Wise man learns from History.

【ジョセフィーヌ】ナポレオンが生涯をかけて愛した憂の美女

2020/09/06
 
ジョセフィーヌ
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

1814年、この世を去ったジョセフィーヌナポレオンにその知らせが届いたとき、彼は悲しみのあまり部屋に閉じこもり誰にも会わなかったといいます。1年後エルバ島を脱出した彼が真っ先に向かったのはジョセフィーヌが亡くなったマルメゾンでした。

ジョセフィーヌ

それから6年後、ナポレオンはセントヘレナ島で亡くなりますが、最後の言葉は「フランス、陸軍、ジョセフィーヌ」だったといいます。フランス革命に翻弄されながらも、幸運の波に包まれた女性この記事ではナポレオンが生涯をかけて愛した女性、ジョセフィーヌについてみていきたいとおもいます。

スポンサーリンク

ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ

ジョセフィーヌ

マルメゾンの壮大な庭園でくつろいでいるのは、革命が吹き荒れたフランスに生きたジョセフィーヌ。贅沢すぎる王妃マリー・アントワネットの姿をみて、華やかなヴェルサイユの貴族に憧れた幼少期。フランス革命により数え切れないほどの命が失われた時代、浮き沈みはあれど幸運の波に翻弄されたひとりの女性、彼女こそがジョセフィーヌです。

 

フランス貴族の娘、マルティニーク島で育った美少女

ジョセフィーヌ

フランスの植民地 マルティニーク島で、生まれ育ったジョセフィーヌ貴族の長女として生まれた彼女は、当時ローズと呼ばれていました。そこまで裕福ではありませんでしたが、10歳のときにフランスの修道院に送られ、行儀作法と教養を学びました。

当時のフランスでは、貴族の娘は年頃になると家柄に見合う男性と結婚する慣しがあり結婚はお互いにとって一人前になったとお墨付きをもらえるような意味合いがありました。ローズにも16歳のときに縁談がもちあがり、貴族であった19歳のアレクサンドル・ド・ボハルネと結婚するために父とフランスに渡りました

 

最初の結婚はうまくいかず

アレクサンドル・ド・ボアルネ

結婚した2人はパリ郊外に定住し、ローズは2人の子どもを授かりました母となったローズは愛くるしい子供に囲まれ幸せでしたが、旦那との関係はよろしくなかったといわれています。というのも、フランス宮廷がそうであったように、結婚して夫婦仲が良いのはみっともないとされ、夫だけでなく妻でさえ愛人を持つのも珍しくなかったのです。

愛人が彼女を苦しめ継母には「田舎者」いわれ、肩身がせまかった結婚生活。耐え切れなくなったローズは、1785年に子供をつれて夫の元を離れることになりました。経済的にこまったローズは生活費を払うために宝石の一部を売り、一時はマルティニーク島に戻り2年間ほど滞在しています。

スポンサーリンク

フランス革命の勃発、貴族に向けられた民衆の憎悪

バスティーユ襲撃 (バスティーユ襲撃)

この頃パリではあちこちで小さな暴動が起こっていました。子供を貴族の馬車に轢き殺された平民が貴族に抗議して諍いがおき、貴族の家に火が放たれたり、王宮に食糧をおさめている商人が襲われ倉庫から食糧が全て盗まれたり.. 街には貴族を憎悪する民衆が増えていきました。

1789年にパリでフランス革命が勃発。「貴族を倒す、王政を倒す、貴族もおれたちも平等な世の中をつくるんだ」虐げられていた第三身分 (平民) の人々が立ち上がり貴族であるローズもその波に巻き込まれていくこととなります。この騒動はマルティニーク島にも急速に波及し、ローズは娘と共にパリに戻ることを決意しました。貴族への憎悪と復讐だけが民衆を動かし、多くの血が流れ貴族が惨殺されたといわれています。

 

