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【ルイ14世が頼りにした敬虔な王妃】マリー・テレーズ・ドートリッシュの生涯 (後編)

 
マリー・テレーズ・ドートリッシュ
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

スペインハプスブルク家に生まれた王女マリー・テレーズは、両国の友好の証としてフランス ルイ14世の元へと嫁ぐことになったのでした。(誕生から嫁ぐまでのお話は前編をご覧ください)

 

王妃マリー・テレーズを悩ませた、国王の好色

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

その後ルイ14世とマリー・テレーズの間には、3男3女が誕生します。しかし成人に達し、無事に育ったのは長男ルイのみで、幼い子達を立て続けに失ったマリー・テレーズは母として深い悲しみを負いました。しかし最もマリーを悩ませたのは、ルイ14世の愛人たちの存在です。

結婚翌年の1661年はフランス宮廷にとって、話題の多い年でした。3月9日に今まで文字通り粉骨砕身で努めてきたマザランが亡くなり、ルイ14世は貴族と大臣を集めてルイ14世は今後は自ら統治することを伝えました。また同月末実には弟フィリップイギリス王女アンリエットと結婚。さらに9月5日、財政長官ニコラ・フーケが公金横領の罪で逮捕されました。マリー・テレーズが第一子を妊娠したのは、この慌ただしい時期の最中でありました。

 

良い仲となった弟嫁、アンリエット

ヘンリエッタ・アン・ステュアート (ルイ14世の弟嫁 アンリエット)

後継者の誕生は本来おめでたいことでありますが、王妃にとっては外出したり遊興にふけることもできないつらい日々でした。加えて元々フランス語がそれほど得意でなく、機知に飛んだ会話で競い合うようなフランス宮廷のスタイルについていけず次第に孤立していくようになりました。ルイ14世もまた、そのような妻と過ごすことには退屈を覚える中、国王の関心を引いたの新婚の義妹アンリエットでした。

ドラマベルサイユのシーズン1では、ルイ14世とアンリエットが親しくしているシーンが多く登場しますが、あれは実話だと考えられています。2人の中は宮廷中の話題となるほどで、実際恋人のように寄り添いながら語らう2人の姿が度々目撃されていました。それはスキャンダルを危惧した母后アンヌがアンリエットに「慎むよう」忠告するほどでした。

 

アンリエットの侍女、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとも

ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール

人々の視線を逸らすためにアンリエットは、侍女のルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを当て馬とします。しかし困ったことにルイ14世とラ・ヴァリエール嬢は思いの他親しい仲となってしまったのです。母后の心配した通り、信心深い貴族たちも度重なる国王のスキャンダルには眉を顰めたといいます。

王妃の苦悩を知ってか知らずか、ラ・ヴァリエールへのルイの愛情は深まっていきました。1664年の春にヴェルサイユで開かれた大掛かりな祝典「魔法の島の快楽」は、ラ・ヴァリエールを喜ばせるために催されたものでした。それでもマリー・テレーズは敬虔な王妃を演じて公の場では屈辱に耐え、我慢しきれないときにはルーヴル宮殿に近いブロワ通りのカルメル会修道院に逃れて思う存分涙を流しました、16664年9月にはついに耐えきれなくなり苦悩をルイ14世に直接訴えますが、ルイは「30歳になったら良い夫になろう」と開き直りともとれる返答をしただけでした。

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父帝フェリペ4世が逝去、危ぶまれるスペインの行方

フェリペ4世

1665年9月、最愛の父フェリペ4世が亡くなり、マリー・テレーズはひどく哀しみに暮れました。そして追い討ちをかけるように翌1666年1月、宮廷で最も頼りにしていた母后アンヌ・ドートリッシュが亡くなってしまいます。義娘が辛い日々を過ごしていた頃、夫のルイ14世はこれまであった母后の抑制がなくなったと言わんばかりに、ラ・ヴァリエール嬢との関係も隠さず誰に憚ることなく大っぴらに見せびらかすようになったのでした。

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

 

