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【ハプスブルク帝国とは】歴史と魅力を徹底解説

2019/07/31
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

640年のなかに眠る歴史と物語の数々絵画にみえる豪華絢爛な生活権威の裏にある生々しい覇権争いハプスブルク家の歴史は調べても調べても興味が尽きないほど色濃いものです。今日はそんなハプスブルク帝国の魅力をご紹介します。

 

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ハプスブルク帝国と、ハプスブルク家の違いってなに

ハプスブルク帝国とは

ハプスブルク帝国は、オーストリア系ハプスブルク家の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合です。もっとわかりやすくいうと、ハプスブルク帝国 (Habsburgermonarchie)とは、1526年から1804年の間にハプスブルク大公国と、個人的に同盟を結んだ諸王国および諸国をさします。なおこれは歴史家の非公式な用語だそうです。王朝の都はウィーンでしたが、1583年から1611年までプラハに移されました。

ハプスブルク家とは

ハプスブルク家とは、ヨーロッパで最も影響力があり際立った王室の家の一つです。神聖ローマ帝国の王座家はまた 、それぞれの植民地とともに、ボヘミア、ハンガリー、クロアチア、ガリシア、ポルトガル、スペインの皇帝や王、ならびにいくつかの首相の支配者を生み出しました。16世紀からチャールズ5世の治世に続き、王朝はオーストリアスペインに枝分かれし、異なる領土を統治しましたが度々婚姻も結んでいました。

君主制を知ると、歴史がみえてくる

ちなみに君主政とは一人の支配者が統治する国家形態であり、伝統的には君主が唯一の主権者である体制のことです。ハプスブルク家も採用していました。

豆知識 ハプスブルク帝国一覧

(画像はハプスブルク帝国(ハプスブルク家)の旗)

下記が1911年のオーストリア=ハンガリー帝国領です。

  • ハプスブルク家世襲領(現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント)
  • ベーメン王冠領(ベーメン、メーレン、シュレージエン、ラウジッツ)
  • ハンガリー王冠領(ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家)
これら以外にも歴史上、以下の地域がハプスブルク帝国の領域となったといわれています。
  • 南ネーデルラント (現在のベルギーとルクセンブルク、1713年 – 1792年)
  • ミラノ公国 (ロンバルディア、1713年 – 1797年)
  • ナポリ王国 (1713年 – 1735年)
  • サルデーニャ (1713年 – 1720年)
  • バナト・テメスヴァル (1718年 – 1778年)
  • セルビア (1718年 – 1739年)
  • ボスニア (1718年 – 1739年)
  • オルテニア (1718年 – 1737年)
  • シチリア王国 (1720年 – 1735年)
  • パルマ公国 (1735年 – 1748年)
  • ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドとウクライナの一部、1772年 – 1918年)
  • ブコビナ (1774年 – 1918年)
  • ヴェネト (1797年 – 1805年, 1814年 – 1866年)
  • ダルマチア (1797年 – 1805年, 1814年 – 1918年)
  • ロンバルディア (1814年 – 1859年)
  • ホルシュタイン (1865年 – 1866年)
  • ボスニア・ヘルツェゴビナ (1908年 – 1918年)

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ハプスブルク家が表舞台に現れたのは13世紀

Jean-Gaspard Gevaerts /  CC BY-SA 3.0

ハプスブルク帝国の創設は1273年にドイツの王となったルドルフ1世によるものです。彼はハプスブルク家の一員であり、ハプスブルク家における最初の神聖ローマ帝国君主した人物です。

ハプスブルク伯としては、ルドルフ4世。ルドルフ1世のローマ王(ドイツ王)選出によりハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れ、ハプスブルク家はヨーロッパ有数の家門に発展したのです。ルドルフの採った外交政策と軍事政策は成功を収め、混乱の続いていた帝国に20年近い平和をもたらしました。そしてルドルフは諸侯の思惑に反してハプスブルク家の富と権力を増やしていき、神聖ローマ帝国に地盤を作り上げたのです。ルドルフはウィーンに一門の拠点を移し、20世紀に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地となりました。

 

知られる近親婚、結婚・同盟は帝国成長への鍵

(Photo: Anton Petter/CC BY-SA 3.0)

結婚を武器に領地を拡大していったハプスブルク家。そのわかりやすい例が、武勇に秀で体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われているマクシミリアン大帝Maximilian der Große)です。彼は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ三世の息子で、フランスのシャルル・ド・ボールド王の娘メアリと結婚その結果、マクシミリアンは後に神聖ローマ帝国皇帝(1477年)となり、オランダ、ルクセンブルグ、フランスの一部を支配下に置いた。ハプスブルグ家はヨーロッパでの影響力を大いに拡大したのです。

華々しい影響力の影にある不都合な事情と、近親婚

(フィリップとフアナ女王(1505年)

