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【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート

2019/11/28
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

ドイツに生まれ「シシィ」の名で愛され親しまれた、絶世の美女、エリーザベト・フォン・ヴィッテルスバッハ (Elisabeth von Wittelsbach) 。女は16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚し、王室の生活に苦しみ、国民の民主的な闘いに共感したことでも知られています。この記事では、まるでお伽話のように、運命に翻弄され、それでも負けずに、立ち向かい続けた彼女の人生をみていきましょう。

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エリザベートの誕生と、幼少時代

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート(画像引用元:https://www.nationalgeographic.com/history/magazine/2019/05-06/empress-elisabeth-of-austria/)

幼少期を過ごしたドイツの地、バイエルン

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート

エリザベスは、現在ドイツ最大の都市となっているバイエルンで育ちました。

 

エリザベートの両親 (肖像画)

エリザベートの父(マクシミリアン・ジョセフ公爵)

エリザベートはバイエルンのマクシミリアン・ジョセフ公爵と、バイエルンのマクシミリアン一世の娘ルドヴィカ王女の間にうまれた、4人目の子供でした。こちらがエリザベートの父親マクシミリアン・ジョセフ (ヨーゼフ) 、とてもダンディですね。そしてこちらがエリザベートの母、バイエルン王女のルドヴィカです。

エリザベートの母「バイエルン王女ルドヴィカ」 ヨーゼフ・カール・シュティーラー1828年

 

家柄にしばられない、自由な生活を満喫

若き日のシシィ エリザベート(『ポッセンホーフェン城でのエリザベスの馬術肖像』1853年)

父はバイエルン公の称号を持つバイエルン王国の貴族と、由緒ある家に生まれたエリザベート幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎し、エリザベートは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していた)、また狩りに行くなどしていたといいます。王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していたのです。

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ミュンヘン南部で、自然を愛したエリザベート

シシィ エリザベート11歳のエリザベス、彼女の兄弟カール・テオドール、バイエルンの公爵

エリザベスは若い頃から「シシィ」という愛称で呼ばれ、自然を愛し、ミュンヘン南部のシュタルンベルク湖のほとりにある快適な家族の邸宅で夏を過ごしました。彼女の子供時代は、その時代と彼女の地位にしては珍しく、形式ばらなかったといいます。彼女の父親である公爵は音楽を愛し、特にリベラルな見解を持っていたため、それが子供たちにも影響を与えたのでした。

 

オーストリア皇帝の一目惚れで、変わる運命

エリザベート皇后 ハプスブルク展『エリザベート皇后』フランツ・クサーヴァー・ヴィンター・ハルター 1865年

エリザベートの運命が大きく動き出すのは、ここからです。母ルドヴィカは子供が成長するにつれて、彼女らの結婚を考えるようになりますそして1848年、母は18歳でオーストリア皇帝になった、当時独身のフランツ・ヨーゼフに狙いを定めたのでした。

エリザベートの夫 フランツヨーゼフ(若き日のフランツ・ヨーゼフ Wikipediaより引用.)

 

お見合い相手は、長姉ヘレーネ

エリザベートの姉ヘレーネ(トゥルン・ウント・タクシス侯世子夫人ヘレーネ、1859年)

15歳の時、エリザベートはまだ幼く、王妃になる可能性は低いと考えられていました王妃としての、優雅さ、敬虔さ、そして控えめさといった資質を備えた長姉のヘレネがお見合い相手に選ばれたのです。話し合いの末、ヘレネは1853年の婚約を目指して、皇族が集ったバート・イシュルに招かれます。

 

しかしフランツの心を射止めたのは、妹のシシィ

シシィと愛されたエリザベート(Photograph of Elisabeth as Queen of Hungary (by Emil Rabending [cs], 1867))

周到に設定された顔合わせの席で、フランツ・ヨーゼフはたちまち恋に落ちたといいますしかしその相手は、姉のヘレーネではなく、彼女の見合いにおもしろ半分でついてきたその妹、15歳のシシィだったのです何に縛られることなく、自由にのびのびと振る舞う愛らしいシシィは、宮廷にがんじがらめになっている、几帳面で融通のきかないヨーゼフにとって、魅力的に思えたことでしょう。