フェリペ4世の後を継いだのは、異母弟であるカルロス2世でした。即位したときにはまだ3歳の幼児であり、なおかつ病弱だったためスペイン王家は断絶の危機を迎えておりました。フェリペ4世も王朝断絶を予期して、「カルロス2世が亡くなった場合、スペインの王位はレオポルト1世 (姉マルガリータの夫であり神聖ローマ皇帝)に譲る」旨を遺言にしたためていました。

スペインハプスブルク家 家系図 (マルガリータ王女)(参考:スペインハプスブルク家とは【誰でもわかる肖像画つき家系図 】)

 

スペインの継承権を狙うフランス

宰相 ジュール・マザラン

しかしここで亡くなった宰相マザランの力が再燃します。フランスは花嫁の持参金未払いを持ち出し、マリー・テレーズ』に王位継承権が残っていることを唱えたのです。さきに書いた通り

  • マリー・テレーズの結婚に際しては、50万エキュの持参金と引き換えに王位を放棄が約束されており、
  • 払われていない以上フェリペ4世の遺言は無効であると主張

したのです。

結婚の時にフェリペ4世は、マリー・テレーズへこう言ったといいます。「もし2つの王国の間で戦争が起こったら、お前はスペイン王女であったことを忘れなければならないよそしてフランス王妃であることだけを思い出しなさい」と。

 

敵となった祖国

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

嫁ぎ先と故国が再び敵国同士となり、実際スペイン領ネーデルラント諸都市の占領は王妃の名の下に行われました

王妃自ら前線で閣兵式を行い、占領した都市では主権者として振る舞いました。ルイ14世もその点はきっちりと理解し、捕虜とした将校には彼女に忠誠を誓わせ、入市式に際しては彼女に主役を譲ったといいます。こうしてマリー・テレーズは心を痛める日々を重ねながらも、「フランス王妃」としての自覚と威厳を身につけていったのでした。

 

フランス国王唯一摂政を任された王妃

Louis XIV

しかしルイが王妃を嫌っていたかというとそうでもなくマリー・テレーズがただ王の言いなりになっていたわけでもないのです。ルイ14世はたしかに妻を愛していたし、尊敬の念さえ抱いていたというのです。ルイ14世のマリー・テレーズに対する信頼の気持ちは、オランダ戦争に際してもはっきりと示されています。

 

1672年4月6日、オランダに宣戦したルイ14世は、自ら軍を率いて戦場に向かいますが、この国王の不在という事態に対処するため、留守中の権限を王妃へと委譲したのでした。実際王妃は王にかわって顧問会議を主宰することができましたし、王が戦場から送る書簡はすべて王妃へ届けられ、王妃から大臣らへと伝えられました。 財政顧問会議が開催されたときには王妃の名で命令が出されましたし教皇特使をはじめとする外交施設の謁見を受けたのも王妃でありました。なお、マリー・テレーズ以降、摂政として国王の代わりを務めた王妃はいません。

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国王のやまないスキャンダル

愛妾モンテスパン夫人の台頭

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

その後フランドル諸都市を征服している時に、ルイに同行したのはモンテスパン公爵夫人でした。彼女は名門ロシュシュアール家の出身で、その美貌と機知に飛んだ会話で国王をすっかり虜にしましたが、実は彼女を気に入ったのは王妃が先でありました。しかしある日、国王と良い仲であることを密告する匿名の手紙が王妃の元へ届けられたのです。この時王妃は、自分の侍女が侮辱されたとして激怒し、その手紙を夫へ手渡したといいます。しかし彼女がラ・ヴァリエール嬢の次に寵愛を受けた新たな愛人であることは、まもなく宮廷中が知ることとなりました。

お気に入りの侍女の裏切りを知ったときのマリー・テレーズの衝撃はいかがほどだったでしょうか。王妃付きの侍女であっても、その人事は国王の裁量に委ねられており王妃はただやり過ごすしかありませんでした。

 

されど愛妾、たかが愛妾

Madame de Montespan(参考:周りを蹴落とし寵姫の座を射止めた女性【モンテスパン夫人】)

オランダ戦争の前後は、モンテスパン夫人が宮廷に君臨した時代でもありました。1673年12月に彼女が国王との間にもうけた2男1女が正式に認知、1879年には王妃のイエの女官長に就任。かしモンテスパン夫人の権勢は、けして磐石なものではありませんでした。モンテスパン夫人が産んだ子供は国王により正式に認められましたが、その母親については、彼女が既婚者だったために明らかにされなかったのです。

