【本当は悲しいモアイ像】部族闘争に拉致、イースター島の悲劇を見守り続けた巨像たち

モアイ像惨散たる歴史

観光名所となっているイースター島のモアイ像。皆が知るこの巨像は、イースター島の悲惨な歴史の証人として島を見守り続けてきたのでありました。この記事では、悲劇を見守り続けたモアイ島の悲しい歴史をご紹介します。

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イースター島とモアイ像

モアイ像

南大西洋のチリの沖合3,800キロにある絶海の孤島イースター島は、モアイ像で親しまれ日本でもお馴染みの観光地となっています。モアイ像のユーモラスな佇まいとモアイ像建造の謎は、テレビ番組でもたびたび特集されて人気が高くなっています。「伝説の神がモアイ像に命令し、像たちがジブ運出歩いた」「宇宙人がつくった石像に違いない」など、さまざまなファンタジーで世の中を楽しませてくれているモアイ像

しかし、日本では、モアイ像にはイースター島で起きた数々の悲劇が秘められていることは知られていません。現在は、海に背を向けてずらりと並ぶ15体の像を含めた、40対ほどのモアイ像を見ることができますが、かつてはそれどころか900対ものモアイ像が島中を埋め尽くしていたといいます。

 

モアイ像が造られた理由

モアイ像

そもそも、モアイ像はいつ頃から造られ始めたのでしょうか。モアイ像は10世紀頃から、祖先や守り神を祀るために盛んに造られ始めたといわれています。聖域の印であるアフとよばれる祭壇の上にモアイ像は設置され、島民は祈りを捧げていました。島の神宮や有力者の家の前に祭壇が造られていることも多く、モアイ像は一族の守り神であった可能性も高いとみられています。

歴史的に定かではありませんが、伝承によると、この島に最初に移住してきたのは長耳族と呼ばれる部族でありました。後から渡ってきた短耳族とは、お互いの文化を尊重しあって暮らしていたといわれています。しかし次第に島の人口が増加、それにともない部族間で揉め事が増えたために、この小さな島で勢力争いが始まったのでありました。

 

苛烈する部族間の争い

モアイ像

部族の優劣を決める象徴として、競い合うように高く大きなモアイ像を建て始めたまではよかったのですが、それぞれの部族の象徴であるモアイを引き倒す戦争に発展していきました。敵の像をあらかじめ運んでおいた大きな石板をめがけて引きずり倒し、破壊し合うといったことが行われました。

当時のモアイは帽子をかぶり赤い眼をしていましたが、その赤い眼から不思議な霊力 (マナ) がでるという迷信を恐れ、像はうつ伏せに倒されました。これが何世紀もたった今でも土に顔をつけて倒れているモアイ像が存在する理由だといわれています。

また、もともと痩せた土地であるうイースター島で人口が急激に増加したため、食糧危機がおこりさらに部族間の争いも激化土地もますます荒れていき今から100年前は、木は1本もう生えていなかったと語る現地住民もいることからとてつもない惨状が想像出来るでしょう。

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破滅寸前にまで追い込まれたイースター島の住民

モアイ像

19世紀、イースター島の住民は西洋文明に踏み躙られ、絶滅寸前にまで追い込まれたといいます。

詳しい記録は残されていませんが、1722年にはオランダの探検家ヤコブ・ロッヘフェーンがこの島に上陸したときには、約1,000体ものモアイがいたとされています。また、島の人々はモアイの下に跪き、祈りの儀式を行っていたとの航海記録も残っているのでした。この上陸日がイースター=イエス・キリストの復活祭の日だったために島は「イースター島」と呼ばれることとなりました。

ジェームズ・クック船長

その後、イギリス人探検家のジェームス・クック (船長) が1774年に上陸その際の記録では、まだ多くのモアイが直立姿で残っており、山のふもとには壊された、あるいは作りかけのモアイ像が放置されていたといいます。

 

イースター島を襲った悲劇

奴隷 (canva)

そして、そんなイースター島には、別の形でまた悲惨な時代がやってきました

19世紀初頭になるとヨーロッパやアメリカの白人たちが、捕鯨船でやってくるようになり、それ以降60年もの間、外国人たちは残虐非道な行いが繰り返されることになります。これはこの島だけでなく、ポリネシア全域で同様の悲劇が引き起こされていました。自国以外の国から多くの労働者を確保し、安い賃金で働かせるためにこの周辺の島民を拉致してアシカ狩りや鉱山などに送り収容してこき使うようになっていたのです。なかでも1862年の奴隷狩りが一番悲惨でありました。

 

激減した住民

奴隷 (canva)

ペルーの肥料会社に売りつけて不潔で過酷な労働をさせるために、大勢の奴隷商人たちがイースター島の住民を捕らえて連れ去ったといいます。この時はイースター島で1,000人以上の男女が拉致され、数年後に島へと帰還できたのはたったの15人でありました。過酷な状況での強制労働で亡くなる者や、生き延びてもほとんどの人々が伝染病に感染していました。

免疫がなかった島民たちはすぐに感染し、結核や天然痘が島内に蔓延してたくさんの島民が命を落とす結果となったのでした。

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あとがきにかえて

本当は悲しいモアイ像

イースター島を襲った一連の悲劇により、島民の数は激減しました。

そのなかには島の王や、その一族、新刊などの重要な役割の人々も含まれていたため、島の文化や伝承はほぼ壊滅したも同然でありました。どのくらいかというと、1600年ごろには約7,000人いた島民は、1877年にはわずか111人になっていたとも伝わっています。モアイの神秘的なパワーや島の歴史を知る住民はいなくなって、モアイ像の山来は徐々に不明となっていきました。

なぜあんなにも多くの巨像が造られたのか、どうして一部のモアイ像はうつ伏せの状態で放置されているのか。イースター島は謎とともに観光客を引き寄せ今は有名な観光地として世界中の人々に愛される地となりました。しかし、引き倒されたモアイは観光客用に発掘され復元が進んでいますが、一方で、苦しそうに土に顔を埋めているモアイ像もまだたくさん存在しているのでした。

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参考文献

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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