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【ルイ17世は生きていた?】アントワネットの息子の無情な運命 (後編)

2021/05/20
 
ルイ17世
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

タンプル塔で死んだと思われていたルイ17世。しかし数十年後に「自分はタンプル塔から逃げ延びた王太子」であるという謎の男が現れた。王家の従者も認める彼は一体何者なのか、こちらは【ルイ17世は生きていた?】アントワネットの息子の無情な運命 (前編)につづく後編です。

 

ノーンドルフの奇々怪々な身の上話

マリーアントワネットの子供達

王太子はタンプル塔へいれられたとき、7歳でありそれから40年以上たっていました。記憶の混乱かと思いきや、ノーンドルフの話には奇妙な点もみられました。1795年から1810年までどうやって暮らしてたかということははっきり思い出せないくせに、子供時代のこととなるといくつかの詳細をはっきりと覚えていたのです。

たとえば、ルイ17世の小間使いであったランボー夫人はマリー・テレーズにあててこう書いています。「あなたの弟君は生きておられます。彼を見た時、私にははっきりわかりました。王太子殿下とともに過ごした日々の思い出が、私に彼こそ本物であると確信させました」と。

マリー・テレーズ

マリー・テレーズはタンプル塔にひとりで幽閉されている間、別室にいる弟の叫び声を聞いていました。弟想いの彼女にとってそれは耐えられないほどの苦痛であり、度も看守に「弟を助けて」と懇願していたといいます。彼の死を知ったのは、タンプル塔の中でのことでした。それが何を今更、怪しい男にマリーが警戒するのも無理はありません。

 

無視を貫いた実姉マリー・テレーズ

ルイ16世とマリー・アントワネットは断頭台に消え、一緒に閉じ込められていた叔母エリザベスも既に殺されていました。生きていたとして、ルイ17世の近親は実姉マリー・テレーズだけだったのです。彼女は長い監禁生活の末、人質交換という形で母の実家であるオーストリアハプスブルク家に身柄を引き取られ生き延びていました。

そしてそんな彼女の元へ、似たような手紙が叔母エリザベスの元侍女からも届きました。これらの手紙にマリーは返事を書くことはありませんでした王太子がきつくうさぎを抱きしめて噛まれた後など、ノーンドルフは体に王太子の体と共通するいくつかの特徴を持っていました。しかしマリー・テレーズへの謁見の申し出は断られ続けノーンドルフはひどく落胆したといいます。

 

国王一族に対して、身分要求訴訟

Karl-Wilhelm Naundorff

実際、ルイ17世を名乗る候補者が多くおりました。しかしマリー・テレーズはというと、他のどの候補者よりノーンドルフの手紙に心を痛めていたそうで、彼の要求を退けるために相当額のお金を使ってきていました。

しかし結局、謁見は叶わず、相変わらず無視し続けるマリー・テレーズに業をにやして、国王一族に対して身分要求の訴訟を起こしました。当時の国王はルイ・フィリップ。彼は当惑してドイツに使者を派遣し、ノーンドルフのドイツ国籍を差し出すように命じたのですが、なぜか捜索はうちきられてしまったのでした。6月16日、突然ノーンドルフはとらえられ、書類の一切を押収。事が大きくなるのを案じて、国王がうった非常手段でありました。こうしてノーンドルフは無情にも、フランスからイギリスに強制出国させられることになったのでした。

 

自称王太子、謎を残してあの世へ

Karl-Wilhelm Naundorff

その後、彼はイギリスで爆弾の発明研究に従事しました。かつての王太子の卯墓は、彼がおもちゃの大砲を発砲したり、射撃を軍力指揮するのが好きだと語っていた物でしたから、このいささか異常な趣味も「本当に王太子なのではないか」という説を助長したといいます。

しかし1841年、ノーンドルフの家の爆薬実験室で爆発が起こります。ノーンドルフは大火傷をおい、さらに同年今度は借金を滞納して牢に放り込まれてしまいます。牢から出てきたときは少しばかりの資産もすっかり没収され、住む家もなくなっていたのでした。その後ノーンドルフはオランダに向かい、オランダ政府からデルフトに定住する許可を受けます。しかしようやく安寧な日々を迎えようとしていた矢先、突然急病にたおれ、1845年8月10日あっけなくこの世を去ったのでした。

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ノーンドルフは本当に生き残った王太子だったのか

ノーンドルフ (ルイ17世の生き残り説)

