はオリバーがチャールズの棺を覗き「これは必要な残酷である」と呟いている場面を描いています。

さて、父としては優しかったといわれるチャールズ2世の最後の言葉は何だったのでしょうか。彼は末っ子の二人に、どうか悲しまないようにと。正当な王位継承者であった彼らの兄 (のちのチャールズ2世) に従うように言いました。

チャールズ2世

エリザベスは父親にもう会えないことを悟りヒステリックに泣きチャールズ2世は彼女をなだめるために自分の涙を隠したといいます。一時期議会に圧倒されていたイギリスですが、処刑されたチャールズ1世の息子 (チャールズ2世) が王政復古を実現し、国王になるのはそれから11年後のことでした。時代のうねりに呑まれたチャールズ1世、彼は不運な最後を迎えた王として後世まで長く語り継がれることになるのでした。

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