【レオナルド・ダ・ヴィンチってどんな人?】異彩を放ちこの世を彩った天才の生涯

絵画や神話・物語

明らかな異彩を放ち、この世を彩ったレオナルド・ダ・ヴィンチ。「モナリザ」を描いた人物としても知られる天才は、一体どんな人だったのでしょうか。この記事では、レオナルド・ダ・ヴィンチとはどのような人物だったのか、そして彼の残した功績をわかりやすくご紹介していきます。

この記事のポイント
  • 少年時代にヴェロッキオに弟子入りし、腕を磨いたレオナルド
  • 自分の絵には何かを語る力があるとして、生涯様々なアプローチを試みた
  • その理想の高さ故、未完成品も多かったレオナルドだが、良きパトロンたちの庇護の元、壮大な作品を残し続けた
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レオナルド・ダヴィンチとは

レオナルド・ダヴィンチは歴史上最も影響力のある芸術家の一人であり、芸術の領域だけでなく科学の領域にも大きな遺産を残したことで知られています。ダ・ヴィンチは、ラファエロやミケランジェロのような同時代人の中で「創造性の黄金時代」を生き、彼が触れるものすべてに独自の才能を発揮しました。

ペリクレス時代のアテネのように、ルネサンス期のイタリアは人類史の頂点であるといわれていまあす。レオナルド・ダ・ヴィンチほどルネサンス時代を象徴する名前はないでしょう。多くの成功を成し遂げたレオナルドですが、同じくらい失敗も経験した人物でした。

時代に流されず

当時のイタリア半島では都市国家が乱立していました。

そんな最中、レオナルドはいくつもの宮廷を渡り歩き、結果的に行く先々で、支配者たちが繰り広げる戦争や抗争に巻き込まれることなったのです。67年の人生の中で、絵筆を取らない時期もありましたしかしそんな中でも、彼は絵画への思いを書き留め、書物を読み漁ることをやめなかったレオナルド。

自分の絵には、何かを語る力がある

こう考えていた彼は、「自分ならば、言葉で表現ができないような論理のようなものを視覚化できるかもしれない」と信じてやみませんでした。絵画制作の技術的なアプローチにも取り組み、挑戦の結果がたとえ吉と出なくても、生涯挑戦を続けた人物でした。

レオナルドの生い立ち

(レオナルド・ダヴィウンチ)

1452年4月15日に誕生した、レオナルド・ダ・ヴィンチ。

生まれたのは、トスカーナ州のフィレンツェより西側にある小さな町ヴィンチでした。レオナルドは非嫡出子として生まれ、「レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダヴィンチ (ヴィンチに住む、セル・ピエーロの息子のレオナルド)」という洗礼名が付けられました。

「ダ・ヴィンチ」とは、「ヴィンチという町の出身」という意味であり、出身地に由来しているのです。長い間レオナルドは母の元で暮らしていましたが、5歳になる頃にいはヴィンチいの祖父に引き取られることになります。7歳になると、父そして継母とともにフィレンツェに移り住みます。この大都市は非常に魅力を伴った場所でしたが、15世紀の都市は不衛生かつ不健全な場所でもありました。

私生児として生まれて

この「非嫡出子」という生い立ちが与えた影響は、決して少なくはありませんでした。偉大な芸術家として世の賞賛を浴びていた57歳の時でさえ、まだ彼のことを「私生児」だと指差す人がいたほどでした。しかし、本人が気にしていたか、といえばそうでもなく、彼は自分なりの方法で世界と関わっていました。

幼少期からその才能を発揮し、自然界に興味を持ち、鳥や動物の解剖学的研究を行うなど、早くから芸術や科学に興味を持っていたレオナルド。若い時の彼は上の画像に見える通り、割とイケメンだったとも言われていますね。

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ヴェロッキオへの弟子入り

レオナルド・ダヴィンチが、ヴェロッキオに弟子入りしたのは14歳の時です。

ヴェロッキオは、当時のその地における最も名高い芸術家でありました。

父とともにヴェロッキオの工房を訪ねたとき、父ピエーロは息子が描いた素描を何枚か持参していました。ヴェロッキオはその絵を見るなり、出来栄えに感嘆。すぐさまレオナルドを「少年の徒弟」として受け入れたのでした。

(ヴェロッキオと推測されている肖像画)

