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【地図で見るコロンブスの航路】新世界の探検家が歩んだ道

2020/07/18
 
コロンブス
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

クリストファー・コロンブスは、「アメリカ大陸」を発見した探検家。実際探していたのは「東インド諸島」でしたが、彼が偶然にもたどり着いた大陸にはすでに何百万人もの人々が住んでおりました。何世紀にもわたる植民地化の始まりをつくったコロンブスを、航路とともにご紹介します。

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大航海時代

時代の先駆者、ポルトガル

大航海時代

15世紀から16世紀にかけてヨーロッパ諸国の指導者たちは海外遠征に出る冒険家を支援しました。莫大な富と広大な未発見の土地を見つけることを期待して、多くのお金を出資したのです。

ポルトガルは「大航海時代」としても知られるこの時代の先駆者でありました。1420年ごろからアフリカ大陸の沿岸をキャラベルを使った小さなポルトガル船が往来し、スパイスや金、奴隷などの物資をアジアやアフリカからヨーロッパに運んでいました

 

植民地をさがして

キャラベル船

他のヨーロッパ諸国、特にスペインは、「極東」の外見上無限の富を共有することを熱望していました。15世紀の終わりまでに、スペインの「レコンキスタ(数世紀にわたる戦争後の王国からのユダヤ人とイスラム教徒の追放)」は完成し、世界の他の地域での探検と征服に関心を向けるようになります。

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コロンブスの提案

冒険家の生い立ち

コロンブス

コロンブスは、イタリア・ジェノバで1451年、羊毛商の息子として生まれました。コロンブスは、まだ10代だった頃、商船に就職しました。彼は1476年まで航海を続けていましたが、ある日、ポルトガルの海岸に沿って北上していた彼の船を海賊が襲いました

海賊

船は沈みましたが木くずに捕まってリスボンに漂着した若きコロンブスは、そこで数学、天文学、地図学、航海学を学びます。そして彼は、世界を永遠に変えてしまう計画を練り始めました。

 

大西洋を西へ航海してみたらどうだろうか

15世紀の終わりには、ヨーロッパから陸路でアジアに到達することはほぼ不可能でした。その道のりは長く険しい物で、敵軍との遭遇は避けられないものだったからです。しかしポルトガルの探検家は海に出ることでこの問題を解決させます。彼らは西アフリカの海岸に沿って南に航行し、喜望峰の周りを航行しました。

希望峰

しかし、コロンブスは他者とは異なった考えをもっていました。「巨大なアフリカ大陸を一周するのではなく、大西洋を西へ航海してみたらどうだろうか」。その論理は正しかったのですが、彼の目論見は結果からいうと不完全でした。

コロンブスが描いたとされる地図

コロンブスは地球の円周が、同時代人が考えていたよりもずっと小さいと主張していました。まだ誰も通ったことはないが、北西航路があるはずで、そこを経由すればヨーロッパからアジアへの船旅は可能であると考えていたのです。

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コロンブス、新たな航路を見つけに冒険へ

航海の支援にでたのはスペイン

コロンブスの帰国 (イザベラとともに)

コロンブスは「北西航路」をポルトガルとイギリスに提案しましたが受け入れられず、最終的な支援者となったのは、後のスペイン王国のフェルディナントとイザベラ女王でした。1492年のことです。

コロンバスは富と名声を求めていました女王らも同じことを望んでおり、カトリシズムを世界中の土地に輸出する野望も持っていました。(敬虔なカトリック教徒であるコロンブスも同じ気持ちを抱いていた) コロンブスが見返りとして要求したのは富の10パーセントと高貴な称号、見つけた土地の統治と野心溢れたものでした。

 

初航海でたどり着いたのは、「アメリカ大陸」

Map showing the route of Columbus' first voyage.

149283日、コロンブスは彼のサンタ・マリア号、と他2隻の船をともなってスペインを出航しました。そして10月12日、彼らはついに陸地を発見しました。コロンブルはその島を、聖なる救世主を意味する「サンサルバドル島」と名付けました。ちなみにこの島は探していた「東インド諸島」ではなく、アメリカ大陸の一部 (現バハマ諸島のひとつ) でありました。

しかしここに住んでいた現地の人々をコロンブスたちはインド人だと信じ「インディオ」と呼びました彼らは近くの島をめぐりましたが、コロンブスがイザベル女王に約束した黄金はみつかりませんでした

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コロンブスからはじまった悲劇

新しい土地や部族との出会い

インディオ (インディアン)

しかしコロンブスはスペインへ戻る航路で、コロンブスは金の装飾品を持った部族と遭遇しました。一瞬頭のなかにジパング (世界の記述で紹介された日本のこと、黄金と宝石が豊富な島として知られていた)がよぎりますが、これ以上の探索は次回として、彼は一旦スペインへ戻ります。この航海の成果によりコロンブスは莫大な賞金と海軍提督の地位が与えられました

その後もコロンブスは何度かこの大陸への航海をおこないましたが、本人も乗船員も「ここがアメリカ大陸である」とは最後まで知らないままでした。コロンブスは「新大陸を発見した勇者」としてもしられていますが、「新世界の総督」としては非人道的な歴史をのこしました

 

残虐な「新世界の総督」

コロンブス

17隻〜20隻を引き連れたコロンブスの大船団、2度目の航海は『植民』が目的でした。本国に金を届けるために、多くの人々の命と財産を奪いました。同行したスペイン軍は先住民を殺し、それでも期待していたほどの香料や金銀を得ることはできませんでした

コロンブス 航路

植民地統治に失敗したコロンブスは、さらに3度目、4度目の航海をおこないますが満足な富を得ることはできませんでした。最後は不遇のうちに病気にかかり、スペインで没しました。享年54歳、現地人を同じ人間とはみず、捉えたインディアンを奴隷として本国へ送ったり、金を発掘させるために過剰な労働を強いたり、その行いは悪逆非道なものでした。これは『インディアンへの大虐殺』としてもしられています。

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あとがきにかえて

アメリゴ・ヴェスプッチ

コロンブス

フィレンツェの航海者アメリゴ・ヴェスプッチは、数度にわたる航海によって、コロンブスが到着したのはインドではなく、それまで知られていない大陸であったことを確信し帰国後に発表しました。

コロンブス

そうしてコロンブスの死後、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなくアメリゴ・ヴェスプッチ』の名前が記されましたこの結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになったのです。スペインでは英雄でも現地では大虐殺者、もし新大陸に出会わなければコロンブスが自らの手を汚すことにはならなかったのかもしれません。

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参考文献

  • https://www.history.com/topics/exploration/christopher-columbus
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Voyages_of_Christopher_Columbus
  • https://www.pinterest.co.uk/pin/410812797234946039/
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Cape_of_Good_Hope
  • 世界の歴史6 ルネサンスと大航海時代 (学研)

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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