【保存されたフランス王太子ルイ17世の心臓】は本物だったのか

フランスの歴史

18世紀末のパリ。フランス革命は、ルイ16世を打倒するためのテュイルリー宮殿の襲撃から始まりました。1793年、王と王妃マリー・アントワネットはギロチンで死を迎えました。そしてもうひとり、ルイ17世として王党派に担がれた王太子ルイ・シャルルもテンプル塔へと幽閉され、むごい最後を迎えることとなります。

しかし後にはルイ17世の生存説が囁かれ、テンプル塔で亡くなった少年は身代わりであり、偽物だったのではないかといった噂が流れるようになりました。塔で亡くなった少年は本当にルイ17世だったのか、この記事では保存された心臓の持ち主について深掘りしていきます。

この記事のポイント
  • 伝統に従い、テンプル塔で亡くなった少年の心臓は切り取られ保管されていた
  • この心臓が本当にルイ17世のものかは長年波紋を呼んでいた
  • 近年DNA調査が行われ、これはルイ17世本人のものである可能性が高いとわかった
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貴重な遺物

パリ近郊のサン・ドニ大聖堂は、3人のフランス君主を除いて全員が埋葬されています。

尖ったアーチ、オガヴァルの跳梁、そして飛び交う控壁を縫って進むと、やがてバシリカの下にあるブルボン家の地下墓所にたどり着きます。ブルボン家の地下墓地には、慰霊碑、つまり遺体を含まない「葬送碑」があるのです。最も大切にされている遺物の一つに、「ルイ17世」の遺体から取られた、ミイラ化した心臓があります。

それは、今では水晶の壺に納められています。

心臓を切り取って

ルイ17世はフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男でありました。1785年に生まれ、1793年に八歳で王党派からフランス王として担ぎ上げられます。しかし彼の人生は、その二年後の1795年のフランス革命の間に断たれることになります。

「国王の心臓を保存する」というフランスの風変わりな伝統に従い、幼い少年の心臓は彼が亡くなった翌日に外科医によって切り取られました。そして、フランス革命の激動の時代に心臓を守ろうとした監督医フィリップ=ジャン・ペルタンによって何年もの間隠されていたのです。

アルコール漬けにして

ペルタンは、心臓をアルコールに浸し、それを図書館の後ろに隠しました。これにより心臓は8年間保存されることになりますが、最終的にはアルコールが蒸発し、ミイラ化して枯れた遺物が残ったのでした。

その後、何年も忘れ去られたものの、ルイ17世の心臓は学生によって盗まれ、ブルボン王家のスペイン支部へと送られました。最終的に、心臓は19世紀にフランスの地に戻り、1975年にバジリカの本来の場所に運ばれたのでした。しかし、ルイ17世の心臓は、2004年6月8日にサン=ドニのフランス記念館が公式の葬儀ミサを執り行うまで、正式な儀式的埋葬を受けることはありませんでした。

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心臓の持ち主は誰?

しかし、その心臓が本当にルイ17世のものだったのかはしばらく波紋を呼ぶこととなりました。ルイ16世とアントワネットの間に生まれた、王太子ルイ・シャルルは、公式の歴史書によれば、1795年6月8日に結核のため、テンプル塔で亡くなっています。しかし、それと同時に 「実は王太子は生きていた」 「極秘のうちに安全な場所に連れてこられた」 という噂が広まっていました。

その結果、19世紀初頭には、「我こそが、ドーフィンである」と主張する男性が多数現れることとなったのです。実際、1845年、ナウンドルフという王太子を名乗った人物がオランダに埋葬されましたが、その墓碑銘には「ここにフランス王ルイ17世が眠る 」と刻まれています。

残された謎

しかしこれについては、1998年、人類遺伝学センターがナントの研究所と共同で、ナウンドルフの遺骨は、ルイ17世のものとは特定できないことを示唆しています。この結論は、「ナウンドルフの骨」とルイ17世の2人の生きている母方の親戚のDNAサンプルのミトコンドリアDNAの比較分析に基づくものでした。母方の親戚、すなわちルイ17世の2人の叔母とその母親の毛髪サンプルのDNA分析したところ、一致がみられなかったのです。

しかし、謎は残りました。テンプル塔で死んだのは本当にルイ17世なのか、それとも身代わりなのかということです。1795年に亡くなった少年の心臓が納められた水晶の壺は、ボーフレモン公爵の依頼により1999年12月に開封されました。

DNA調査

心臓は、パリのサン・ドニ大聖堂の地下納骨堂に保管されていました。心臓 (筋肉と大動脈) の2つのサンプルが採取され、1つはルーヴェン・ヒト遺伝学センター (ベルギー) のJ.J.カシマン教授の研究室で調査され、もう1つはドイツのミュンスターのB.ブリンクマン教授の研究室で独立して調査され、その目的は心臓のDNAをルイ17世の母方の親戚のDNAと比較することでありました。

調査は、ミトコンドリアDNAとして知られるものに焦点を当てたものであり、精子と卵子を介して次世代に伝わる古典的な核DNAには焦点を当てていません。はるかに小さなミトコンドリアDNAは、いわば細胞のエネルギー工場であるミトコンドリアに存在し、卵子によって、母系を通じてのみ受け継がれるものでした。

調査結果

さらに、1つの細胞に数千のコピーが存在するため、ここで研究されている心臓のような古い遺骸であっても確認ができるのです。この調査では、正確な結果を得るために汚染防止に細心の注意が払われました。心臓片 (-500 mg) は五つのセグメントに分けられ、一つのセグメントには大動脈片が含まれ、他の四つのセグメントは心筋でありました。

心臓の5つの異なるセグメントのDNAは、シリカベースの方法によって独立して抽出されました。そしてミトコンドリアDNAのコピー数を定量したところ、驚くべきことに心臓には比較的大量のDNA断片が含まれていたのでした。1795年に亡くなった少年の心臓がルイ17世のものであることを証明するには、心臓のDループ配列をルイ17世の母方の親戚のものと比較する必要がありました。このDループ配列とルイ17世の母方の親戚の間で一致が確認され、この遺された心臓はマリー・アントワネットと母方の親戚である子供のものであるということがわかったのでした。

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まとめ

長い間、隠されていた「テンプル塔で亡くなった少年の心臓」。

これが本物なのかは長年議論を呼ぶものでしたが、近年になって、心臓のミトコンドリアDNA Dループ配列が、母方の親戚 (マリー・アントワネットの親戚) と同一であることがわかり、ルイ17世が身代わりではなく、「ルイ17世本人のものだ」という公式見解を非常に強く支持するものとなったのでした。

テンプル塔に幽閉され、残酷な最後を迎えた王太子ルイ・シャルル。その身柄は「偽物だったのではないか」という噂もありましたが、今はその節は否定され、少年はルイ17世だったとする説が非常に濃厚となっています。

 

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