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婚約相手だけは譲れなかった、若き日のフランツ・ヨーゼフ

フランツ・ヨーゼフ ゾフィの息子であり、エリザベートの夫(http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.htmlより引用)

フランツ・ヨーゼフは母の統治力に全幅の信頼を置き、生涯にわたり従順にふるまいました。しかしこの「エリザベート」との結婚だけは、母がどんなに意義を唱えても意思を押し通したのですこれが「まるでお伽話」といわれる所以ですね。

 

シシィこと、エリザベートの心情

(Photograph of Elisabeth as Queen of Hungary (by Emil Rabending [cs], 1867))

皇帝がシシィに夢中になる一方で、彼女自身は不安に襲われていました彼女は悲しげに「私は皇帝を愛しています。彼が皇帝でなければいいのに」と書きのこしています。そして1854年4月24日、フランツ・ヨーゼフ帝とバイエルンのエリザベートとの結婚がウィーンで正式に承認され、シシィはオーストリアの皇后となったのです。

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エリザベートを待っていたのは、壮絶な宮廷生活

ハプスブルク家 エリザベート皇后(http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.htmlより引用)

こうしてハプスブルク家の一員となったエリザベートですが、慣れない宮廷での規則づくめの日々、公式行事にたちまち滅入ってしまいますフランツ・ヨーゼフは新しい花嫁を「とても愛している」と公言していましたが、朝4時にはおきて5時には執務開始という忙しさで、彼女にかける時間がほとんどありませんでした。それなのに、彼女の人生は注意深く管理され、監視されていたのですから、いままで自由に過ごしていたエリザベートには辛いものだったのでしょう。

 

嫁姑戦争、悪役として知られるゾフィの本当の姿

エリザベートの継母ゾフィゾフィーと長男のフランツ・ヨーゼフ、1830年頃

ミュージカル『エリザベード』では、若く美しいエリザベートを悲劇のヒロインとして描いていますが、実際はどうだったのでしょうか名門ハプスブルク家へ嫁いで苦労したのはゾフィも同じでした。

 

ゾフィの本当の姿は、“才知と精力を備えた、有能な女性”

フランツの母ゾフィーゾフィー大公妃(1832年)

皇帝家に世継ぎをもたらすことを期待されたゾフィー は、幾度かの流産と、療養を経て、結婚後6年目にようやく長男のフランツ・ヨーゼフを出産します。。1848年革命の波がオーストリア帝国にも襲いかかると、ゾフィーは君主政を護持することを強く決意しました。大公妃は才知と精力を備えた有能な女性であり、息子のフランツ・ヨーゼフ1世の治世初期には、保守主義の庇護者として、オーストリア帝国の政治に絶大な影響力を及ぼしたといわれています。(参考記事【エリザベートの継母】ゾフィーは、本当に悪者だったのか

 

襲いかかる革命と、動乱のヨーロッパ

 エリザベートの継母 ゾフィ(晩年のゾフィー大公妃、1866年撮影)

帝国の臣民たちは、ゾフィーを密かに「宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)」と評していたほどに、ゾフィーも国を考える立派な王妃でしたそのため皇妃となったエリザベートにも、おしゃれや遊びにうつつを抜かし、気ままを続けるのでなく、帝国の安定が第一といった覚悟をもたなければ、この動乱の時代を乗り切れない、と思っていたのかもしれません。

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姑に子供を取られた、エリザベートの代償行為

美に執着するエリザベート(http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.htmlより引用)

しかしそんなエリザベートですが、結婚の翌年に早くも長女が生まれます。しかし姑ゾフィは「この未熟で若い嫁に、子育ては無理」として、自分が育てることを主張するのです。次女が生まれた時にも、同じことが起きたわけですが、エリザベートは立ち向かい、幼い娘を自分の部屋に移しました。