マクシミランがハプスブルク王朝に与えた最大の貢献は、息子のフィリップフアナ (カスティーリャ女王)の結婚を確かなものにしたこと、だといわれています。「狂女フアナ」(Juana la Loca)という異名でも知られていましたが、彼女はスペインのフェルディナンドとイザベラの娘であり、多くの金と土地と名声を持ってやって来たのです。フィリップの元に生まれたのが、カルロス(スペイン王カルロス1世、ローマ皇帝カール5世です。しかしハプスブルク家によって浸透された広大な土地と王族は、近親交配の文化に直接つながり最終的に一家を滅ぼすことにもなりました。

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王が彼の姪と結婚したとき、物事は奇妙な方向へ

写真:  Bernhard Strigel schilderde、1516年に辞任 / WikiMedia Commons / CC BY-SA 3.0

ハプスブルク家の巨大な影響力を考えると、権力の維持と、それを可能にする結婚の手配の難しさがみえてきます。カール5世の娘マリアは1548年に従兄弟のマクシミリアン(フェルディナンドとアンの息子)と結婚しました。息子のフィリップは姪マリア・マクシミリアンの娘でオーストリアのアンナと結婚した。「高貴なる青い血」、血統をつないでおくことは王朝の権力にとって理想的であったが、このような結婚は血縁関係の緊密化を引き起こしたのです。

 

時代が進むほどに、結婚はより近親へ

Photo: Artist Unknown/Public Domain

集学的雑誌PLOS Oneで発表された2009年の遺伝学研究によると:

「スペインのハプスブルク家では、乳幼児死亡率が非常に高かった。フィリップII世とチャールズII世がそれぞれ生まれた1527年から1661年までのスペイン王室には34人の子供がいたが、そのうち10人(29.4%)は1年以内に死亡し、17人(50.0%)は10年以内に死亡した。」“[I]nfant and child mortality was very high in the Spanish Habsburg families. From 1527 to 1661, when Philip II and Charles II were born respectively, the Spanish royal families had 34 children, 10 (29.4%) of them died before 1 year, and 17 (50.0%) of these children died before 10 years.”  

という結果がでています。著者であるAlvarez氏、Ceballos氏、Quinteiro氏は、ハプスブルク家の乳幼児死亡率の高さは、結婚と近親交配の結果であると主張しています。彼らが近交係数と呼んでいるものは時間の経過とともに増加した。新鮮な血液が家系に入ることはほとんどなく、深刻な健康上の問題が避けられないとのこと。

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高貴な血を守り、領地拡大の結婚の末に生まれた悲劇も

こちらの画像(スペインハプスブルク家の)チャールズ2世はハプスブルク近親交配の頂点であり、それが家系の連続性にどのように影響したかを示しています。彼の両親、オーストリアのフィリップ4世とマリアナには5人の子供がいたが、そのうち2人だけが成人するまで生きることができました。チャールズ2世は2度結婚したが、どちらの場合も子供を産むことができませんでした。(詳しくはこちらの記事参照(【ハプスブルク家】高貴な青い血, 顎にみえる禁断の歴史

 

華々しい領地拡大の裏にあった、生々しい現実

(写真:Juan de Flandes / CC BY-SA 3.0)

ハプスブルク家の結婚生活は、時間の経過とともにますます多くの医学的問題を生み出していきました。ジョアン・ザ・マッドと彼女の精神状態に関する推測は、彼女の両親がいとこ同士であったという事実と関連していたといいます。神聖ローマ帝国皇帝ルドルフII世に焦点を合わせて、どの統治者が精神疾患を経験したかについての推測があります。1552年に生まれた彼は、スペインのマッド・ジョアンの孫であり、彼のうつ病は、彼の政治的権威をひどく妨げました。結果的に彼は弟に権力を譲らざるをえず、名ばかりの地位にとどまったのです。華々しい繁栄の裏には、一族が身体的・精神的に弱っていっていたという事実もあったのです。

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あとがきにかえて、ハプスブルク家の魅力を

ハプスブルク家は中世から、20世紀初頭まで640年という長きにわたり、周囲の国々と婚姻関係を結んで網目状に領土を拡大してきた巨大な王朝です。640年に渡り、多くの絵画であり、エピソードであり、歴史が残されています。いまだに多くの人の興味を引き付けるのは、ロマンに溢れる栄華や豪華さ、領地拡大の裏にある不都合な事情、人間の織りなす生々しいストーリーがあるからではないでしょうか。

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執筆のために参考にした記事

  • File:Bernhard Strigel Karel in 1516.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bernhard_Strigel_Karel_in_1516.jpg
  • How One Of The Most Powerful Families In History Destroyed Itself Through Inbreeding https://www.ranker.com/list/habsburg-dynasty-inbreeding-history/melissa-sartore
  • File:Maximilian I and Maria von Burgund.jpg https://www.ranker.com/list/habsburg-dynasty-inbreeding-history/melissa-sartore
  • Philip I of Castile https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_I_of_Castile

 

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