夫アレクサンドルとの再会と処刑

ジョセフィーヌ

1791年国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットは国内逃亡を企てます(世に言うヴァレンヌ事件) 革命で国内が混乱しているのを知った周辺国がフランス領土を狙っているのに、トップは不在。王室に対する信頼は大暴落、1792年12月の国王裁判の結果をうけ、翌年ルイ16世はギロチン処刑。妃マリー・アントワネットも同じく処刑されました。

マリーアントワネット 処刑 (無実を叫ぶマリーアントワネット)

当時王政に変わり、民衆を率いていたのは恐怖政治と呼ばれた国民公会でした。ローズの夫アレクサンドルは他国の進軍を防ぐため、ライン地方の防衛を任されましたが、オーストリア・プロシャイギリス軍に破れ、1794年ローズとともに『反革命分子』の容疑をかけられ逮捕されてしまいます。しかし実際は「貴族たちを根絶やしにするんだ」という国民公会の策略であり、彼は反乱する気などなく軍人としてフランスをただ守りたかっただけだといいますが…. 。時の政府には逆えず、夫アレクサンドルは処刑されてしまいました。

スポンサーリンク

ナポレオンとジョセフィーヌの出会い

二人の子供を持ったうつくしき未亡人と、若き将軍

ナポレオン ジョセフィーヌ

アレクサンドルの処刑からまもなく、国民公会を主導していたロベス・ピエールが処刑され恐怖政治は幕を閉じます8月初めに解放されたローズは、パリにとどまることを選択しました。彼女は夫の処刑前と同様に政治的なつながりを育み、カルム監獄の解放者であり、新政府 (総統政府) の将来の指導者となるポール・バラスなどと出会いました。

そして1795年秋、彼女は将来を期待された若き将軍、ナポレオン・ボナパルトに出会います。出会って早々、ナポレオンは彼女にすっかり夢中になり、彼女を『ジョセフィーヌ』と呼びました。しかしローズは彼より6歳年上で、2人の子供の母親でもありました。貴族社会をみていた彼女にとって、野蛮な若き将軍にそれほど熱心なようにはみえなかったといわれています。

 

聞き上手のジョセフィーヌ、野心溢れるナポレオン

ジョセフィーヌと2人の子供 (ジョセフィーヌと、彼女の子供たち)

恐怖政治が終わったフランスの社交場は、貴族化した革命家と金で肥え太った事業家でにぎわっていました。決して裕福ではなかったジョセフィーヌですが、優しい笑顔で悩み多き男性や、人生をなげく老人など、色々な人の声に耳をかたむけていたといいます。ナポレオンとのロマンスの裏には、もちろん利害の一致もありましたジョセフィーヌが上流社会にこの若き将軍を紹介する一方、ナポレオンの台頭と経済的安定は彼女に富と名声をもたらしていったのです。

ヴァンデミエールの反乱 (葡萄月の反乱)

ナポレオンはヴァンデミエール将軍と呼ばれ広く知られるようになりパラスにかわり国内軍最高司令官となりました。貴族だった実父とは違うけれど、強く逞しい彼にジョセフィーヌの子供も敬意を抱くようになっていきました。そしてナポレオンがイタリア軍の最高司令官に任命されてから7日後、2人は市民パートナーシップのもとで結婚しました。

スポンサーリンク

将軍夫人から、ジョセフィーヌ皇后へ

2人の強烈な個性がぶつかりあう

ジョセフィーヌ

ナポレオンもジョセフィーヌも個性が強かったために、2人はぶつかり、険悪になることも多くあったといいます。ナポレオンは戦地に遠征で長期不在、しかしジョセフィーヌはパリの社交界に居座ることを好だため会わない日々が続きました。ただ時々遠征の間に見送るなどして、ナポレオンが将軍として軍事的成功をおさめていたため、彼女はパリで贅沢な生活を送ることができました。

