クリストファー・コロンブスは、「アメリカ大陸」を発見した探検家。実際探していたのは「東インド諸島」でしたが、彼が偶然にもたどり着いた大陸にはすでに何百万人もの人々が住んでおりました。この記事ではコロンブスと彼がたどった航路をご紹介します。
- 船乗りとして漂流した先で天文学、数学など多くを学んだコロンブス
- アジアへの近道とし、ヨーロッパから西への航海を提案しアメリカ大陸を発見
- 新大陸の総督となったコロンブスは残虐な植民地支配のはじまりを築いた
冒険家の生い立ち
コロンブスは、イタリア・ジェノバで1451年、羊毛商の息子として生まれました。コロンブスは、まだ10代だった頃に、商船に就職。彼は1476年まで航海を続けていましたが、ある日、ポルトガルの海岸に沿って北上していた彼の船を海賊が襲いました。
船は沈みましたが木くずに捕まってリスボンに漂着した若きコロンブスはそこで、数学、天文学、地図学、航海学を学びました。間も無くして彼は、世界を永遠に変えてしまう計画を練り始めます。
西への航海
15世紀の終わりには、ヨーロッパから陸路でアジアに到達することはほぼ不可能でした。
その道のりは長く険しい物で、敵軍との遭遇は避けられないものだったからです。しかしポルトガルの探検家は海に出ることでこの問題を解決させます。彼らは西アフリカの海岸に沿って南に航行し、喜望峰の周りを航行しました。しかし、コロンブスは他者とは異なった考えをもっていました。

巨大なアフリカ大陸を一周するのではなく、大西洋を西へ航海してみたらどうだろうか
その論理は正しかったのですが、彼の目論見は結果からいうと不完全でした。コロンブスは地球の円周が、同時代人が考えていたよりもずっと小さいと主張していました。まだ誰も通ったことはないが、北西航路があるはずで、そこを経由すればヨーロッパからアジアへの船旅は可能であると考えていたのです。
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新たな航路を見つけに冒険へ
コロンブスは「北西航路」をポルトガルとイギリスに提案しましたが受け入れられず、最終的な支援者となったのは、後のスペイン王国のフェルディナントとイザベラ女王でした。1492年のことです。
コロンバスは富と名声を求めていました。女王らも同じことを望んでおり、カトリシズムを世界中の土地に輸出する野望も持っていました。 コロンブスが見返りとして要求したのは「富の10パーセントと高貴な称号、見つけた土地の統治」と野心溢れたものでした。
コロンブスの航路
1492年8月3日、コロンブスは彼のサンタ・マリア号、と他2隻の船をともなってスペインを出航しました。そして10月12日、彼らはついに陸地を発見しました。コロンブルはその島を、聖なる救世主を意味する「サンサルバドル島」と名付けました。ちなみにこの島は探していた「東インド諸島」ではなく、アメリカ大陸の一部 (現バハマ諸島のひとつ)でありました。
広く知られている通り、初航海で辿り着いたのはアメリカだったのです。しかしここに住んでいた現地の人々をコロンブスたちはインド人だと信じ「インディオ」と呼びました。彼らは近くの島をめぐりましたが、コロンブスがイザベル女王に約束した黄金はみつかりませんでした。
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新しい土地や部族との出会い
しかしコロンブスはスペインへ戻る航路で、コロンブスは金の装飾品を持った部族と遭遇しました。一瞬頭のなかにジパング (世界の記述で紹介された日本のこと、黄金と宝石が豊富な島として知られていた)がよぎりますが、これ以上の探索は次回として、彼は一旦スペインへ戻ります。この航海の成果により、コロンブスは莫大な賞金と海軍提督の地位が与えられました。
その後もコロンブスは何度かこの大陸への航海をおこないましたが、本人も乗船員も「ここがアメリカ大陸である」とは最後まで知らないままでした。コロンブスは「新大陸を発見した勇者」としてもしられていますが、「新世界の総督」としては非人道的な歴史をのこしました。
残虐な「新世界の総督」
17隻〜20隻を引き連れたコロンブスの大船団、2度目の航海は『植民』が目的でした。本国に金を届けるために、多くの人々の命と財産を奪いました。同行したスペイン軍は先住民を殺し、それでも期待していたほどの香料や金銀を得ることはできませんでした。
植民地統治に失敗したコロンブスは、さらに3度目、4度目の航海をおこないますが、満足な富を得ることはできませんでした。
最後は不遇のうちに病気にかかり、スペインで没しました。享年54歳、現地人を同じ人間とはみず、捉えたインディアンを奴隷として本国へ送ったり、金を発掘させるために過剰な労働を強いたり、その行いは悪逆非道なものでした。これは『インディアンへの大虐殺』としてもしられています。
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まとめ
アメリカを発見したのはコロンブスですが、その名の由来となったのはご存知アメリゴ・ヴェスプッチです。フィレンツェの航海者アメリゴ・ヴェスプッチは、数度にわたる航海によって、コロンブスが到着したのはインドではなく、それまで知られていない大陸であったことを確信し帰国後に発表しました。
そうしてコロンブスの死後、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが手がけた地図には、南米大陸の発見者としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が記されました。
この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになったのです。コロンブスはスペインでは英雄ですが、現地では大虐殺者として知られています。コロンブスは希望として祭り上げられた一方、これから何世紀にもわたり繰り広げられる「植民地支配」のはじまりをつくった男でもあるのでした。
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