ヴェロッキオは美術界の重要人物であり、人気のある彫刻家、画家、金細工師でもありました。レオナルドはそこで9年間の徒弟修行を努めることになります。

若きレオナルドは、ヴェロッキオの忙しいフィレンツェの工房で、仲間の弟子であるドメニコ・ギルランダイオ、ピエトロ・ペルジーノ、ロレンツォ・ディ・クレディのそばで働きながら、サンドロ・ボッティチェッリのような巨匠と出会っていきました。

レオナルドは、ヴェロッキオの指導の下、工房周辺での様々な単純作業から、絵の具の調合や表面の準備にまで携わっていたのでしょう。その後、師匠の作品の勉強や模写へも手を進め、他の弟子たちと一緒にヴェロッキオが巨匠の作品を制作するのを手伝っていくことになります。

レオナルドは、修業時代に多くのことを学びました。デッサン、絵画、彫刻の腕を磨いただけでなく、工房やその周辺で働いていた他の人々を通じて、力学、大工、冶金学、建築製図、化学などの多様な分野の知識を身につけていったのです。

(Landscape Drawing for Santa Maria Della Neve – by Leonardo da Vinci)

1473年、ヴェロッキオの元での修行も半ばを過ぎた頃、アルノ川の渓谷を描いた『サンタ・マリア・デッラ・ネーヴのための風景画』を完成させました。これは、レオナルド・ダ・ヴィンチに帰属する最初期の作品です。

レオナルドの痕跡

ヴェロッキオの時代、工房の主人の作品といっても、実際の絵画は共同作業によって作られていました。弟子は絵を描くための板を準備するだあけでなく、絵の中でさほど重要ではない部分も担当していたのです。人物だけ、また最も描くのが難しい部分だけは工房の師匠が仕上げる、といったことも多かったようです。

そのためヴェロッキオの作品においても、レオナルドの痕跡は見ることができます。何年にもわたって、『キリストの洗礼』や『受胎告知』といったヴェロッキオの傑作が綿密に調査され、レオナルド・ダ・ヴィンチがどの人物に関わっていたのかが考察されてきました。

1475年の『キリストの洗礼』では、

天使の一人はレオナルド自身の作品ではないか

と推測されており、同時期に制作された『受胎告知』では、天使の翼や背景に描かれた弟子の筆の跡が専門家によって検出されています。

(ダヴィンチが請けおったのは、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使だとされている)

実際、歴史家たちは『受胎告知』をX線撮影し、鉛ベースの絵の具を使ったヴェロッキオの重い筆使いと、ダヴィンチの軽い水性絵の具を使った筆使いを明確に区別することができています。

1472年時点ではフィレンツェの画家組合の一員であったレオナルドですが、1476年までヴェロッキオの助手として修行を続けました。師の影響は、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画や素描の驚くべき生命力と解剖学的な正確さに現れています。

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ダ・ヴィンチとモナリザ

師匠ヴェロッキオの居心地のいい巣を離れ、自前の工房をかまえたレオナルド。ジネヴラ・デ・ベンチの肖像を描いたことを皮切りに、彼の元には注文が舞い込み始めたのでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチは中年期において、美術や科学、工学などの分野において多くの成果を残しました。彼は当時最も著名な芸術家であったミケランジェロやラファエロと競い合い、その芸術的才能を示す多くの作品を生み出していったのです。

その中でも最も有名な作品の一つが「モナ・リザ」であり、彼が中年期に制作した作品でした。

この作品は、「リザ」という女性のポートレートであり、彼が独自の技法を用いて、モデルの微笑みを緻密に表現したものです。リザは、1945年、15歳で商人のフランチェスコ・デル・ジョコンドに嫁いだ女性でした。彼はこの作品に数年間をかけて取り組み、微妙な光と影の表現を用い、人物の表情や背景にも注意を払いました。

モナリザの魅力と行方

「モナリザ」の真の魅力は、レオナルドが推し進めた実験によって「スフマート」技法が突き詰められ、神秘的な効果を生み出したところにあるともいわれています。光がどのようにものや人物を照らし出し、そしてそれが翳りゆくかが描きこまれているのです。

この絵は結局依頼主の手に渡ることはありませんでした。その理由については、現代でもわかっていません。肖像画が本人に似ていなかったので、リザと夫に受け取りを拒否された、という可能性もあありますが、単にレオナルド本人にとって「この絵がまだ仕上がったなかったから」ということだったのかもしれません。

