【フランソワ1世】勇猛果敢な騎士、フランス文化の基礎を作り上げた華やかな君主

フランス宮廷 フランソワ1世とレオナルド・ダヴィンチその他

「この華やかな王様がいなければ、ルーブル美術館にモナリザはなかった」そう言わしめたのは、フランス・ルネサンス期を代表する王フランソワ一世この記事では、フランスに芸術を根付かせフランス宮廷の礎を築いた人物をご紹介したいとおもいます。

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フランソワ1世とは

フランソワ1世(フランソワ1世の肖像画 在位:1515年 – 1547年)

フランス・ルネサンスの花を咲かせた、ヴァロア朝 9代目のフランソワ1世

遊び人としても有名な彼ですが、当時「陽の沈まぬ王国」を目指し領土拡大に邁進していたスペインのカルロス1世に挑み、戦場でなんども死に掛けようともめげないという勇猛果敢な騎士でもありました

 

惜しみない、芸術への富と貢献

フランソワ1世とレオナルド・ダヴィンチ(モナ・リザ 画・レオナルド・ダヴィンチ)

即位してすぐイタリアに遠征しミラノを陥落したフランソワ1ですが、彼はフランスの芸術振興に貢献したことでも知られています。

イタリア遠征の結果として「文化振興」のために様々なイタリア人芸術家を高額な報酬でフランスへと招き、自国には華やかな文化を根付かせていったのです。有名なのは何といっても、レオナルド・ダ・ヴィンチとの親交でしょうフランソワ1世はレオナルド・ダヴィンチを三顧の礼で迎え、館と年金により安穏な余生を保証しました。

フランシスコ1世は、1819年に描かれたイングレスによって、1519年にレオナルドダヴィンチの最後の息を受け取りました。 (1519年にフランシスコ1世は、レオナルドダヴィンチの最後の息を受け取った)

その結果、生まれたのがあの『洗礼者ヨハネ』『モナリザ』『聖アンナと聖母子』ですから、フランソワ1世の貢献ははかりしれません。この3作品はダヴィンチがフランスで描き、生涯手元に残した作品でもあります。失意のレオナルド・ダヴィンチを招き、穏やかな余生を提供したフランソワ1世レオナルドはフランソワ1世の腕の中で亡くなったという噂がたつほど、晩年の結びつきは強かったとされています。

 

積年のライバルは、ハプスルブルク家カルロス1世

フランシスコ1世とチャールズ5世、神聖ローマ皇帝は1538年にニースの停留所で和解しました。フランシスは実際にチャールズと直接会うことを拒否し、条約は別の部屋で署名されました。(フランシスコ1世とチャールズ5世、神聖ローマ皇帝)

余勢をかって神聖ローマ皇帝の地位を狙ったフランシスコ1世

しかし相対するのは大銀行家フッガーの後ろ建てをもち、万事絶好調のハプスブルク家カルロス1世です結局金銭面で敗北し、またイタリアを舞台に対ハプスブルク戦をつづけますが、勝ったり負けたりを繰り返すもののこちらもパヴィアで大敗。フランソワ1世は、ルロス1世の捕虜にされてしまいます。

パヴィアの大敗(パヴィアの戦い)

30歳でまさか、屈辱の捕虜となったフランソワ1世。「不平等条約」を呑まされ帰国したら何のもの、そんな約束など放棄して戦争をせっせと再開する見上げた根性。スペインとの戦に勝てはしなかったもののランスの領土を守り、政治の安定期を迎えることができたのは、彼の踏ん張りのおかげともいえるでしょう。以後彼は着々と中央集権化を推し進め、絶対王政を強化していくのです。

 

絢爛たるフランス宮廷文化の礎

フォンテーヌブロー宮殿(画像:フォンテーヌブロー宮殿)

フランソワ1世は、フォンテーヌブロー宮殿を大改修し、内部装飾をイタリア人画家たちに任せました。城内には明るい愛欲が特徴の美女水浴図が多く描かれたのですが、その中のひとつが「ガブリエル・デストレとその妹」です。

ガブリエル・デストレとその妹(ガブリエル・デストレとその妹 作者不明)

画中には、奥の部屋の暖炉の上に、裸の男性の下半身が見える絵も掛かっています。貴婦人の入浴図はこの派の画家たちが好んだテーマで、浮気ごころのシンボルとしてしばしば用いられてきました。

ギャラリーフランソワI STのフォンテーヌブロー。フランソワ1世とは

「恋と狩猟と戦争と生」を愛したというフランソワ一世

なんとそれまでは自邸や、修道院にひっそり隠れていた貴婦人を宮廷へと引っ張り出しました。王の城は美しい女性たちで陽気さと華麗さに満ち溢れ、恋の駆け引きうずめく魅惑の快楽と化したのでした。「愉しみ」を見出し、フランソワ1世は、フランスに魅惑の城を作り上げたのです。

彫刻金の布のキャンプ、ジェームズバーシアの1774の油絵によると、xvi 番目の 世紀。

 

英国王室とは真反対、自由なフランス宮廷

ヘンリー8世が寵姫たちと暮らしたハンプトンコート宮殿(【ヘンリー8世がと王妃が暮らした】ハンプトンコート宮殿)

その頃イギリスでは6度も王妃をかえたヘンリー8世が幅をきかせていましたしかし彼の寵姫となったが最期、彼の気持ちが変わればよくて追放、悪くて処刑。女性からしてみれば、命が危ういイギリス王室より、惰性といえば惰性ですが、処女信仰もなければ姦淫への懲罰もなく、人妻が恋人や愛人を持っても批難されることなかったフランス宮廷のほうが、たとえ「王の愉しみ」であれど自由でよかったのかもしれません。

(王との鹿狩りを描いたアンブーリンの20世紀初頭の絵画)

ちなみに同時代に、ヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンフランス宮廷に仕え、より洗練された女性になってイギリスへ戻ったという逸話ものこされています。

 

あとがきにかえて

フランソワ1世と妹(フランソワ1世とその妹) 

19世紀フランスを代表する作家の1人ヴィクトル・ユゴーは、1832年に戯曲『王は愉しむ』を発表しました。フランソワ1世の道化師トリブレが主人公で、トリブレの娘ブランシュが王に弄ばれたため王に復讐をしようとして起きる悲劇を描いた作品です。

フランソワ1世さえ翻弄する美女がいたといいますから、この時代のフランス宮廷は、「愉しみ」と「ドロドロ劇」渦巻く場所であり、清廉潔白を求めた英国とは真逆の立場にあったのかもしれません。何にしろ様々な芸術を求めて奔走したフランソワ1世いまルーブル美術館に「モナ・リザ」があるのも彼のおかげだと考えると、彼が人類史に残した影響ははかりしれないものとも思えてくるのでした。

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