モンテスパン夫人は表向き、王妃の女官長に過ぎませんでした。そして何より、国王の好色が続いており、ライバルが絶えなかったのです。40を迎えてなお、ルイ14世の女性への関心は薄れなかったのです。

 

フォンタンジュ嬢、毒殺事件

フォンタンジュ嬢

1679年からは、ルイは2人目の王弟妃の侍女を努める18歳のフォンタンジュ嬢に夢中になっていました。しかしそのフォンタンジュ嬢が、1681年に突如亡くなります。当時は宮廷中を震撼させた「毒薬事件」の真っ只中で、千年2月に毒薬を製造販売したとして処刑されたラ・ヴォワザンの娘が「母の顧客にモンテスパン夫人がいた」ことを暴露していました。

エンティエンヌ神父と黒ミサ (参考:中世ベルサイユを恐怖に陥れた黒魔術【ラヴォワザンと悪徳神父エンティエンヌ】)

さすがにルイ14世も毒殺容疑はにわかに信じがたかったものの、モンテスパン夫人が王の情愛を取り戻すために怪しげな媚薬を飲ませていたことが明らかとなり、彼女に対する情愛も失われてしまったのでした。

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マノントン夫人の登場と、王妃への敬愛

マノントン夫人

以降、モンテスパン夫人に代わって王の寵愛を得たのが、彼女の子供の養育係をつとめていたマノントン夫人です。いつから愛人関係になったのかははっきりしないものの、聞き上手で然るべき時には黙る術を身につけていた彼女に国王は次第に心を惹かれていったのでした。

フォンダンジュ嬢の死とそれに続くモンテスパン夫人の失寵を機に、夫としての義務に立ち返るようマノントン夫人に説得されたルイ14世1850年以降はかつてないほどの愛情を王妃へと示すようになり、長い時間を彼女との会話に充てるようになりました。敬虔な王妃を神は見捨てていなかったのか、最後の平穏の中、王太子ルイの結婚も決まり1682年にはついに初孫のブルゴーニュ公が生まれることになるのでした。

 

マリー・テレーズの最後

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

王妃が息を引き取ったのは、1683年のことでした。享年44歳

ヴェルサイユに宮廷が居を定めてちょうど1年後の1683年5月、ルイ14世はブルゴーニュ地方およびアルザス地方の要塞視察に出ました。この時マリー・テレーズも体調不良を抱えながらも同行し、馬上での閣兵式や修道院訪問など王妃としての義務を果たして、2ヶ月後の1683年7月20日ヴェルサイユへと帰還します。その後王妃の隊長は悪化し、高熱を繰り返す王妃に治療が行われましたが効果はなく。

ルイ14世も枕元で様子を見守るも、いよいよ最期の時が近づくと宮廷のしきたりにより部屋を出ざるを得ませんでした。午前3時王妃は息を引き取り、死因は左脇にできた腫瘍が原因の敗血症だとされました。嘘か誠かルイ14世は「これは彼女が私に与えた最初の苦痛だ」と呟いたそうです。

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あとがきにかえて

ヴェルサイユ宮殿

王弟妃は「王妃が亡くなり、国王は心から悲しまれた」といい、国王は王妃の死に少なからずショックを受けた…. そうですが、王妃の死から2ヶ月後、ルイ14世はマノントン夫人と密かに結婚しふたりは生涯の伴侶となりました。彼女との結婚が公開されることもなければ、マノントン夫人が王妃として制度的な役割を果たすこともありませんでした。

ルイ14世の”王妃”は、たしかにマリー・テレーズだけだったのです。この事実は、君主の世界が血統原理によって厳格に統制されていたことを意味します。血統主義を貫き、自らの「高貴な青い血」を守り結果的に断絶したスペインハプスブルク家。父のフェリペ4世は無能王と言われることもありますが、芸術を見る目は確かで、子に対する愛情も人一倍の人物でした。出身のマリー・テレーズは敵国に嫁いでも理不尽な目に遭おうとも、血統に基づく王家の権威を生涯忘れることなく、王妃としての役割を全うしたのでした。

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参考文献

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