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【ルイ14世が頼りにした敬虔な王妃】マリー・テレーズ・ドートリッシュの生涯 (前編)

2021/06/08
 
ルイ14世の王妃 マリー・テレーズ・ドートリッシュとは
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

フランスルイ14世の元へ嫁いだのは、スペインハプスブルク家の当主フェリペ4世娘マリー・テレーズ。敬虔なカトリック国で生まれた彼女は、両国の平和のために慣れないフランス宮廷へと嫁ぎました。結婚の時に父帝は、娘へこう言ったといいます。

もし2つの王国の間で戦争が起こったら、お前はスペイン王女であったことを忘れなければならないよ。そしてフランス王妃であることだけを思い出しなさい

ところがフランスとスペインはたちまち敵国同士となり、それでもマリーはどんなに心痛むことがあろうとも、血統に基づく王家の権威を生涯忘れることなく、王妃としての役割を全うしたのでした。二つの国の狭間にたち、次々に現れる夫の愛人たちに苦悩しながらも敬虔な王妃として生涯を全うしたマリー・テレーズの生涯をご紹介します。

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スペインハプスブルク家の王女

エル・エスコリアル

後にルイ14世の妻となるマリー・テレーズ・ドートリッシュは1638年9月10日、マドリード郊外のエル・エスコリアル宮殿で誕生しました。それはルイ14世の誕生から5日後のことで、父はスペインハプスブルク家当主のフェリペ4世、母はフランス王ルイ13世の妹イザベラでありました。

ドラマベルサイユに関連する家系図

ルイ13世の妻でルイ14世の母となるアンヌ・ドートリッシュは、フェリペ4世の姉ですから、未来の夫婦はいとこ同士だったということになります。この時代、良家同士での縁談が多く結ばれていたのです。

 

スペイン宮廷での生活

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

マリー・テレーズはスペイン王女として、複雑で厳密な宮廷システムの中で大切に育てられました。宮廷生活はすべてが規則によって統制され、いかなる偶然も入り込むことが許されませんでした。女官に限らず、王女に支える者たちは、どんな下っ端の召使いでもその役割が事細かく決められ、余計なお喋りはもってのほか、笑う時さえ許しが必要なほどで、彼女を取り巻く環境はいやがうえにも厳かにならざるをえなかったのでした。

この時代のスペインは対抗宗教改革の只中にあり、マリー・テレーズには、アビラの聖テレサやフランシスコ・サレジオの影響を受けた、カトリックの厳格な宗教教育が施されました。ネットフリックスのドラマ『ベルサイユ』に出てきた王妃マリー・テレーズも厳格なカトリック教徒を演じていたのはその通りで、王女の周りには信心深さを基準に選ばれた老女たちが大勢侍り、朝から晩までマリーを見張っていたのでした。

 

慰み者を交えた幼少期

ラス・メニーナス (ラス・メニーナスにうつった宮廷の図、真ん中に描かれているのは異母妹マルガリータ・テレサ)

1644年10月に母イザベラが亡くなったことは王女に悲しみをもたらしましたが、とはいっても、マリー・テレーズが重苦しいだけの幼少期を過ごしたかといえばそうではなく。マリー・テレーズには名門貴族の娘の中から選べらた気の合う友達がいました。また彼女を楽しませるために、取り巻きには道化や小人も加えられました。ちなみに道化や小人の存在には、教育的かつ道徳的な意義もあったといわれています。つまり、王女に神の寵愛の不公平な配分に気づかせ、恵まれない者を保護する慈愛を教える意味合いがあったのです。

そして何より、父フェリペ4世がマリー・テレーズに惜しみない愛情を注いでいました。国王が散歩に行く時には、いつも王女が傍らにおり、馬を巧みに乗りこなして銃の扱いも習熟していたそうです。スペインに生まれた王女様はお転婆とはいかないまでも、単なるおとなしい令嬢というわけでもない幼少期を過ごしたのでした。

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マリー・テレーズに課せられた宿命

ヨーロッパ随一の大国の、最も輝かしい王女

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

フェリペ4世時代のスペインは、黄金時代の輝きはとうに失われていたとはいえ、依然ヨーロッパ随一の大国であり、マリー・テレーズはヨーロッパで最も輝かしい王女でありました。さらにスペイン王家の不幸が、このあと皮肉にもマリー・テレーズの輝きを増大させることになります。母妃エリザベトの死からわずか2年後の1646年、マリー・テレーズの9歳上の兄バルタサールカルロスが死去、他の兄弟たちが天逝していたためマリー・テレーズが『唯一の王位継承者』となってしまったのです。

