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【フランソワ1世】絢爛たるフランス宮廷文化の礎を築いた皇帝

2020/09/11
 
フランス宮廷 フランソワ1世とレオナルド・ダヴィンチ
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

「この華やかな王様がいなければ、ルーブル美術館にモナ・リザはなかった」そう言わしめた、フランス・ルネサンス期を代表する王フランソワ一世この記事ではフランスに芸術を根付かせフランス宮廷の礎を築いた人物について迫っていきます。

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勇猛果敢な騎士、フランソワ1世

フランソワ1世(フランソワ1世の肖像画 在位:1515年 – 1547年)

フランス・ルネサンスの花を咲かせた、ヴァロア朝 9代目のフランソワ1世彼は遊び人としても有名ですが、当時「陽の沈まぬ王国」を目指し領土拡大に邁進していたスペインのカルロス1世に挑み、戦場でなんども死に掛けようともめげないという、勇猛果敢な騎士でもありました

 

惜しみない、芸術への富と貢献

フランソワ1世とレオナルド・ダヴィンチ(モナ・リザ 画・レオナルド・ダヴィンチ)

フランソワ1世は、フランスの芸術振興に貢献したことでも知られています

  • レオナルド・ダヴィンチを三顧の礼で迎え、館と年金により安穏な余生を保証
  • 即位してすぐイタリアに遠征し、ミラノを陥落

イタリア遠征の結果として「文化振興」のために様々なイタリア人芸術家を(高額な報酬で) フランスへ招き、自国には華やかな文化を根付かせました。

 

レオナルド・ダヴィンチとの振興

フランシスコ1世は、1819年に描かれたイングレスによって、1519年にレオナルドダヴィンチの最後の息を受け取りました。(Francis I receiving the last breath of Leonardo da Vinci in 1519, by Ingres, painted in 1818. 1519年にフランシスコ1世は、レオナルドダヴィンチの最後の息を受け取りました)

その見返りが『洗礼者ヨハネ』『モナリザ』『聖アンナと聖母子』というんですから、フランソワ1世の貢献ははかりしれません。この3作品はダヴィンチがフランスで描き、生涯手元に残しました。失意のレオナルド・ダヴィンチを招き、穏やかな余生を提供したフランソワ1世レオナルドはフランソワ1世の腕の中で永眠したとの伝説も残っているほど、晩年の結びつきは強かったとされています。

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積年のライバル、スペインハプルブルク家のカルロス1世

フランシスコ1世とチャールズ5世、神聖ローマ皇帝は1538年にニースの停留所で和解しました。フランシスは実際にチャールズと直接会うことを拒否し、条約は別の部屋で署名されました。(フランシスコ1世とチャールズ5世、神聖ローマ皇帝)

余勢をかって神聖ローマ皇帝の地位を狙ったフランシスコ1世しかし相対するのは大銀行家フッガーの後ろ建てをもち、万事絶好調のハプスブルク家カルロス1世です結局金銭面で敗北し、またイタリアを舞台に対ハプスブルク戦をつづけますが、勝ったり負けたりを繰り返すもののこちらもパヴィアで大敗。まさかのカルロス1世の捕虜にされてしまったのでした。

 

捕虜になっても何のその

パヴィアの大敗(パヴィアの戦い)

30歳でまさか、屈辱の捕虜となったフランソワ1世。「不平等条約」を呑まされ帰国したら何のもの、そんな約束など放棄して戦争をせっせと再開する見上げた根性。しかしスペインとの戦に勝てはしなかったものの、フランスの領土は守りきり、政治の安定期を迎えることができたのは、彼の踏ん張りのおかげともいえるでしょう。以後彼は着々と中央集権化を推し進め、絶対王政を強化していくのです。

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フランス皇帝の、豪華絢爛なお城

フォンテーヌブロー宮殿(画像:フォンテーヌブロー宮殿)

フランソワ1世はフォンテーヌブロー宮殿を大改修し、内部装飾をイタリア人画家たちに任せました城内には明るい愛欲が特徴の美女水浴図が多く描かれたのですが、そのなかのひとつが「ガブリエル・デストレとその妹」

ガブリエル・デストレとその妹(ガブリエル・デストレとその妹 作者不明)

画中には、奥の部屋の暖炉の上に、裸の男性の下半身が見える絵も掛かっています。貴婦人の入浴図はこの派の画家たちが好んだテーマで、浮気ごころのシンボルとしてしばしば用いられてきました。

 

絢爛たるフランス宮廷文化の礎

ギャラリーフランソワI STのフォンテーヌブロー。フランソワ1世とは

「恋と狩猟と戦争と生」を愛したというフランソワ一世。なんとそれまでは自邸や、修道院にひっそり隠れていた貴婦人を宮廷へと引っ張り出しました。王の城は美しい女性たちで陽気さと華麗さに満ち溢れ、恋の駆け引きうずめく魅惑の快楽と化したのでした。「愉しみ」を見出し、フランソワ1世は、フランスに魅惑の城を作り上げたのでした。

彫刻金の布のキャンプ、ジェームズバーシアの1774の油絵によると、xvi 番目の 世紀。

 

自由なフランス宮廷、真反対の英国王室

ヘンリー8世が寵姫たちと暮らしたハンプトンコート宮殿(【ヘンリー8世がと王妃が暮らした】ハンプトンコート宮殿)

その頃イギリスでは6度も王妃をかえたヘンリー8世が幅をきかせていましたしかし彼の寵姫となったが最期、彼の気持ちが変わればよくて追放、悪くて処刑。女性からしてみれば、命が危ういイギリス王室より、惰性といえば惰性ですが、処女信仰もなければ姦淫への懲罰もなく、人妻が恋人や愛人を持っても批難されることなかったフランス宮廷のほうが、たとえ「王の愉しみ」であれど自由でよかったのかもしれません。

(王との鹿狩りを描いたアンブーリンの20世紀初頭の絵画)

ちなみに同時代に、ヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンもフランス宮廷に仕え、より洗練された女性になってイギリスへ戻ったという逸話ものこされています。

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フランソワ1世とは、結局どういう人物だったのか

フランソワ1世と妹(フランソワ1世とその妹 François Ier et sa sœur, Marguerite de Navarre, peinture de Richard Parkes Bonington, 1827, 46 × 34 cm, Londres, Wallace Collection.) 

19世紀フランスを代表する作家の1人ヴィクトル・ユゴーは、1832年に戯曲『王は愉しむ』を発表しました。フランソワ1世の道化師トリブレが主人公で、トリブレの娘ブランシュが王に弄ばれたため王に復讐をしようとして起きる悲劇を描いた作品です。

フランソワ1世さえ翻弄する美女がいたといいますから、この時代のフランス宮廷は、「愉しみ」と「ドロドロ劇」渦巻く場所であり、清廉潔白を求めた英国とは真逆の立場にあったのかもしれません。何にしろ様々な芸術を求めて奔走したフランソワ1世いまルーブル美術館に「モナ・リザ」があるのも彼のおかげだと考えると、彼が人類史に残した影響ははかりしれないものとも思えてくるのでした。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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