しかし幸せは続かず、1857年の春、ゾフィの反対を押し切り、エリザベートは無理やり2歳の娘をハンガリーへの長旅に連れ出し、その子を (赤痢により) 病死させてしまいます結果として、次々うまれた子供はゾフィの手にわたり、エリザベートは代償行為として国外旅行、美容といった代償行為に熱中していくのでした。

 

異常なほどの、美への執着

(https://www.nationalgeographic.com/history/magazine/2019/05-06/empress-elisabeth-of-austria/より引用)

美女として名を馳せるエリザベートですが、それを維持するためには多くの時間を費やしていました。記録によると、彼女は1日3時間、長い髪の手入れをしていて、着付けの際、腰を19.5インチ (約cm) にまで縮めるのに約1時間かけたといいます。年をとるにつれてしわが恐くなり、寝ている間に顔に生の子牛肉のスライスを巻き付けることさえあったといいます。

また食事を厳しく制限して、きびしい運動計画を維持し、ハイキング、乗馬、重量挙げ、柔軟体操など、毎日何時間もの厳しい運動をしていましたこういった異常ともいえる美への執着は、現代の摂食障害の症状に似た不健康な強迫観念といったものだったのかもしれません。

 

ウィーンからの逃亡

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート

エリザベートはウィーンの息苦しい雰囲気から逃れるため、医師のアドバイスを受けてポルトガルのマデイラ島に向かい、大西洋を見下ろす別荘に住みました自然溢れる地で、彼女は詩を読み、歩き、周囲の自然界に没頭したのです。エリザベートは1861年にウィーンに戻りましたしかしそこで生活を再開するや否や、ソフィー大公妃との緊張が再び高まりますエリザベートは公共の行事への出席を拒否し、身体的および神経的な病気を訴え、医師の助言をうけ、地中海の島コルフ島へいくことになります。翌年1862年、バイエルンの家族に会いに行った後、彼女は再びウィーンに戻りました

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それでも、シシィが国民から愛された理由

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート

純粋無垢なまっすぐさと、意思の強さ

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート(フランツ・ヨーゼフとシシは、ブダペストのマティアス教会で、ハンガリーの王と女王に戴冠している。カラーリトグラフ、1867年)

特にエリーザベトが心安らぐ場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーでした。ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けたといいます。その熱意は、勉強が大嫌いだった彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどだったといいます。穏健独立派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たす、など政治的にも活躍しました。

 

シシィと愛された彼女の、悲しい最期

エリザベートの最期

エリザベート晩年の最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺でした。暗殺説もありましたが、のちにルドルフの心中相手が自分の母宛に送った遺書が発見されています。夫フランツ1世の死後、喪服を着続けたマリア・テレジアに倣い、その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐことはありませんでした。そして彼女自身も、1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じることになるのです。

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あとがきにかえて

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート(https://es.wikipedia.org/wiki/María_Valeria_de_Austriaより引用)

彼女を殺したイタリアのアナキスト、ルイージ・ルッチェニは告白の中で、自分自身は皇后に対して何もしておらず、ただ国王を殺したいと思っているだけだと述べたそうです。エリザベートは地中海沿岸に埋葬されたいと願っていましたが、フランツ・ヨーゼフはその願いを却下し、代わりにウィーンのカプチン・クリプトに埋葬しました。

時に堂々と公務を投げ出しつつも、皇妃としての生涯をやり遂げたエリザベート。決して愛したことも理解したこともない街の中心にじっと横たわっている彼女は、運命に翻弄された人生を終え今なにを思うのでしょうか。オーストリアにはシシィ博物館があり、彼女が愛した品々が飾られており、現在も多くの人が訪れているそうです。ちなみにこちらの美しい絵画は、2019年上野で開催されているハプスブルク展で見ることができますのでぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

ハプスブルク家シリーズの続編はこちら

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参考記事

  • https://www.nationalgeographic.com/history/magazine/2019/05-06/empress-elisabeth-of-austria/
  • http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.html
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Empress_Elisabeth_of_Austria

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