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【紫禁城で起きた悲劇】魔宮でつくられた清朝の歴史、井戸に投げ込まれた妃

 
紫禁城 (しきんじょう)
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

清朝の末期には官宮の腐敗、苛烈な権力闘争、宮廷内の権謀術数、アヘンの蔓延がはびこり、清帝国はまさに末期症状に喘いでいました。数々の策謀と拷問、そして虐殺。紫禁城でつくられた清朝の歴史は、まさに魔宮と呼ばれるにふさわしいものでした。この記事では、西太后が君臨した魔宮、紫禁城 (しきんじょう) を悲劇の歴史とともに紹介していきます。

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紫禁城 (しきんじょう) とは

紫禁城とは (しきんじょう)

1987年、世界遺産に登録された紫禁城。

陽光にきらめく大屋根の黄瑠璃瓦 (きいるりがわら) に象徴される、まさに地上の天宮の名にふさわしい歴史的遺構といえるでしょう。

中国にける城とは、城壁に囲まれた街全体を指します。北京は明代に完成し、清代に改修した東西7キロ、南北5キロの北京城内の内城と、その後の人口の増加で新たに南側を城壁で囲んだ横長の外城、そして城壁街である新市街の城壁からなります。

紫禁城とは

幅52メートルの濠、筒子河に囲まれ、内城のほぼ中央にあたる高さ7.9メートル、周囲3,428メートルの紅瓦色の分厚い城壁で囲まれた一画が、あの紫禁城です。東西750メートル、面積72平方メートルと京都御所の7倍の広さもあり、城壁の四隅には各楼がそびえています。この紫禁城は「故宮」とも呼ばれていました

 

成長末期に最大の権力を誇った西太后 (せいたいごう)

紫禁城とは (しきんじょうとは)

紫禁城は明朝の永楽帝により、1406年から1420年にかけて20万人もの労力をかけて建造されました。

紫禁城には、明、清朝の24代の皇帝が居住し、中国の政治、文化の中心となりました。大小700余りの殿閣には9999の部屋があるとされていました。まさに現存する世界最大級の宮殿建築物といえるでしょう。

西太后 (せいたいごう)

この紫禁城を語る際に外せないのが、成長末期の最大の権力者であり清朝の滅亡にかかわった西太后 (せいたいごう)でしょう。西太后は、清朝第9代皇帝・咸豊帝 (かんぽうてい) の第二夫人となり世継ぎである同治帝を出産したことで、咸豊帝が亡くなったあとに皇太后となった女性でありました。

1900年6月20日、義和団事件がおこりました。ドイツ公使と日本公使館付き書記官が殺害され、8月14日に8カ国連合軍は北京に入城したのです。西太后は、甥の第11代光緒帝 (こうしょてい) を伴って西安に逃げようと画策しました。

光緒帝 (こうしょてい)と、皇妃珍妃

その際に光緒帝は、北京に残ることを許可してほしいと嘆願しますが、受け入れられることはありませんでした。光緒帝の妃、珍妃 (ちんぴ)は、逆上した西太后の前に跪き、「光緒帝をむりに逃避行の道連れにしないでください」と願いでました。しかしそこは西太后。跪いて嘆願する珍妃に何も応えず、それどころか、お付きの宦官に泣き伏す若い珍妃を井戸へ放り込むように命じたのです。

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珍妃の井戸事件

寵愛をうけ恨みをかった珍妃

西太后と珍妃

そして起きたのが、「珍妃の井戸」と呼ばれている有名な悲劇です。

その井戸は紫禁城内の東部地区、西太后の御所となっていた寧寿宮の背後にあります。なにゆえに珍妃が井戸に投げ込まれ、若干25歳の若さで死ななければならなかったのか、それは宮廷内の権力争いが原因でありました。

珍妃は、広東、江西省の長官である長叙の娘でありました。時の皇帝、光緒帝は西太后の弟、桂祥 (けいしょう)の娘と結婚しますが、光緒帝は彼女を気に入らず第二夫人である珍妃ばかりを寵愛しました。

珍妃と瑾妃、光緒帝

彼女の姉である瑾妃 (きんぴ)も同じように皇妃として迎えられていたのですが、やや愚鈍で太っており丸顔であったため、「月餅 (げっぺい)」渾名されており、皇帝からは無視される存在でありました。光緒帝があまりのも珍妃ばかりを愛でるため、「西太后」ばかりではなく、「皇后」「月餅」らの3人の女性らから妬まれることとなります。

 

西太后の命で井戸に投げ入れられた妃

珍妃の肖像画

そればかりか、西太后のお気に入りの宦官頭である李蓮英 (りれんえい) は、光緒帝をひたすら嫌っていたため珍妃も疎ましくおもっていました。また珍妃は、ただ美しいだけではなく非常に優秀な女性であり、1898年に起きた光緒帝を中心とした政治改革派が西太后らは保守勢力に対して起こそうとした政変の失敗「戊戌の政変 (ぼじゅつのせいへん)」の際にも、光緒帝に知恵をつけていたといわれています。

紫禁城にある珍妃の井戸

まさに8カ国連合軍が紫禁城に侵入して、西太后たちが裏門から逃げるにも時間はわずかしかないという状況のなか、西太后の命令によって珍妃は井戸に投げ込まれ死んでいったのでした。その井戸というのが、かなり小さく身体をよじって押し込まれなければ入らないものでした。つまり自ら身を投げたのではなく、宦官らによってむりやり投げ落とされたとみられています。

西太后は、珍妃に対しての第一夫人の皇后、皇妃の『月餅』、宦官頭の李蓮栄らの誹謗抽象、嫉妬と陰謀の渦のなか、皇位継承問題等の積年の恨みをこの切羽詰まった状況でどさくさ紛れに晴らすことになったのでした。

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あとがきにかえて

紫禁城 (しきんじょう)

一説には、このとき珍妃は、光緒帝の子供を孕っていたと言われていますが、定かではありません。

不思議なのは、光緒帝から寵愛を受けることがなかった「月餅」こと姉の瑾妃のその後です。光緒帝が亡くなりその20時間後に西太后も死去しました。しかしなぜか瑾妃だけは宮廷内に残り、最後の清の皇帝となる溥儀のもと、清朝崩壊後も高い位を維持しながら天寿を全うしたのでありました。

珍妃の井戸

ちなみに光緒帝の死因は病死とされていましたが、2007年におこなわれた調査によりヒ素中毒の疑いが提起されました。魔宮と呼ばれた美しい城、紫禁城おきた悲劇珍妃が投げ込まれた井戸は現在多くの観光客が押し寄せる名所となっています。

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参考文献

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