中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇った名家といえば、ハプスブルク家をおいて他にはないでしょう。この記事では歴史において数々の名君主を生み出した一族、ハプスブルク家をご紹介したいとおもいます。
ハプスブルク家とは
ハプスブルク家といえば、ヨーロッパを中心に一大帝国を築き上げた名家中の名家ですが、そのルーツは意外にも、スイスの片田舎でつつましく暮らしていた小貴族でありました。今でもスイス北部のアールガウ州には「鷹の巣」を意味するハプスブルクという致命とともに、小さな城塞が残っています。
台頭のきっかけ
(ルドルフ1世)
一族が脚光を浴びたのは13世紀のことです。当時の神聖ローマ帝国の皇帝に、ハプウスブルク家の当主が指名されることとなったことがはじまりでした。やがて大帝国を統治するようになった一族は、その華やかな歴史の中で、多くの犠牲者をともなう争いを幾度となく繰り広げることとなります。
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度重なる戦争
1618年には、中世ヨーロッパの悲惨な戦争のひとつ「30年戦争」が始まりました。神聖ローマ帝国は、「帝国」とはいえ実際は300もの小国が集まった共同体のようなものでありました。民族も異なれば、生活習慣や主義主張も異なる人々を束ねるのはそう簡単なものではありません。
そんな中で、燻り続けていたカトリックとプロテスタントの対立が、ある事件をきっかけに表沙汰となったのです。帝国の中でもプロテスタント系住民の多いボヘミアで、地元住民たちが国の役人である代官と公論になり、あげくの果てに代官と口論になり、あげくの果てに代官をお城の窓から数十メートル下に放り投げてしまったのです。
他国を巻き込んで途方もない争い
この事件をきっかけにボヘミアの人々は帝国に対して、反乱を起こしました。
このとき幼い頃から厳格なカトリック教徒だった皇帝フェルディナント2世は、傭兵まで雇って徹底的に新教徒の弾圧に乗り出しました。兵力では劣るボヘミア軍はひとたまりもありません。ところが、騒ぎを聞きつけたデンマークやスウェーデン、フランスなどの大国が、この機会にハプスブルク家の勢いを削いでおこうと次々とプロテスタント側の支援を始めました。
1,000万人以上の被害者
このため、戦いは一気に拡大して、30年にわたる悲劇をもたらしてしまったのです。主な戦場となったドイツは1000万人以上の被害者をだすに至りました。この戦争でドイツの歴史は200年後退したといわれるほどです。
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第一次世界大戦にもハプスブルク家の影
また、地球規模の大戦争となった第一次世界大戦の原因にも、ハプスブルク家の名前を見ることができます。
第一次世界大戦勃発のきっかけにもなった、1914年のサラエボ事件で暗殺されたフランツ・フェルディナント大公はハプスブルク家の血を引く人間でありました。当時ハプスブルク家はオーストリア皇帝の座に収まっていましたが、後継者であるフェルディナント大公は周囲の反感を買っていました。
止まらぬ反感
しかもオーストリア帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを併合したため、そこに暮らすセルビア人の間で反ハプスブルクの感情は高まる一方でありました。オープンカーに乗った大公夫妻は、至近距離からの銃撃で大量に出血してほぼ即死状態だったといいます。報復として時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はセルビアに宣戦布告し、やがて世界中を巻き込む第一次世界大戦が勃発しました。
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ハプスブルク家の終焉
歴史上初めて化学兵器が使われたこの戦争では、全世界で2000万人もの人が命を落としたと言われています。大戦の最中にフランツ・ヨーゼフ1世はこの世をさり、息子のカール1世が後を継ぎましたが、オーストリアは大敗を喫しました。
ここに600年状続いたハプスブルク家の奥羽町支配は終焉を迎えたのです。なお、カール1世の孫にあたる人物が現役の欧州議会議員として活躍するなど、ハプスブルク家の血筋は現在も途絶えることなく続いているのでありました。なお、ハプスブルク家の最後についてはこちらの記事 (【ハプスブルク家最後の皇帝】どのようにして巨大帝国は滅んだのか)に詳しく記載しております。
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