ジョセフィーヌ

ときには物理的な距離が不信をうみ、離婚が差し迫っているように思えました。ョセフィーヌの浪費家な生活が、結婚生活を破綻させるのではないかという見方もありました。ナポレオンが彼女に会うことを拒否したこともあったそうです。その時ばかりはジョセフィーヌも、そのときばかりは何としても仲直りをしようとしました。話し上手だったジョセフィーヌ、険悪になっても離婚に至ることはありませんでした。

 

ジョセフィーヌの衣装にみえる、権威の象徴

ジョセフィーヌ

ブリュメール18日のクーデタのあとナポレオンは『第一統領』となり、夫婦はチュイルリー宮殿に移りました元々社交的だったジョセフィーヌは客人を迎え入れるホストとして卓越した才能を発揮。そこであったパーティーは、誰にとっても忘れられないものだったといいます。ナポレオンと一緒に劇場に行くなど、ジョセフィーヌは公の場に姿を現す時は最高の衣装を身にまとい、夫婦の政治力と名誉を示しましたそして1799年、ジョセフィーヌはパリ近郊にあるマルメゾン城を購入しました。これは彼女が生涯を過ごすことになる館です。

 

「私は戦争には勝つが、ジョセフィーヌには心を掴まれる」

マルメゾン

ジョセフィーヌは膨大な時間とお金をかけて、その邸宅を住みやすいよう改築していきました。ナポレオンもまた自身の仕事場として使用していたこの土地はバラ園、珍しい植物でいっぱいの温室、カンガルー、サル、クロハクチョウ、シマウマ、ダチョウなどのエキゾチックな動物でも有名になりました。ジョセフィーヌは社会での地位を保ち、ファッションの最先端に身を置くために多額のお金を使いましたナポレオンは呆れることもあったといいますが、ジョセフィーヌの魅力はそんな夫の苛立ちさえ吹き飛ばしましたナポレオン自身 私は戦いに勝つが、ジョセフィーヌには心を掴まれると認めていたそうです。

スポンサーリンク

ボナパルト一族の敵意と、世継ぎ論争

継母からの猛反対

ナポレオンの戴冠式 (ナポレオンの戴冠式 ひざまずくのがジョセフィーヌ)

ジョセフィーヌは誰からも好かれていたわけではなく、ナポレオンの親族からは敬遠されていました。とくにナポレオンの母レティシアは、息子より年上の彼女を認めず、ボナパルト家とジョセフィーヌの一家では対立が生じました。ナポレオンは、義理の息子ウジェーヌ (ジョセフィーヌと前の夫の子供) を養子にしようとするなど、家族の絆を深めようとしましたがうまくいかずボナパルト家の人々はナポレオンに「ジョセフィーヌには世継ぎができないのだから、彼女とは別れなさい」と公然と告げたそうです。

ナポレオンは妻ジョセフィーヌにの皇后を戴冠させることにより、家族の圧力から彼女を守り結婚を反古にしないよう動き回ったといいます。しかし帝国が樹立されると、ナポレオン自身も後継ぎを作らなければ、と追い詰められていくようになります不妊治療も行いましたが、ジョセフィーヌがナポレオンの子を授かることはありませんでした。

 

フランスの将来のために、別れを決意

ジョセフィーヌ

1809年11月30日、ナポレオンはジョセフィーヌに「別れたい」旨を告げました。ジョセフィーヌは動転しましたが、婚姻無効に同意し、12月15日正式な親族会を召集して婚姻解消に至りました。ナポレオンは宣言で「皇后のことは忘れず、将来のことも私が守る」と約束しました。

ジョセフィーヌ

ナポレオンはジョセフィーヌを皇后の座からおろしたくはなかったそうですが、後継をつくるためにはそうもいかず、「彼女に私の気持ちを疑わせたくはない、彼女には常に私を彼女の最愛の友人と見てほしい」と言い、ジョセフィーヌはマルメゾン館に落ち着きました。1810年5月ナポレオンはオーストリアの大公マリー・ルイーズに再婚しましたが、ジョセフィーヌへの手紙を書き続け、彼女を見守り続けていました。その愛情は新妻を嫉妬させるほどだったといいます。

