【レオナルド・ダ・ヴィンチの名作と生涯を解説】天才はどんな人物だったのか

絵画や神話・物語

『モナリザ』で知られるレオナルド・ダ・ヴィンチは、イタリアの芸術家。絵画だけでなく、文学、建築、化学分野でも秀でており傑出した発明をするなど多才な人物でもありました。この記事では『万能の天才』と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチと、彼の作品の特徴をご紹介します。

この記事のポイント
  • 幼少期から才覚を発揮し、14歳でヴェロッキオへ弟子入りしたレオナルド
  • 良きパトロンに恵まれながら、絵画や自身の技術を追求し続けた
  • 手の自由が利かなくなった晩年も、情熱は絶えることがなかった
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レオナルド・ダ・ヴィンチとは

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月から1519年5月までこの世界を彩った真の天才であり、芸術だけでなく科学にも大きな遺産を残した人物です。イタリアの画家であり、そのほかにも製図、彫刻、建築、技術にも長け、分野をまたいで活躍した、歴史上最も影響力のある芸術家のひとりです。

ダ・ヴィンチは、ラファエロやミケランジェロと同時代にうまれ『創造性の黄金時代』を築き、彼が触れるものすべてに彼のユニークな才能を発揮しました。ペリクレス時代のアテネと同様、ルネッサンス時代のイタリアは人類史の頂点とされており、現在ルネサンス時代を象徴する名前としてレオナルド・ダ・ヴィンチ以上にふさわしいものはない、ともいわれています。

14歳でヴェロッキオに弟子入り

レオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴィンチ村の近くにあるトスカーナ州近くのヴィンチ街で生まれましたそして14歳のときに、当時イタリアで名を馳せていたヴェロッキオに弟子入りします。

フィレンツェという街にとって、美術は一代事業でありました。

なかでも、ヴェロッキオは、専門的な技法を自由自在に操る人物でした。絵画に彫刻、そして顔料、ブロンズ、大理石、金や銀に至るまで、幅広い表現様式と材料を駆使しながら、独創性に富んだ作品を次々と生み出していったのです。レオナルドのような若き芸術家の卵にとって、ヴェロッキオはバイタリティ溢れる、理想的な指導者でありました。

多忙を極めていたヴェロッキオの工房で、若きレオナルドはドメニコ・ギルランダイオ、ピエトロ・ペルジーノ、ロレンツォ・ディ・クレディといった見習い仲間とともに働きながら、絵の具を混ぜたりする短調な作業から、表面を整えたりする作業まで様々な工程を学んでいきましたそして最終的には模写だけでなく、他の弟子たちと一緒に、ヴェロッキオの作品製作を手伝うまでに至りました。

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天才たちのなかで

ヴェロッキオは、ドナテッロの師のもとで工芸を学び、この時代にイタリアを統治していたメディチ家に正式に認められた彫刻家でした。またもうひとつ興味深いのはフィレンツェの芸術家としてだけでなく、教育家としても第一人者であったことです。

それ故工房には前途有望な若い芸術家たちが大勢集まることなりました。実際、この工房にはピエトロ (1500年前後には当代随一と謳われた画家) 、ヴェロッキオの死後に工房を引き継ぐことになるロレンツォがいました。工房でのレオナルドの仕事は、ほかの弟子たちと何ら変わるものではありませんでした。あちこちへ集金に回り、顔料を買い付けそれを細かい粉末になるまですり、卵や油と混ぜ合わせて練るなど、いわば「使い走り」でもありました。

それ以外にも、板に石膏を下塗りして、絵の下地を準備したり、素描を板に転写するといった方法も習得。レオナルドはとことん勤勉な弟子として、見習い期間中に工房やその周辺で働く人々を通じて、絵や彫刻の技術だけでなく、機械工、大工、冶金、建築製図、化学など、さまざまな分野の知識を身につけていったのでした。

レオナルドの代表的な作品

(レオナルド・ダ・ヴィンチ 受胎告知)

