ノストラダムスの予言通り惨い死を迎えた【フランス アンリ2世】

アンリ2世とカトリーヌフランスの歴史

ノストラダムスをはじめて公式に登用したのは、中世のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスでした。寵姫が幅を利かす宮廷で惨めな生活をおくっていた彼女がすがったのが、魔術であり神秘学だったのです。

ノストラダムスの4文詩予言は曖昧で、いかようにも解釈できることからその真偽が議論されていましたが、彼女の夫アンリ2世については見事に的中といわざるをえない完成度でありました。この記事では、ノストラダムスが予言したアンリ2世の死について迫っていきます

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フランス宮廷、王と寵姫に虐げられた王妃

アンリ2世とカトリーヌ

虐げられた妃がいれば、もてはやされた女性がいる。それが王室というもので、フランスのアンリ2世が愛しんだのは妻カトリーヌ・ド・メディシスではなく、自らの教育係であった未亡人ディアーヌ・ド・ポワティエでした。未亡人で子持ちのディアーヌの女神のように美しい姿、由緒正しき家柄からくる優雅さと洗練された知性に魅了された12歳の王太子は生涯彼女に夢中になり、歳の差20も気にせず寵姫として彼女をそばに置き続けたのでした。

王妃をおいて、最高の扱いを受ける寵姫

シュノンソー城

未亡人のディアーヌに求婚するも国王フランソワ1世も廷臣も許すわけがなく、アンリは14歳になるとフィレンツェの大富豪メディチ家の娘カトリーヌとの結婚が決まります。愛があるわけもなくそれは持参金目当ての結婚でありました。

夫妻の間には次々と子が生まれましたが、王にとってそれは『あくまで公務』にすぎず、ディアーヌと逢瀬を重ねるばかりどこへでも彼女をつれてあるき戦地までも連れて歩くほどでした。恋文だけでなく、お城までプレゼントする入れ込みっぷりでしたので、放置されるばかりのカトリーヌは腹を立て、嫉妬と憤怒にやるせなさから次第に魔術や神秘学にのめりこんでいきました

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フランス宮廷とノストラダムス

ノストラダムス

そんなさなか、アンリの兄が戦場で急死。原因は戦地で口にした飲み水だとされ「カトリーヌが毒をもったのではないか」と王妃へ疑いがかけられました。彼女が毒に精通していることを知っていた宮廷人なら、疑うのも不思議ではなく、のちにアンリ2世が戴冠したあともこの黒い噂はつきまといました

そんなカトリーヌが出会ったのが、『ノストラダムス』です。彼はプロヴァンスで生まれ、大学で医学を学んだ医者であり、また占術にも精通しており預言者として名を知られる存在でした。1555年、韻文による4行詩をあつめた『諸世紀』が出版されたことで彼の評判は王妃の耳にもとどき、カトリーヌは彼を宮廷へ招致しました。その結果、ノストラダムスは王妃お抱えの占い師となります。

ノストラダムスの予言

予言

王妃カトリーヌが心配したのは、4人の息子の将来でした。ノストラダムスは4人の王がうまれると進言したわけすが、逆にカトリーヌは「ということは、次々に早逝するのではないか」と不安にかられます。その予感は半分あたっており、長男はフランソワ2世に、次男はシャルル9世に、3男はアンリ3世になりま、4男は早逝。

宮廷でもフランソワ2世が即位したとき「ノストラダムスの予言の通りならば、その治世は短いのでは」という噂が広がったといいます。そして予言の影響か否か、実際に彼は1年後に病死したのでした。

アンリ2世の最後も、ノストラダムスは言い当てた

若き獅子は老人に打ち勝たん Le lion jeune le vieux surmontera

戦いの庭にて一騎うちのすえ En champ bellique par singulier duelle,

黄金の檻の眼をえぐり抜かん Dans cage d’or les yeux lui crèvera,

傷はふたつ、さらに酷き死を死なん Deux classes une puis mourir mort cruelle. 

こちらはノストラダムスが残した予言、4文詩です。彼の4文詩はとても曖昧なもので、いかようにも解釈できることで知られています。しかしアンリ2世の死に関しては、とても生々しい結果が待っていました。というのも、アンリ2世は予言に導かれるように急死を遂げることになるのです。

Henri II, フランス

それは宮廷の華やかな祝いの場でのこと、アンリ2世は余興として近衛隊長モンゴメリ伯に余興として馬上槍試合をもちかけました。単なる遊びのつもりだったのですが、偶然にも試合中に隊長の槍の先が折れて、黄金の兜を貫きアンリ2世の眼に突き刺さってしまったのです。傷は脳にも達しており、40歳のアンリ2世は9日間もがき苦しみ、むごい死を迎えたのでした。

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予言は本当にあたったのか

(カトリーヌ・ド・メディシスの全身画)

アンリ2世が死ぬと、カトリーヌはディアーヌをまっさきに宮廷から追い出しましたディアーヌは処刑は免れたものの王から与えられた物は全て没収され、都からも宮廷からも追放されることとなりました。彼女は幼い皇子を玉座につかせ、摂政となり力をふるいます。

フランスの多くの地域では国王ではなく、貴族が支配権を掌握しており非常に物事が入り組んでいた時代、予言のとおりか王位についた長男、次男は若くして亡くなります。悲しみのなかでカトリーヌは3男のアンリ3世を王位につけました

アンリ3世

しかし彼女はアンリ3世を前王のように制御することはできず、軋轢もありながら69歳で胸膜炎により亡くなりました。国王が若くして亡くなることはこの時代けして不思議ではなく、王子たちの早逝は止むを得ないものだったのかもしれません。しかしアンリ2世の死は、偶然のひとことでは片付けられないようにも思えます。予言はあたったのか、あたらなかったのか信じられずとも、この世には不思議なこともあるのかもしれません。

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