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シシィと愛されたハプスブルク皇妃、エリザベートの生涯 (前編)

2020/09/06
 
シシィと愛されたエリザベートの生涯
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ドイツに生まれシシィ」の名で親しまれ愛された、絶世の美女エリザベートオーストリア皇帝フランツに見初められ結婚に至るも、宮廷のしきたりに馴染めず苦しんだ女性のひとりです。この記事ではまるで、お伽話のように運命に翻弄され、それでも立ち向かい続けた彼女の人生をみていきます

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エリザベートの誕生と、幼少時代

エリザベート

幼少期を過ごしたドイツの地、バイエルン

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート

エリザベスは、現在ドイツ最大の都市となっているバイエルンで育ちました。

シシィの両親 (エリザベート)

こちらのダンディな男性と美女がエリザベートの両親です。エリザベートは2人の間にうまれた、4人目の子供でした。彼女の類稀なる美しさはこの両親から引き継いだものなのかもしれません。

 

家柄にしばられない、自由な生活を満喫

エリザベート16歳の肖像画 (16歳のエリザベート)

父はバイエルン公の称号を持つバイエルン王国の貴族。由緒ある家に生まれたエリザベート幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり、借りにいくなどして、活発な少女だったといわれています。

もちろん住民は、王家に連なる身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎し、エリザベートは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していたそうです。エリザベートは王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため、幼少期は自由奔放に人生を満喫していたのです。

 

ミュンヘン南部で、自然を愛したエリザベート

シシィ エリザベート11歳のエリザベス、彼女の兄弟カール・テオドール、バイエルンの公爵

エリザベスは若い頃から「シシィ」という愛称で呼ばれ、自然を愛し、ミュンヘン南部のシュタルンベルク湖のほとりにある快適な家族の邸宅で夏を過ごしました。彼女の子供時代は、その時代と彼女の地位にしては珍しく、形式ばらなかったといいます。彼女の父親である公爵は音楽を愛し、特にリベラルな見解を持っていたため、それが子供たちにも影響を与えたといいます。

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オーストリア皇帝の一目惚れで、変わる運命

エリザベート皇后 ハプスブルク展『エリザベート皇后』フランツ・クサーヴァー・ヴィンター・ハルター 1865年

エリザベートの運命が大きく動き出すのは、ここからです。母ルドヴィカは子供が成長するにつれて、彼女らの結婚を考えるようになります。そして1848年、母は18歳でオーストリア皇帝になった、当時独身のフランツ・ヨーゼフに狙いを定めたのでした。

エリザベートの夫 フランツヨーゼフ(若き日のフランツ・ヨーゼフ Wikipediaより引用.)

 

最初のお見合い相手は、長姉ヘレーネ

エリザベートの姉ヘレーネ(トゥルン・ウント・タクシス侯世子夫人ヘレーネ、1859年)

当時エリザベートは15歳と幼く、王妃になる可能性は低いと考えられていました。というわけで、『王妃としての、優雅さ、敬虔さ、そして控えめさといった資質を備えた、長姉のヘレネがお見合い相手に選ばれたのです。話し合いを重ねてシシィの姉ヘレネは、1853年の婚約を目指して皇族が集ったバート・イシュルに招かれます。

 

しかしフランツの心を射止めたのは、妹のシシィ

シシィと愛されたエリザベート(Photograph of Elisabeth as Queen of Hungary (by Emil Rabending [cs], 1867))

周到に設定された顔合わせの席で、フランツ・ヨーゼフはたちまち恋に落ちたといいます。しかしその相手は、姉のヘレーネではなく、(彼女の見合いにおもしろ半分でついてきたその妹)15歳のシシィだったのです。何に縛られることなく、自由にのびのびと振る舞う愛らしいシシィ宮廷にがんじがらめになっている、几帳面で融通のきかないヨーゼフにとって、魅力的に思えたことでしょう。

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婚約相手だけは譲れなかった、若き日のフランツ・ヨーゼフ

フランツ・ヨーゼフ ゾフィの息子であり、エリザベートの夫(http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.htmlより引用)

フランツ・ヨーゼフは母ゾフィの統治力に全幅の信頼を置き、生涯にわたり従順にふるまいましたしかしこのエリザベートとの結婚だけは、母がどんなに意義を唱えても意思を押し通したのです。これが「まるでお伽話」といわれる所以ですね。

 

シシィこと、エリザベートの心情

(Photograph of Elisabeth as Queen of Hungary (by Emil Rabending [cs], 1867))

皇帝がシシィに夢中になる一方で、彼女自身は不安に襲われていました。彼女は悲しげに「私は皇帝を愛しています。彼が皇帝でなければいいのに」と書きのこしています。そして1854年4月24日、フランツ・ヨーゼフ帝とバイエルンのエリザベートとの結婚がウィーンで正式に承認され、シシィことエリザベートはオーストリアの皇后となったのです。

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エリザベートを待っていたのは、壮絶な宮廷生活

ハプスブルク家 エリザベート皇后(http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.htmlより引用)

こうしてハプスブルク家の一員となったエリザベートですが、慣れない宮廷での規則づくめの日々、公式行事にたちまち滅入ってしまいます。「フランツ・ヨーゼフは新しい花嫁をとても愛している」と公言していましたが、彼はの生活は朝4時にはおきて5時には執務開始という忙しさ。彼女にかける時間がほとんどありませんでした。にも関わらずエリザベートは注意深く管理され、監視されていたのですから、いままで自由に過ごしていたエリザベートには辛いものだったのでしょう。

 

嫁姑戦争、悪役として知られるゾフィの本当の姿

エリザベートの継母ゾフィゾフィーと長男のフランツ・ヨーゼフ、1830年頃

ミュージカル『エリザベード』では、若く美しいエリザベートを悲劇のヒロインとして描いていますが、実際はどうだったのでしょうか。名門ハプスブルク家へ嫁いで苦労したのは、継母ゾフィも同じでした。

 

ゾフィの本当の姿は、“才知と精力を備えた、有能な女性”

フランツの母ゾフィーゾフィー大公妃(1832年)

皇帝家に世継ぎをもたらすことを期待されたゾフィー (フランツの母) は、幾度かの流産と、療養を経て、結婚後6年目にようやく長男のフランツ・ヨーゼフを出産します。1848年革命の波がオーストリア帝国にも襲いかかると、ゾフィーは君主政を護持することを強く決意しました。大公妃ゾフィは才知と精力を備えた有能な女性であり、息子のフランツ・ヨーゼフ1世の治世初期には、保守主義の庇護者としてオーストリア帝国の政治に絶大な影響力を及ぼしたといわれています。

ハプスブルク家 家系図 ゾフィとエリザベート(参考【エリザベートの継母】ゾフィーは、本当に悪者だったのか

 

襲いかかる革命と、動乱のヨーロッパ

 エリザベートの継母 ゾフィ(晩年のゾフィー大公妃、1866年撮影)

帝国の臣民たちはゾフィーを密かに宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)と評していたほどに、ゾフィーは国を考える立派な王妃でしたそのため皇妃となったエリザベートにも、同じことをもとめていたのかもしれません。おしゃれや遊びにうつつを抜かし、気ままを続けるのでなく、帝国の安定が第一といった覚悟をもたなければ、この動乱の時代を乗り切れないですよ、と。

一方子供を継母に奪われたエリザベートは、空虚な心を抱えながら自らの美へ異常な執着を強めていったのでした。 (物語は後編へとつづきます)

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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