ヴェロッキオの工房で修行していた頃の作品には、『受胎告知』があります。

この静かな作品は、空気の存在が感じられる背景のなかに描かれたもので、レオナルドは下準備に手間をかけ、色を入れる前に、単色で下描きする革新的な方法をとっていました。

ヴェロッキオの元を離れて自分の工房を立ち上げた後、レオナルドは次第に芸術作品を生み出していきます。1482年、30歳になったレオナルドは頻繁に絵の注文を受けるようになっていきますが、どの注文も自分の力量を発揮するにはどこか物足りなさを感じていました。

一方、北方に一するミラノは、フィレンツェに比べると、優秀な芸術家がいない不毛の地でありました。レオナルドがミラノで過ごした最初の年については、何の記録も残っていません。生計を立てるために、レオナルドは絵を描く必要があったものの、独力ではそれは難しいものでした。ミラノでは絵の注文のほとんどが画家の集団に発注されており、仕事をするためにはパートナー探しから始める必要があったのです。

そこでレオナルドは、ルドヴィーゴの宮廷と強い繋がりを持つジョヴァンニ、エヴァンジェリスタとともに共同で受注することになるのでした。そして描かれたのが、あの有名な「岩窟の聖母」です。

 (岩窟の聖母)

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宮廷にはいって

この頃レオナルドは、ミラノで伝統的な工房も経営していました。

それから3年ほどの月日が経ち、ようやくレオナルドはこの地を治めるルドヴィーゴの目に留まるのでした。1485年、ミラノで頭角を現し始めていたレオナルドの手による小さな聖母像を、ルドヴィーゴがハンガリー王に献上したのです。

ルドヴィーゴがパトロンとなってから生活は一変。レオナルドはその後9年にわたって宮廷ではたらき、そこを住まいとしたのでした。画家としてだけではなく、舞台装置や衣装のデザインなども手がけていたレオナルド。ルドヴィーゴのために、都市の改造計画、新しい下水道整備の構想などにも取り組んでいました。

最後の晩餐と宮廷

そうして、レオナルドはこれまでにないほど巨大な絵の注文を受けることになります。

『最後の晩餐』は、後世にもっとも大きな影響をあたえた作品で、乾いたしっくいに油彩で描くという実験的な技法が用いられました。当時壁画には水彩が使われるのが一般的でしたが、この革新的な試みは幸か不幸かはがれやすく今作品の劣化が早まってしまったのです。

 (最後の晩餐)

レオナルドが追い求めたのは、人物自身がドラマを持った絵画でした。

彼が描いた「最後の晩餐」では、使徒のひとりが裏切ろうとしていることをキリストが暴露した瞬間、使徒たちの心に走った衝撃の大きさが見事に表現されています。

ルドヴィーゴの宮廷の生活は、刺激に溢れるものでした。ミラノの民衆に課した重税を財源として、宮廷では華麗な生活が送られており、音楽や芸術、軍事技術の開発が奨励されていました。そして、レオナルドはそのすべてに関係していたのです。レオナルドはやがて宮廷に集まった文化人たちのリーダー的な存在となり、さまざまな分野を代表する芸術家や学者たちの討論で座の中心となったのです。

(チェチリア・ガッレラーニ (白貂を抱く貴婦人))

ちなみに、レオナルドが描いた「チェチリア・ガッレラーニ (白貂を抱く貴婦人)」は、ルドヴィーゴの愛人でした。彼女が彼の愛人となったのは、まだ彼女がほんの少女だった時のこと、1489年、ルドヴィーゴと若干15歳だったチェチリアとの関係は公然の秘密でありました。

そんなルドヴィーゴでしたが、1499年9月にフランス軍がミラノに侵攻して勝利をおさめるとるルドヴィーゴは逃亡。ミラノ奪還を図りますが、やがて捕虜となってフランスで投獄さあれ、1508年に獄死。レオナルドは大のパトロンを失うことになったのでした。

メディチ家の庇護の元

1501年3月にローマを訪れた後、フィレンツェに戻ったレオナルド。

彼の一生は絶え間なく変化し続けるイタリアの複雑な政治情勢といつだって隣り合わせだったのでした。そうして何年かがたち、レオナルドが落ち着いたのは教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチの元でありました。

