【ハプスブルク家と奇形】スペイン家最後の君主に現れた近親婚の影響

ハプスブルク家

中世のスペイン宮廷にうまれたカルロス2世。1661年11月6日にフェリペ4世とオーストリアのマリアナの息子として誕生した彼は、度重なる近親交配の影響を顕著に受けていました。呪われた子』として宮廷中から恐れられまたスペインハプスブルク家断絶の運命を背負った人物でもありました。この記事では現在残されている文献からハプスブルク家と奇形について、またその影響を受けたカルロス2世の治世をみていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • 病弱で精神的な障害もみられたため、母マリアナが摂政をつとめた
  • 大人になってもまともに歩くことができず、終始よだれをたらしていた
  • 妻が驚くほどの容姿結局子を残す事はできずスペインハプスブルク家は断絶
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カルロス2世の容姿と特徴

『怖い絵』としても取り上げられるカルロス2世

カルロス2世は生涯を通じて体調が悪かったといわれています。これはおそらく、ハプスブルク家がよく知られていた近親交配のせいであり、彼は30代になるまでに禿げ始めており、宮殿では老人に見えたという話も残っています。

近親婚の恐怖

親族との結婚は、遺伝的問題を引き起こす可能性が高いのは周知の事実でしょう。通常、一方の親が欠損している遺伝子を与えると、もう一方の親の対応する遺伝子がそれを跳ね除けるのです。

しかし、近交系の子供たちは、両親から同じ遺伝子を受け継ぐことがよくあります。カルロス2世の遺伝子の25%は重複していましたこれは劣性遺伝子が顕著にあらわれた例だとして、医学的にも色々な調査がなされました。

王になるも統治はできず

1665年にフィリップ4世が亡くなった時、息子のカルロス2世はたったの3歳でした。父の死後、カルロス2世はシチリアを含む、スペインのハプスブルク家のすべての所有物を継承しますが、幼くまた病弱で精神的な障害もみられたためマリアナが摂政をつとめました。その後の10年間は、母マリアナとチャールズの腹違いの兄であるファン・ホセとの権力闘争が続きました。

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1677年から1679年までは母マリアナの敵であるオーストリアのヨセフが、1685年まではメディナセリ公爵とオロペサ伯が統治しました。それは君主カルロスが大人になってもまともに歩くことすらできず、終始よだれをたらして教育を施すことが困難だったため、だといわれています。

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夫の容姿に怯える妻

18歳になったカルロス2世は、オルレアン公の娘マリー・ルイーズと結婚しました。しかし夫の容姿は妻が怯えるほど、更にカルロス2世は自分の結婚式に出席することすらできない状態だったため、代わりに、マリーのいとこであるルイアルマンド1世が代役を務めました。彼女は結婚式では、その美しさが持てはやされましたが、精神障害の夫との愛のない結婚生活のせいで憂鬱症に苦しみ病的なまでに肥満したそうです。

常軌を逸した夫に相当精神を消耗したのか、彼女はわずか26歳で急死元々嫁ぐ前に写真をみて状況をきき、覚悟を決め泣きながら嫁いできたプリンセス、

子供ができなかったせいで、マリーは義母に毒殺された

と根拠のない噂までもが流れる悲しい最後でありました。

人身御供

2人目の王妃となったのは、プファルツ選帝侯フィリップの娘マリアナ・デ・ネオブルゴ彼女もまた夫の奇行や、恐ろしい容姿に怯えて泣き出したという逸話が残っています。まるで人身御供のように差し出されたふたりのプリンセス

チャールズ2世には妻のどちらとも子がなく、スペイン・オーストリア王朝の終焉につながる継承問題を引き起こした。多産の家系出身ということでカルロス2世の王妃に選ばれたのですが、2番目の王妃にも子供はできず、『スペイン王家の継承問題』は深刻化していったのでした。

カルロス2世の最後

カルロス2世の晩年は、継承権の争いに特徴づけられます。『王位とその多大なる遺産』を奪おうとする闘争が激化したのです。後継者を迎える必要から、バイエルン公子ヨーゼフ・フェルディナント(母方の叔父の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同母姉マルガリータ・テレサの孫)が後継者に推薦されましたが、翌1699年に夭折

カルロス2世は、

carlos2

スペイン王位は、アンジュー公フィリップ (※)に譲る

※母方のいとこ

と表明して1700年に亡くなり、スペイン・ハプスブルク家は断絶に至ったのでした。

『生まれた時から死に頻していた』といわれたカルロス2世ですが享年38歳。宮廷の誰もが想像していなかった、長き人生でありました。これにてスペイン・ハプスブルク家に呪いをもたらした、『高貴な青い血』も途絶えることとなります。

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まとめ

 (カルロス2世の肖像画)

スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世は先天的に虚弱かつ心身に異常が見られ、後継者を望める状態にはありませんでした。したがって、スペイン王家の断絶は、カルロス2世の生存中から確実視されていました。それを察していち早く根回しを進めていたのがフランスです。

2月 フランスのルイ14世は、パリ高等法院に『スペイン王位継承権執行』を命令しました。以後、スペインは『スペイン・ブルボン朝』が統治をすることとなり、かくして現在のフェリペ6世まで続くスペイン王家が誕生したのでした。

5代目だったカルロスがこのような運命を背負うことになったのは前王たちが「なんとかして我々の血を守らなくては」と奮闘した結果でありました。それが結果として多くの血族結婚を生み出し、濃すぎる血の影響をいってに引き受けたのがカルロス2世でした。

カルロス2世

もはや子供が作れない状態まで近親婚の影響がでていたにもかかわらず地位を保持するために彼をなんとかして生き長らえさせたスペイン宮廷。「とにかく長く生きてさえくれれば」と、教育を施すことすらサジを投げたといいます。カルロス2世については多くの文献が作成されており、医学的に分析されたものも多く出版されています。賢者は歴史に学ぶと言いますが、2度と繰り返されてはいけない教訓を多く孕んでいるのでありました。

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