Wise man learns from History.

【アマデウスモーツァルトとサリエリ】SteinsGateに登場した2人の天才

2020/09/19
 
モーツアルトと、サリエリの関係
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

映画『アマデウス』は天才モーツァルトにより、人生を狂わされたサリエリの想いを綴った作品しかしあれはあくまでスキャンダルを元にしたフェイクで「実際は逆だった」ことはご存知でしょうか。モーツァルトが望んだウィーンの宮廷作曲家の地位はサリエリにとられ、皇帝ヨーゼフは”サリエリ”をお気に入りとして亡くなるまで彼を宮廷におきました

サリエリとモーツアルト (右がサリエリ、左が言わずと知れたモーツアルト)

サリエリの作品は安定した評価を得る一方、モーツァルトの作品は称賛はされますが「斬新でうつくしすぎて….」と皆が扱いに困り、なかなか宮廷での地位を得ることはできませんでした。200年後になっても世界中を陶酔させる偉大な作曲家として語り継がれていくことを当時の人々は果たして想像していたのか….。この記事では、サリエリがいるために常に2番目とされ苦水を飲み続けたモーツァルト、意外な事実を紐解いていきたいとおもいます。

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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

天賦の才をあたえられた男

バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年) モーツァルトの死後に想像で描かれた

いまや偉大なる音楽家として知られているモーツァルト1756年にうまれ、6歳のときにはすでにメヌエットを完成させシェーンブルン宮殿で演奏し皇帝らを驚かせた神童でありました。数々のオペラのなかで、彼はヨーロッパ内での流行をくみ、新しい風潮を取り入れ、プラハやウィーン郊外の劇場で大きな成功をおさめました。

しかし『神童』ときくと優等生のように、かろやかにさらっと生きてきたのかと思いきやまるで正反対彼の作る曲は斬新で目新しすぎるとされ、宮廷音楽家の地位を得るのには苦労し、決して豊かではない生活をなんとか後援者の依頼でおぎなっていました。短い治世のなかでいちどだけ、ウィーン宮廷で宮廷作曲家としての地位についたこともありました。しかし晩年は借金と病気に苦しみ、亡くなったあとは共同墓地へ埋葬されるという、肖像画からは想像できない人生の最期でありました

 

モーツァルトとハプスブルク家

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ヴァイオリニストで作曲家でもあった父レオポルトは、幼い頃から子供の才能に気づいており、ある程度の地位を確立できるようモーツァルトがウィーン宮廷で演奏できるよう力を尽くしましたそして見事な演奏をみせたモーツァルト。父レオポルトは「モーツァルトは大公女マリア・テレジアの膝の上に飛びのり。首に手をまわして心からのキスをした」とザルツブルクの妻に向け手紙を送っています。こうした愛嬌はモーツァルトお得意のもので、多くの貴婦人を魅了しました。

モーツァルトは褒美として450ガルデンと、豪華な刺繍がなされたスーツを皇室からもらいました。ちなみにモーツァルトがパリに滞在したときは、ルイ15世の愛妾であったポンパドゥール夫人にも似たようなご愛嬌をしようとして断られたとか…「こんな反応ははじめてだ」とモーツァルト自身もびっくりしたといいます。

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18〜19世紀の音楽事情

宮廷は音楽家にとっても憧れの場所

宮廷で演奏するモーツァルト (6歳)

18世紀〜19世紀にかけて、貴族や裕福な中流階級が音楽家のパトロンとしての役割を担うようになっていきました。しかし宮廷は依然として、音楽家の憧れの場所でもありました。ときは女帝マリア・テレジアの時代、彼女の息子フランツ・ヨーゼフ (ヨーゼフ2世) がオペラや劇場の責任者でありました。モーツァルトが12歳のとき、ヨーゼフは「オペラを作曲したいか?」と尋ねましたが、モーツァルトに宮廷における正式な地位を与えることは渋りました

モーツァルトが作曲したイタリアオペラは一度も上演されることがなく、彼が料金を受け取ることもありませんでした。父レオポルトは音楽家たちと口論になり彼らは「ホンモノに興味がないのだ」としてウィーン人を非難したといいます。

 

称賛破受けても、宮廷の官職は得られず

モーツァルト

中流階級のパトロンの存在は、モーツァルトが裕福な医師らのためにシンスピール・バスティエン (Singspiel Bastien)、バスティエンヌ (Bastienne) などを作曲した事実によって示されています。そこで生計をたてつつ、モーツァルトはウィーン宮廷だけでなくフィレンツェ、ナポリにパリなど、マリア・テレジアの子供の嫁ぎ先でも演奏をしました。しかし、そこでも官職を得ることはできませんでした

フェルディナントカール

モーツァルトはフェルディナント・カール大公の結婚を祝うオペラを作曲し、若き大公を大いに喜ばせましたが、ここでも官職を得ることはできませんでした。モーツァルトは確かに『天才』と呼ばれるにふさわしい逸脱した作品を生み出しましたが波があり、不評を被ることもありました。マリア・テレジアは不評をかったモーツァルトとかかわることを禁じて、「作曲家やそのような無益な人は必要ない」と子供達に告げたこともありました

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モーツァルトの前に、サリエリあり

サリエリがいる限り、常に2番目

モーツァルト

ウィーンでは、アマデウス・モーツアルトと宮廷作曲家アントニオ・サリエリの争いに関する噂が飛び交っていました。しかしサリエリは宮廷作曲家の地位を独占するだけでなく、シェーンブルン宮殿のオランジュリーでのオペラコンテストでもモーツァルトに勝利、モーツァルトは破れ苦汁を飲みました。