永遠に実験を続けるかのように、この絵に向かい続けたレオナルド・ダ・ヴィンチ。1519年に彼がフランスで死去した時、「モナリザ」はまだレオナルドの手元にあったのでした。

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未完成品が多い理由

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の中には、未完成の作品が多く存在しています。その理由は、彼が常に新しいアイデアを追求していたことに理由があるといわれています。一つの作品が完成させる前に、次のプロジェクトに取り掛かってしまうことが多かったのです。

また、彼は完璧主義者であり、自分の作品に対して常に高い基準を持っていました。そのため、作品が自分の理想に達しなかった場合、作品を完成させる代わりに新しいものへ移ることがよくあったのです。また、自分の作品に対するアプローチが独特であったため、完成した作品よりも、そのプロセスによる知見を重視していたという背景もありました。

レオナルドは自然界の理解に深い興味を持ち、自分の作品を通じてそれを探求し続けていました。完成した作品よりも、未完成作品から得られる知見を重要視したことも「未完成作品」が多い理由の一つだと言われています。

晩年のレオナルド

パトロンであったジュリアーノ・デ・メディチが亡くなった後、64歳になったレオナルドは新たなパトロンの庇護のもとへはいりました。その新たなパトロンとは、1515年1月に即位したフランス国王フランソワ1世です。

それは雇い主の気まぐれに振り回されたり、政治的運命に巻き込まれたりする恐れがあったものの、研究や実験を続けるためにはそれが最善の環境だったのです。フランソワは「王室画家」という地位をレオナルドに与えました。

そしてフランソワの姉の勧めにより、クルーの館にレオナルド、フランチェスコ、サライは落ち着くことになったのです。それは王家が1490年代に夏の別荘として改築した古いお城であり、フランソワと姉のマルグリッドが幼少期を過ごした場所でもありました。レオナルド、フランチェスコ、サライの三人に対してフランソワは充分な報酬を支払いました。しかしその代償として彼は、レオナルドがそこにいること以外に要求することはなかったのです。

レオナルドのことを、「きわめて偉大なる哲学者」ととらえていたフランソワ。フランスに来てからのレオナルドは絵を描くことはほどんどなく、ローマから持ち込んだ絵も、「洗礼者ヨハネ」、「聖アンナと聖母子」、そしてあのモナリザとわずか数枚のみでした。

天才の最後

レオナルドを訪問したひとりの記録によると、は右手の自由が利かなくなっており、もはや絵を描くことはできなくなっていたのだといいます。そんな師匠に代わって絵を描いたのは、フランチェスコとサライでした。

右手の麻痺が何であれ、手首と指は麻痺には犯されておらず、レオナルドは相変わらず素描と著述は続けていました。この頃のレオナルドの素描には、大災害を主題としたものが多くみられるようになっていきます。

暴風雨は自然の力の表れであり、自然の力はいつだって、レオナルドを魅了してきました。こういった素描を通して、レオナルドは自然 (目に見えないもの)の可視化したかったのかもしれません。晩年の素描の傾向として、周囲の世界を忠実に表すより、むしろ、彼の中にある世界を表現していったともいわれています。

レオナルドが亡くなったのは、1519年5月2日のことでした。フランチェスコが師の最後の立会人となりました。そうして、偉大な巨匠の死の瞬間は、たちまち伝説となったのでした。

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まとめ

ルネサンス期に多岐にわたる分野で活躍した、天才レオナルド・ダ・ヴィンチ。

レオナルドは生涯をあくなき研究に捧げ、美術だけでなく、科学や技術、哲学など、多様な分野で研究や発明を行い、多彩な才能を発揮した人物でありました。モナリザにみえる「スフマート技法 (輪郭をぼかすことによって、影から光へのグラデーションをつけより立体的にみえる手法)」は、彼の研究の賜物です。

レオナルドが亡くなったのは1519年5月2日のこと、場所はクルーの館でした。「フランソワ1世の腕の中で息絶えた」という逸話もありますが、これは創作だったことがわかっています。16世紀の終わりには、レオナルドのノートや、素描は、全ヨーロッパの芸術家や学者の手から手へと広く行き渡っていきました。生涯、あくなき探求を続けたレオナルド・ダ・ヴィンチ。

彼の業績は、後世に多大な影響を与え、現代の科学技術や芸術にも大きな影響を与えています。ダヴィンチは、その多様な才能と独自の技法によって、歴史上最も偉大な天才の一人として、今もなお称えられているのでした。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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