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フェルディナント1世【オーストリアハプスブルクの礎を築いた男】

2020/09/12
 
フェルディナント1世
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

フェルディナンド1世は、神聖ローマ皇帝でありボヘミアとハンガリーの王。兄はスペイン黄金期を築いたカール5世彼の代からハプスブルク家はオーストリアと、スペイン系にわかれていくことになります。この記事では、オーストリア・ハプスブルク家の礎を築いたフェルディナント1世を、家系図とともに解説していきます。

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フェルディナント1世とは

ハプスブルク家と、スペイン王女との間に生まれた王子

スペインハプスブルク家 家系図

ハプスブルク家の王子フィリップ美公と、スペイン王女フアナの間にうまれたのが、フェルディナント1世スペインを陽の沈まない帝国にかえたカルロス1世 (カール5世) の弟でもあります。スペイン宮廷でうまれた彼は1521年4月、故郷を離れてウィーンへ向かいました。というのも、ハプスブルク帝国領は兄カール5世ひとりで統治するにはあまりにも大きくオーストリア領を任されることになったのです。

同年5月、フェルディナント大公はボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚します。ここからハプスブルク家は、スペイン系と、ハプスブルク系に別れていくことになります。

 

オーストリア・ハプスブルク家が誕生

カール5世 (マクシミリアン) 家系図

兄帝カール5世が君主となったスペイン・ハプスブルク家、彼の息子フェリペ2世の時代で「世界帝国、スペイン語が地球をまわる」と言われるほど、オーストリア家をはるかにしのぐ繁栄をほこっていました。兄帝はあっちへこっちへ戦いに明け暮れていたわけですが、フェルディナント1世は兄帝とは性格も異なり、明るくおおらかで妻アンナとの間にも15人の子供を授かりました。

フェルディナント1世をもってオーストリア・ハプスブルク家の基礎が築かれていくことになります。華麗なる繁栄を誇ったスペイン・ハプスブルク家が男児に恵まれず、わずか5代で断絶してしまうのと反対にオーストリア・ハプスブルク家は多産に恵まれそのはじまりも皇帝フェルディナント1世夫妻だったといわれています。

Palace of the Dukes and Estates of Burgundy

幼少期をスペイン宮廷で過ごしたフェルディナント1世は、ブルゴーニュ宮廷文化の影響を受けたスペイン宮廷文化、とくに食文化をオーストリアへ伝えたことでも知られています。

 

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フェルディナント1世の治世

勢いをましたオスマン帝国の脅威

モハーチの戦い

オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを陥落させて以来、全バルカン半島を手中におさめ勢いを増していました。オスマン帝国の次のターゲットとなったのがハンガリー1526年にハンガリー国王ラヨシュ2世(妃アンヌの兄)モハーチの戦いでオスマン帝国軍に破れ亡くなりました

フェルディナント1世 と アンナ・ヤギエロ

そして婚姻時に結ばれたハプスブルク家とヤギゥウォ家との協定に基づき、ボヘミア・ハンガリーの王冠はフェリディナント1世が継承することになりました。しかしすんなりはいかず、実際ハンガリーの貴族たちはオスマン帝国と組みハプスブルク家による統治を阻止しようとしました。

ハンガリーを事実上占拠されただけでなくウィーンも全市を包囲という危機に立たされたハプスブルク家。仕方なくルター派の諸侯たちの協力を得て、難を逃れることができました。

 

神聖ローマ皇帝に選ばれるも….

フェルディナント1世

1531年フェルディナント1世はドイツ王の選挙で、選帝侯による投票の結果『神聖ローマ皇帝』に選ばれました。しかしフェルディナント1世がドイツ王に推挙されたとはいえ、ドイツ諸侯たちの反ハプスブルクの動きが止まることはありませんでした。

1555年2月、兄帝カール5世は宗教の自由を認めるために、アウクスブルクでの帝国議会を収集しましたが、彼自身はこれに姿をあらわさず、会議をとりまとめたのはフェルディナントでした。

アウクスブルクの和議

翌年フランクフルトで、フェルディナント1世の神聖ローマ皇帝即位式がおこなわれましたが、宗教改革の方向性は依然として不透明ななか、1564年に皇帝フェルディナント1世は亡くなってしまいます享年61歳でありました。

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その後のハプスブルク家

Ferdinand I's son and Felipe

兄カール5世との生前の取り決めでは、

  • フェルディナント1世の次は、甥フェリペ2世が帝位を継承し、
  • 以後カール5世とフェルディナント1世の家系が交互に継承する

ことになっていましたが、これは無視されて、次の皇帝にはフェルディナント1世の息子マクシミリアン2世が即位しました。スペイン・ハプスブルク家もこれを容認したため、以後もフェルディナント1世の家系、オーストリア・ハプスブルク家が帝位を世襲していくことになります。

 

知っておきたいエピソード

彷徨う狂女フアナ

フェルディナント1世の母は、こちらの絵画『狂女フアナ』で知られる女性です。夫であるフィリップ美公をなくしたことが信じられず、棺を担がせてスペイン中を放浪した母は最終的に幽閉され、その人生を終えました。息子フェルディナントは謹厳なスペイン宮廷で兄弟姉妹と離れて育ちましたが明朗快活だったことでしられています。

マリア

ハンガリー王室との婚姻の際に実妹であるマリアと初めて対面したときも、周囲をはばからず、初対面の妹に駆け寄り抱きしめた、といい、兄カール5世と育ったマリアと良好な関係を持てたことも、後に兄弟間で皇位継承が穏やかに議論された由縁ではないかといわれています。

国はちがえど、婚姻を結ぶなど両家の関係も良好なものでありました。スペインハプスブルク家はわずか5代で断絶しますが、オーストリア・ハプスブルク家は20世紀まで続き、『600年以上世界に君臨した王家』として多くの歴史を刻んでいきます。ここでもし皇帝の座が、フェルディナントの子孫でなく、カール5世の子フェリペ2世にうつっていたのであれば、歴史は全く違ったものになっていたのかもしれません。

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参考文献

  • https://www.britannica.com/biography/Ferdinand-I-Holy-Roman-emperor
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_I,_Holy_Roman_Emperor
  • 図説ヨーロッパ歴史百科 (系譜から見たヨーロッパ文明の歴史) ピエール・ヴィダル=ナケ歴史監修
  • ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した700年王朝 新人物往来者 編
  • ハプスブルク帝国 著 加藤雅彦

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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