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シシィと愛されたハプスブルク皇妃、エリザベートの生涯 (後編)

 
sisii
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

窮屈な宮廷生活に疲れ、唯一の望みである子供を継母に取り上げられたエリザベート空虚な心を紛らわすため、異常ともいえる美への執着がはじまっていくのでした。(こちらは前編につづく後編です)

姑に子供を取られた、エリザベートの代償行為

美に執着するエリザベート(http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.htmlより引用)

しかしそんなエリザベートですが、結婚の翌年に早くも長女が生まれます。しかし子育てに祭して、継母ゾフィとエリザベートはぶつかります。姑ゾフィは「この未熟で若い嫁に、子育ては無理」として、自分が育てると言いつれていってしまいます。次女が生まれた時にも同じことが起きたわけですが、エリザベートは今度は立ち向かい、幼い娘を自分の部屋に移しました。

しかし幸せは続かず、1857年の春、ゾフィの反対を押し切り、エリザベートは無理やり2歳の娘をハンガリーへの長旅に連れ出し、その子を (赤痢により) 病死させてしまいます結果としてうまれた子供はゾフィの手にわたり、エリザベートは悲しさのあまり、国外旅行、美容といった代償行為に熱中していくのでした。

 

エリザベートの代償行為、異常なほどの「美」への執着

(https://www.nationalgeographic.com/history/magazine/2019/05-06/empress-elisabeth-of-austria/より引用)

美女として名を馳せるエリザベートですが、それを維持するために多くの時間を費やしていました。記録によると、

  • 彼女は1日3時間、長い髪の手入れをしていて、
  • 着付けの際、腰を19.5インチ (約cm) にまで縮めるのに約1時間かけた

といいます。年をとるにつれてしわが恐くなり、寝ている間に顔に生の子牛肉のスライスを巻き付けることさえあったといいます。また食事を厳しく制限して、ハイキング、乗馬、重量挙げ、柔軟体操など、毎日何時間もの厳しい運動をしていましたこういった異常ともいえる美への執着は、現代の摂食障害の症状に似た不健康な強迫観念といったものだったのかもしれません。

 

エリザベートはついに、ウィーンから逃亡

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート

エリザベートはウィーンの息苦しい雰囲気から逃れるため、医師のアドバイスを受けてポルトガルのマデイラ島に向かい、大西洋を見下ろす別荘に住みました。自然溢れる地で、彼女は詩を読み、歩き、周囲の自然界に没頭したのです。エリザベートは1861年にウィーンに戻りましたしかし継母との亀裂はかわらず、そこで生活を再開するや否や、ソフィー大公妃との緊張が再び高まります。エリザベートは公共の行事への出席を拒否し、身体的および神経的な病気を訴え、医師の助言をうけ、地中海の島コルフ島へいくことになります。翌年1862年、バイエルンの家族に会いに行った後、彼女は再びウィーンに戻りました

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それでも、シシィが国民から愛された理由

純粋無垢なまっすぐさと、意思の強さ

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート(フランツ・ヨーゼフとシシは、ブダペストのマティアス教会で、ハンガリーの王と女王に戴冠している。カラーリトグラフ、1867年)

特にエリーザベトが心安らぐ場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーでした。ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリザベートは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けたといいます。その熱意は勉強が大嫌いだった彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどだったといいます。王室では異例といわれるほど、病人や弱い人の立場に寄り添ったエリザベート結果として、ハンガリーの自治権回復にも寄与するなど、政治的にも活躍しました。

 

シシィと愛された彼女の、悲しい最期

エリザベートの最期

エリザベート晩年の最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺でした。暗殺説もありましたが、のちにルドルフの心中相手が自分の母宛に送った遺書が発見されています。夫フランツ1世の死後、喪服を着続けたマリア・テレジアに倣い、その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐことはありませんでした

そして1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、彼女自身も、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに短剣のようなヤスリで心臓を刺されて、その生涯を閉じることになりました。愛する息子を失い、一時は死を望んでいたというエリザベート。夫フランツはエリザベートの死に深く悲しみましたが、一方で自殺ではなかったことを知り安心した、とも言われています。

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あとがきにかえて

【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート(https://es.wikipedia.org/wiki/María_Valeria_de_Austriaより引用)

彼女を殺したイタリアのアナキスト、ルイージ・ルッチェニは告白の中で、自分自身は皇后に対して何もしておらず、ただ国王を殺したいと思っているだけだと述べたそうです。エリザベートは地中海沿岸に埋葬されたいと願っていましたが、フランツ・ヨーゼフはその願いを却下し、代わりにウィーンのカプチン・クリプトに埋葬しました。

時に堂々と公務を投げ出しつつも、皇妃としての生涯をやり遂げたエリザベート。決して愛したことも理解したこともない街の中心にじっと横たわっている彼女は、運命に翻弄された人生を終え今なにを思うのでしょうか。彼女の活躍や、最後の細かい様子などはこちら (【民衆から愛されたシシィ】病んでも平和を願った優しき皇后) に詳しく記載しておりますので、興味のある方はぜひ。自身が精神病に苦しんだからこそ、人の痛みがわかる優しき皇后の物語です。

ハプスブルク家シリーズの続編はこちら

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参考記事

  • https://www.nationalgeographic.com/history/magazine/2019/05-06/empress-elisabeth-of-austria/
  • http://www.andrerieutranslations.com/news_and_Misc/Empress-Sisi.html
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Empress_Elisabeth_of_Austria

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