レオナルドは、メディチ家出身の教皇が待つ、ローマの宮廷へと招待されたのです。そこではバチカン宮殿の一角に住まいと工房が与えられ、これは当時の芸術家としては破格の対応でありました。高齢の巨匠レオナルドに対する最大の敬意であったのか、彼も61歳になっていました。

この頃描かれたのが、『洗礼者ヨハネ』です。

(洗礼者ヨハネ)

明るい背景に浮かび上がる裸の上半身は、初期の肖像画群と同じような光、絵の前から差し込むような光に照らし出されています。この頃は専ら、絵筆を持つよりも絵画理論に関する著述に時間を割くほどうがすっかり多くなっていたレオナルド。

それでも底力を発揮し、最後の絵を仕上げたのでした。

晩年のレオナルド

政治情勢に振り回されながらも、パトロンのもとで名作を残し続けたレオナルド。

ジュリアーノ・デ・メディチが亡くなった後、64歳になったレオナルドは新たなパトロンの庇護のもとへはいることとなりました。1515年1月に即位したフランス国王フランソワ1世です。彼は、「王室画家」という地位をレオナルドへと与えました。

そして国王の姉の勧めにより、レオナルドは弟子たちとともに落ち着くことになったのです。仲が良かった、とされるフランソワ1世とレオナルド・ダ・ヴィンチ。国王はレオナルド達に対して、充分な報酬を支払いました。晩年には手の自由が利かなくなるなど、不都合があったレオナルドですが、国王の庇護のもと穏やかな日々を過ごすことができたのでした。

右手に麻痺を残しながらも、動く手首と指を使い、素描や著述などは続けていたレオナルド。この頃描かれた素描には、大災害を主題としたものが多くみられるようになっていきます。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、クルーの館で、1519年5月2日に亡くなりました。サライは前年、ミラノへ帰郷していましたが、フランチェスコは師の最期に立ち会うことになりました。

レオナルドとフランソワ1世

その最期には色々な説が噂されていますが、有名なのはこんな伝説です。

友情から、毎日のように彼のもとに訪れていた国王が、そのとき部屋にはいってきた。すると彼は、ベッドの上に身を起こして自分の病気や容態について話した。

ー言い終えると彼は、死の使者たる痙攣に見舞われた。国王は立ち上がり、老人の頭を抱いてその身を支え、情愛を示した。

ー彼の身体の痛みは和られ、そうして彼は75年の生涯を閉じた。

(伝記作家 ジョルジョ・ヴァザアーリ)

 

この伝説は、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の様子を伝えるものとして、現代に至るまで定番となっています。下の絵画の中ではフランソワ1世は生々しく、息絶えつつある老人レオナルドを抱擁しています。

(レオナルドダヴィンチの死)

しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチが息絶えたのは67歳です。そして、この芸術家の死にフランソワ1世が立ちあ会ったという話も、いまでは創作だったことがわかっています。しかしそれでも、フランソワ1世とレオナルドの間には友情があったことは確かなようです。哲学者にて画家であったレオナルドと国王は、あらゆることを語り合いながら長い時間を過ごしました。そして何度となく友人の体調を気遣って、忠告していたそうです。

 

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まとめ

多くの成功を成し遂げた天才レオナルド・ダ・ヴィンチ。

当時、イタリア半島では、都市国家が乱立していました。そんな中、彼はいくつもの宮廷をわたリア歩き、結果的に行く先々で支配者たちが繰り広げる戦争や抗争に巻き込まれ続けます。しかしそんな母国の歴史もどこ吹く風で、自身の作品を作り続けたのでした。

レオナルドは建築学にも秀でており、教会の設計を中心に建築を描くこともありました。レオナルド・ダヴィンチは当時の学問にたずさわらず、古典古代の文学にも文学にもほとんど興味がなかったといいます。

典型的な人文主義者ではありませんでしたが、その偉大なる名声ははかりしれず、その存在は、『知的な思索者としての芸術家』という概念を確率するのに大きな役割を果たしたのでした。

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