ルイ14世と弟フィリップ1世

結婚相手として最有力候補はフランスの王太子ルイ、未来の太陽王ルイ14世でした。

名門ハプスブルク家にとっても、家格と権勢を考慮さればスペインにとってルイは申し分のない花婿でした。しかし当時のスペインとフランスは交戦状態にありました。神聖ローマ帝国の宗派対立からはじまった30年戦争は、周辺諸国を巻き込んで国際的な宗教戦争へと発展していたのです。1648年10月、ようやく30年戦争が終わりますが、スペインとフランスの戦争は続いていました。そのうえフランスでは、長引く戦争とそれに伴う増税から宰相マザランへの不満が爆発します。そう、あの幼きルイ14世にトラウマをつくったあのフロンドの乱ですね。

フロンドの乱

 

進む婚姻話

マリー・テレーズ・ドートリッシュと異母兄弟 (参考:怖い絵画【青いドレスの王女マルガリータが背負った 宮廷人の宿命】)

マリー・テレーズの運命を変えたのは、父フェリペ4世の再婚でした。相手はマリアナ・デ・アウストリア、マリー・テレーズよりわずか4歳ばかり年上の彼女が、王女マルガリータ王子フェリペ・プロスペロを産んだのです。これによりマリー・テレーズの王位継承が遠のき、婚姻話はいっきに加速していきます。王女、ときに19歳でありました。

マリー・テレーズ・ドートリッシュと異母兄弟

1659年1月、フランスとの交渉成功の知らせがスペインの宮廷へ届きました。トントン拍子に行くかと思いきや、しかし肝心のルイ14世がこの結婚を望んではいませんでした。彼はすでに宰相マザランの姪、マリー・マンシーニに夢中であり、相思相愛であることはフランス宮廷では周知の事柄でした。

マリー・マンシーニ

しかしルイの母后アンヌとマザランはそれを許さず、同年6月にマリー・マンシーニを太平洋岸の町ブルアージュへと追放したのでした。

 

婚姻にあたっての交換条件

letter

その後スペインとフランスの間の長い戦争に終止符が打たれ、和平の証として、フランス王ルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズの結婚が正式に取り決められました。

この時に交わされた結婚の条件は、

  • マリー・テレーズとその子供は、スペイン王位を放棄する
  • スペインは3期に分けて、金貨で50万エキュの持参金を支払う

というものです。そして肝心なのは「王位の放棄は、持参金の支払いが済んでからの発効となる」という条がついていたことです。この時宰相マザランは、スペインが持参金を支払えないことを見越していたといいます。やがてルイ14世は、この「王妃の権利」を声高に主張するわけですが、外交の名手と呼ばれたマザランあっての結果でした。

 

祝典を取り仕切ったのは、スペインお抱えの宮廷画家

ディエゴ・ベラスケス (参考:ベラスケス| スペインハプスブルク家の悲劇を記録した宮廷画家)

ちなみにこの時、宮廷の祝典を取り仕切る役割を果たしたのが、「ラス・メニーナス」を書いたことで知られる、スペインお抱えの宮廷画家ベラスケスです。このたびのマリー・テレーズの婚儀も、彼の差配の下で執り行われることになったのですが、婚礼が一通り終わった直後、彼は病に倒れそのまま亡くなることとなります。ベラスケスの死を早めたのは過労だといわれておりますが、ベラスケスの描いた絵によりマリー・テレーズの姿は永遠と後世まで伝えられることとなりました。

スペインにとってもこの結婚には重大な国家の利益がかかっていましたから、ベラスケスはその重圧を受け止め命を縮めたのかもしれません。

マリー・テレーズ・ドートリッシュ

婚儀がおこなわれたのはスペイン側の町フォンタラビ。フランスの地へ入ったマリー・テレーズはフランス国王の妻となったことを嬉しくおもう反面、最愛の父から離れ慣れない土地へと嫁いだことに大きな不安と寂しさを覚えて、その晩を「お父様」と泣いて過ごしたといわれています。結婚式は6月9日、サンジャンバティスト教会で行われました。荘厳な雰囲気の中、マリー・テレーズはあらためて「フランス及びナヴァールの王妃」となることが神の前で宣言されたのでした。(前編 終)

【スペインからフランス宮廷へ】ルイ14世の敬虔な王妃マリー・テレーズの生涯 (後編)へと続きます。

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