さて、ノーンドルフは本当に逃げ伸びた王太子だったのでしょうか。彼の死から100年後、カストロはノーンドルフの髪の毛を鑑定しました。1950年9月27日、多数の学者や証人の間で、オランダ裁判所のヒルスト医師が、デルフト墓地でノーンドルフの棺を開きました。そしてノーンドルフの髪の毛の一部が鑑定にかけられたのですが、結果はカストロを大きく失望させるものでした。ルイ17世自身の髪の毛にみられた「珍しい髄管内の中心転移」がノーンドルフの髪の毛には見られなかったのです。はてさてノーンドルフはやはり、ルイ17世ではなかったのでしょうか。

さらに2000年4月19日には、決定的な事件が起こります。パリ郊外サンドニ教会に保管されていたタンプル塔で死亡した少年の心臓と、オーストリアの修道院に遺されていたマリー・アントワネットの遺髪のDNA鑑定がおこなわれたのです。結果は、タンプル塔で死亡した少年は、たしかにルイ17世であるというものでいした。

つまり生き残りなどいるはずがなかったのです。

 

ノーンドルフはなぜ王太子を自称したのか

しかしノーンドルフとは一体何者だったのかただ単に顔つきが似ている故に「生き延びたルイ17世」となることを決めたのか。後ろに事情を知りつつ、よからぬことを考えた別の輩がいたのか。そもそもタンプル塔で亡くなった少年 (本物のルイ17世)の死蔵は、遺体の検死の際に医師の手で取り出され、その心臓はパリ大司教らの手を転々としたあと1975年に歴代フランス王家の墓のあるこのサンドニ教会へ納めらました。

そもそも人の手から手へとわたったとされるタンプル塔の少年の心臓が、果たして正真正銘の本物だといえるのかはおいておいても、これでようやく、ノーンドルフがルイ17世ではないと結論づけることができたのでした。

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あとがきにかえて

マリーアントワネットの子供達

マリー・アントワネットの娘であり、一家で唯一生き残ったマリー・テレーズは遺書を残していたといいます。フランス外務省に現在も眠っていると伝えられるそれは、彼女の死からとっくに100年以上たったのに、それが公表されることもありませんでした。何が書いてあったのかは、いまも謎のままです。しかしノーンドルフは「ルイ17世の生存説」をかなり色濃く残したわけですが、当の姉は会うこともせず死ぬまで彼を弟とは認めなかったわけです。しかし侍女の発言をはじめ、彼がルイ17世ではないかという説は死ぬまで彼女を苦しめました

本物でないなら、なぜここまで周りがノーンドルフ=ルイ17世ヨイショしたのでしょうか。フランス革命は、国を血に染める混沌な時代を生み出しました。王家への恨み憎しみ、王党派とナポレオン派がぶつかりけして安寧とはいえない情勢だったのです。

 

家系図でみるブルボン家

ルイ16世 (ブルボン家家系図)

1814年フランスで王制が復活し、ルイ18世 (ルイ16世の弟) が王位についたとき、姉マリーはようやくフランスに戻ることができました。1824年に彼が亡くなると末弟のシャルル10世が後を継ぎ、ルイ・アントワーヌ・ダルトワが皇太子となりました。長年の亡命生活を経て、マリー・テレーズはようやくフランス皇太子妃となったのです。

国民の支持がどちらに転ぶかわからない状態で、王家に恨みを持つものが裏で何らかの陰謀をめぐらせていたのか。王家の従者がノーンドルフを後援したのは、王家に徹底的な引導を渡すための罠だったのか、果たして正統な血筋として裏で政治を操ろうとする輩がいたのか。それとも、後世にノーンドルフのことを興味本位で調べた文学者たちがおもしろおかしく脚色したのか。不都合な真実はいつだって闇に掻き消されてしまう物ですが、マリー・アントワネットからはじまる悲劇は本人断頭台にたってもおわらず、子供たちまでをも巻き込み。また何百年たったあとも、世界をざわつかせ続けているのでした。

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参考文献

  • https://fr.wikipedia.org/wiki/Karl-Wilhelm_Naundorff
  • https://fr.wikipedia.org/wiki/Louis_XVII
  • https://stephane-thomas.pagesperso-orange.fr/dossiers/louis17.htm
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Wilhelm_Naundorff
  • https://www.wikiwand.com/en/Karl_Wilhelm_Naundorff

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