アントニオ・サリエリと、ハプスブルク家

1785年の冬、ライバルとなった2人にヨーゼフはオペラ・コンテストをけしかけました。舞台は1786年2月オランジェリーでひらかれた祝賀会。2人の作曲家は一幕の短いオペラをつくり、向かい合った2つのステージで上演することになったのですが….。すでに演奏順に階級があらわれており、モーツァルトのオペラは前奏曲として演奏され、とりはサリエリ。彼のオペラは2倍の長さで大成功、サリエリの報酬はモーツァルトの2倍だったそうです。

 

宮廷作曲家になっても、サリエリは宮廷楽長

モーツァルト

1781年のクリスマスイブ。ヨーゼフ2世はモーツァルトをイタリアの作曲家ムジオ・クレメンティとのピアノコンテストに招待しました。結果モーツァルトは勝ち、どちらが勝つかロシア王女と賭けをしていたヨーゼフも賭けにかったわけですが… 王位継承者フランツ2世の花嫁音楽教師の地位は、モーツァルトの宿敵アントニオ・サリエリに与えられました失望したモーツアルトは皇帝とってはサリエリがすべてなのだと愚痴をこぼしたといいます。(映画『アマデウス』とはなんだか逆の話…)

モーツァルト

その後モーツァルトは、社交界の女性たちに音楽を教えたり、貴族の宮殿でサロンコンサートをひらいたりして生計をたてました。ここでの演奏は、とくに高く評価されました。モーツアルトはついに宮廷作曲家に任命されましたが、そこではサリエリが『宮廷楽長 (ホフカペルマイスター) 』とつとめており、ここでもモーツァルトは第二位の地位にとどまる運命にありました。

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なぜモーツアルトの音楽は、宮廷で受け入れられなかったのか

あまりに洗練されて、革新的だった

viena.mozart

当時モーツァルトが宮廷に受け入れられなかった理由として、

  • モーツァルトはそれまでの厳格な音楽の慣習をやぶり
  • 個性的で革新的なモチーフをふんだんにいれた曲をつくった

ことがあげられます。ウィーンの音楽は主に祝いごとや仮面舞踏会、宴会の陽気な伴奏として楽しまれており、シンプルで朗らかなものが求められたのです。

viena

モーツァルトの音楽は巧妙につくられており、聴衆にとっては複雑すぎたといわれています。皇帝は「君の音楽はとてもいい、ただなんというか….私たちの耳には美しすぎる」、廷臣からは「そんなに多くの音を聞き取れない、必要な音だけにしてほしい」という声があがりました。

 

モーツァルトの最後

モーツアルト

モーツァルトの晩年は収入が減り、借金を抱えていましたそれはモーツァルト自身の品行が悪く浪費癖に加えて高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因といわれています。モーツァルトの才能に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏で彼を妨害した、ともいわれていますが、実際サリエリは社会的・経済的にも満たされておりそれは考えにくい、という研究結果もでています。

アントニオ・サリエリ(アントニオ・サリエリ)

病弱だったモーツァルト、最後は発疹を伴う高熱に苦しみ36歳の若さで亡くなりました。遺体は音楽も花もなく、墓石もない共同墓地へと埋葬されました。死因は毒殺ではなく度重なる感染症の結果ではないかといわれています。幼い頃父レオポルトとおこなった『ヨーロッパ巡業』、そこで様々な感染症 (とくにリウマチ熱) をひろってしまった。なんども繰り返したリウマチ熱は心臓の弁を弱らせ、結果的にモーツァルトの身体を蝕んでいくことになってしまった、と。

 

一方、プラハはモーツァルトの死を惜しみ、数日後、ボヘミア国立劇場のオーケストラが聖ニコラウス教会で追悼式を行いました。市内は30分以上鐘の音で満たされ、4,000人以上の会葬者が教会に押し寄せたそうです。官職や立派な地位にはつけなくとも、たしかに彼は市民に愛されていたのですね。

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あとがきにかえて

フランツ・ヨーゼフ (ヨーゼフ2世) (オーストリア皇帝 フランツ・ヨーゼフ)

当時の皇帝フランツ・ヨーゼフは、フランスに嫁いだマリー・アントワネットの兄でありましたフランスでは皇帝や貴族に対する不満がつのり、平等を求めて市民が蜂起した時代です。当然ヨーゼフも情勢には目を光らせており、『フィガロの結婚』に最初反対したのも国民を刺激したくないという政治的判断からでした。

モーツアルト

そんなのどこ吹く風で、天から降ってくる音楽をひたすら地上におろし続けたモーツァルト彼の斬新で個性的な音楽は、先を行き過ぎていたのか、無邪気さが災いをしたのか、ときに物議をかもすこともありました。その点でサリエリは古典的な音楽を重視して、当時のウィーンで好まれた曲やオペラを安定的に作り続けました。それらを考慮すると、宮廷としても『楽長』にするならば、自由なモーツァルトより、安定して『時代を汲んだ音楽』を提供できるサリエリを登用したのもわかる気がするのです。

アントニオ・サリエリ

モーツァルトは「サリエリのせいで昇進できない」と嘆いたそうですが、2人の違いは才能というよりは、「社会的立ち位置」を考慮したか否かであり、どちらも素晴らしい音楽家であったのは変わらないのでしょう。評価をくだすのはいつも後世の人ですから、100年後にはまた人々の見方もかわっているかもしれませんね。

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参考文献

  • 水谷彰良『サリエーリ 生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長(増補改訂新版)』
  • モーツァルトは「アマデウス」ではない (集英社新書)
  • Mozart y Salieri: la historia y la leyenda
  • Wolfgang Amadé Mozart and the Imperial Court at Vienna

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