スポンサーリンク

ジョセフィーヌの晩年

マルメゾン館に落ち着いたジョセフィーヌ

ジョセフィーヌ

公務を終えたジョセフィーヌは、マルメゾン邸宅に情熱をささげるようになりました。彼女は家や庭の装飾と仕事をとことん追求し、200以上のキャンバスからなる彼女の芸術コレクションを皆に向け喜んで公開したのです。1812年4月30日ナポレオンはロシアへ出兵しますが、その前にはよくマルメゾンにやってきたそうです。しかしそのロシア遠征で大敗を喫したナポレオン、軍事作戦が失敗したフランスに対してヨーロッパの大国が襲いかかりました。1814年にフランスが侵攻され、3月30日にパリは降伏し、その後一年間はフランス皇帝アレクサンドル一世の軍隊に占領されます。ジョセフィーヌは、ノルマンディーのエヴルーの近くに避難。1814年の春、帝国は滅び、皇帝ナポレオンはエルバ島に追放され、ジョセフィーヌに会うことはできませんでした。

 

ジョセフィーヌの死

ジョセフィーヌ

1814年4月、ジョセフィーヌはマルメゾンに戻りました

フランスの新国王ルイ18世はボアルネ家 (ジョセフォーヌの実家) と良好な関係を維持ボアルネ家はロシア皇帝アレクサンドル1世の支持を得て、フランスとロシアの平和的な関係を築くことを約束しました。元フランス王妃とロシア皇帝は、芸術に対する共通の認識と、2人の子供であるウジェーヌとホルテンスに対するロシア国王の尊敬の念から、親密な友情を築いたといいます。社交上手のジョセフィーヌだったからできたことでしょう

ジョセフィーヌ

そしてジョセフィーヌがマルメゾンに戻ってから1ヶ月後の1814年5月29日、彼女は結核で亡くなりました。享年51歳、波乱のなかでも幸福に生きた女性でした。その4日後、彼女の葬儀はリールのサンピエール・エ・サンポール教会で行われました。現在でも、お墓の上にある彼女の横臥像を見ることができます。

スポンサーリンク

あとがきにかえて

ジョセフィーヌ

1814年、この世を去ったジョセフィーヌナポレオンにその知らせが届いたとき、彼は悲しみのあまり部屋に閉じこもり誰にも会わなかったといいます。ナポレオンの最後の足掻きともみれたエルバ島の脱出。真っ先に向かったのは彼女が亡くなったマルメゾンでした。そしてその3ヶ月後、彼はフランスから遠く離れたセントヘレナ島へと流されました。そして1821年ナポレオンが死の床についたとき、最後に呼んだ名前は「ジョセフィーヌ」だったといいます。

英雄ナポレオン、若き将軍を導くようにこの世に生きた皇后ジョセフィーヌ。運命に体当たりして、見事に玉砕した彼を天国からどのように見守っていたのでしょうか。革命のなかに生きた2人、時に険悪になることもあれどお互いがいたからこそ、フランスに吹き荒れた革命の嵐を乗り切れたのかもしれません(ナポレオンの人生については、【国民の英雄 ナポレオンは何をしたのか】に詳しくまとめております)

この記事を読んだ人へおすすめの記事

この記事をかくために参考とさせていただいた文献

  • https://www.napoleon.org/en/young-historians/napodoc/limperatrice-josephine-1763-1814/
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Empress_Jos%C3%A9phine
  • https://www.thecultureconcept.com/empress-josephine-at-chateau-malmaison-woman-of-influence
  • 最新世界史図説 タペストリー 帝国書院

スポンサーリンク

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です