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【ハプスブルク家とは】かんたん、3分でわかる王朝誕生の経緯

2020/04/01
 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

650年以上の長い歴史を持つハプスブルク家マリー・アントワネットの母であるマリー・テレジアをはじめ、さまざまな名君を輩出したヨーロッパの名門一族です。「ラス・メニーナス」で有名な宮廷画家ベラスケス、またモーツアルトなど著名な人物を登用したことでも知られていますね。今日はそんな名門ハプスブルク家のはじまりを、わかりやすく解説していきたいとおもいます。

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ハプスブルク家のはじまり

はじまりは、スイスの弱小豪族だった

ハビヒツブルク城 (ハプスブルク家のはじまり)

ハプスブルクの始祖は、10世紀末ころスイスにあった弱小の豪族でした。そして2、3代目が家名の由来となる『ハビヒツブルク城(大鷹の城)』をたてます。12世紀にはいるとこの城を本拠とする子孫が「ハプスブルク伯爵」を名乗るにいたりました。

ただこの当時の伯爵は名乗ったものがち、といった傾向があり今の爵位とは違うものでした。ただし「伯爵」を名乗るだけのなにか、秘めた力を持っていたのでしょう。

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ハプスブルク家が表舞台にでる、思わぬきっかけ

(神聖ローマ帝国 帝国王冠)

ハプスブルク家はひょんなことから、表舞台へ出てくることになります。ときは13世紀、当主だった55歳のルドルフが「神聖ローマ皇帝の座(このときはドイツ王も兼ねていた)」に偶然つくことになったのです。まさに棚ボタと言わんばかりの展開でした。

というのも諸侯たちの足の引っ張りあいで『神聖ローマ皇帝の座』は20年近く空席だったのですが、みかねたローマ教皇が「早く決めてよ」と催促をはじめたのです。さて、誰をつけたらいいものか。そこで7人の諸侯は「自分たちに都合のよく、扱いやすい人物を据えよう」と考えました。そのときに暗黙の了解で選ばれたのが『ハプスブルク伯ルドルフ』だったのです。

 

そもそも、神聖ローマ帝国 ってなに

ハプスブルク家の始祖 ルドルフ (ルドルフ1世 在位 1273年 – 1291年7月15日)

神聖ローマ帝国とは、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家です。9世紀頃に成立し18世紀まで続きました。中世以降は国号に「ドイツ国民の」が加えられ、ドイツ人国家としての性格を明確化しますが(ただし、支配下にかなりの他民族領域も含まれる)同時に国家としての統一性は形骸化し、分立するドイツ諸邦の形式的な連合体へと変質していきました。ちなみに「帝国」とは複数の民族と国家を統合した君主国のことです。

 

ルドルフがついた『神聖ローマ皇帝』とは?

ハプスブルク家 かんたんに(ルドルフ1世が描かれた絵)

さて、ルドルフが棚ぼたで選ばれた神聖ローマ皇帝とはどういったものだったのでしょうか。じつは神聖ローマ帝国はこの時すでに名目的なものでしかなく、『皇帝の座』についたからといって、富や権力が手に入るわけではありませんでした。

しかしカトリックの権威古代ローマ帝国の継承をリンクさせたこの名前は、ヨーロッパ最高位(皇帝は王の中の王と称されるため)であり心理的な威光を放っていたことはたしかです。

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ハプスブルク家拡張のキッカケ

ハプスブルク家 かんたんに (マルフェルトの戦い)

しかしルドルフ1世はその後生涯をかけて敵対していたボヘミア王オットカル1世との戦い、結果としてボヘミアと、オーストリア一帯を手にすることになります。

ハプルブスク領土のうつりかわり

「自分たちの都合のように動いてもらおうではないか」とタカをくくっていた7人の諸侯の思惑は見事にはずれ、情勢は思わぬ方向へ晩年ルドルフは『さらなるハプスブルク家の反映と拡張』を目標として、神聖ローマ皇帝の座を末裔に継がせようと奮闘しました。

 

ハプスブルク家は150年かけ、安定期へ

ハプスブルク家 かんたんに

弱小豪族とバカにしていたハプスブルク家が日の目を浴び始めたのですから、推薦した諸侯たちは大変驚いたことでしょう。その後ローマ皇帝の座はハプスブルク家に独り占めさせるなんてとんでもない」と他の諸侯に取られ取り返しを繰り返しますが、結果として150かけ、安定してハプスブルク家が世襲していくことになります。

ハプスブルク家がさらなる頭角を示したのは15世紀のこと。「幸いなるオーストリアよ、戦争は他の者に任せておけ。汝は結婚せよ」という教訓をつくり、政略結婚でますます領土を広げていったマクシミリアン1世の時代でした。 (参考:中世最後の騎士と呼ばれた英雄 マクシミリアン1世)

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あとがきにかえて

ハプスブルク家 かんたんに

ハプスブルク家に傾いた運。何事にもはじまりはあり最初から華々しく繁栄というわけではなく、偶然やタイミングなど運にも作用されるもの。しかしその後650年近く発展を続けたわけですから、やはり偶然だけでなく「なにか強い力」がそれぞれの当主に備わっていたのかもしれませんね。さまざまな人間関係が織りなす宮廷の物語、ハプスブルクの歴史にはそういったリアルで、人間らしい一面が沢山垣間見れるのもまた魅力のひとつかもしれません。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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