マリー・アントワネットはなぜファッションリーダーになったのか【断頭台にあげられたヒロイン】

Marie_Antoinetteフランスの歴史

フランス革命によって一躍悲劇の王妃となったマリー・アントワネット。贅沢三昧の生活を送りフランス中から嫌われることになった彼女が、実はどちらかというと野暮ったい少女であったことはあまり知られていません。

そんな彼女が、なぜファッション・リーダーとしてフランスの「顔」となることができたのでしょうか。この記事では、マリー・アントワネットの人生を追いながら、彼女がいかにしてファッションの流行を作り出すに至ったかをみていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • 元々オーストリア王家に生まれ、活発な少女だったアントワネット
  • 周りの人間がその美しさに才を見出し、流行を作り出すことを勧めた
  • 多くの上流階級までを魅了するも、その出費により断頭台へ上げられるに至った
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王女の転機

オーストリアの王女として生まれたアントワネット。マリー・アントワネットの人生には何度か転機がありました。まず最初の転機は1770年、わずか14歳でフランス王国へ嫁いだことでしょう。これは有効の証として決められた政略結婚でありました。

彼女が乗った6頭立ての豪華な馬車が、ヴェルサイユ宮殿の大理石を敷き詰めた中庭に停められ、アントワネットが降りてくるのを見たフランス国民の反応は様々でした。

「輝くような白い肌の魅力的な笑顔の持ち主」という人もいれば、のちにマリー・アントワネットの髪結師となるレオナール・オーティエがいったように、確かに「美しくなる兆候」はあれど、今はほっそりとしてただ若いだけ (とりわけ髪型がダサい) といった辛辣な意見もありました。

アントワネットの髪型

輿入れ時、アントワネットの髪型は、フランス人のベテラン髪結師ラルスナールの手でかっちりと結い上げられていました。通称「羊の頭」というスタイルで、どちらかというとアントワネットの母マリア・テレジアが好む古風な印象ですね。

(アントワネット、13歳の時の肖像画)

フランスに嫁いできたばかりのアントワネットは、オーストリア出身の、どちらかというと垢抜けない少女でありました。ドレスはすべて女官が選んだ服をそのまま着ており、日に焼けることも気にせず、野山を馬で駆け抜けるのを好むボーイッシュさもありました。私たちが知っている、洗練された皇太子妃とは少しかけ離れた印象だったのですね。

夫に興味を抱いてもらうため

そんなアントワネットの第二の転機は、夫 (のちのルイ16世)との不仲でした。不仲とまではいかずとも、結婚式を終えても皇太子はベットでアントワネットに触れようとはしなかったのです。これは手術をすれば治るような、皇太子の身体的な問題のためだったのですが、結局約3年もの年月が無為に過ぎていきました。

アントワネットはパリで有名なローズ・ベルタンという、独創的ですこぶる高価なドレスで知られるデザイナーをヴェルサイユへと呼び寄せましたこれは時の国王、ルイ15世の愛人にあたるデュ・バリー伯爵夫人からのアドバイスだったといいます。

信心深い、愛情に包まれた家庭に育ったアントワネット。不貞を憎む彼女は夫人をひどく嫌っていましたが、センスの良さでは明らかに彼女が優っていましたそして18歳になった彼女は夫の気を惹くために、彼女の意見を取り入れることにしたのでした。

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ファッションを通じて

当初「最新の帽子をもってきて」と言われていたベルタンでしたが、驚いたことにアントワネットの前に手ぶらで現れました。そしてこういったのです。

新しい流行などありません

あなた様が流行を作り上げるのです

望めばどんな物でも作って差し上げましょう」と自身にあふれたベルタンは、その場でアントワネットのお気に入りとなりました。

1774年、夫ルイ16世の国王即位によってアントワネットは19歳でフランス王妃となりました。宮廷でもっとも高い身分の女性となったアントワネットは、ファッションや髪型を通じて、自分のメッセージを世界に発信することを覚えた、ヨーロッパで最初の王妃となったのです。

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瞬く間に人気を博して

世界に冠たる「ファッションの都」として、その地位を確立しつつあったパリ。パリでデザインされたドレスは、欧米における上流階級の憧れの的でした。パリからは、デザイン見本が着せられたパンドラと呼ばれる人形が各地へと運ばれ、その人形の顔のモデルはなんとマリー・アントワネットでありました。

白い肌に赤い唇、その容姿は画家もが惚れ惚れするほどでした。赤字夫人として散々毛嫌いされることになる彼女は、恐ろしいほど人気を持った人物でもあったのです。

かさむ出費

しかしその分、もちろんお金もかかるわけですね。最大時には当時のフランスの国家予算の1パーセント相当(巨額) が、アントワネット個人の化粧代、服飾費として消えたといいます。ただ、名実ともにアントワネットはフランスの「顔」であり、フランスの誇示、宣伝費と考えるならば安い方であったのかもしれません。

そもそも、ルイ16世の治世のはるか以前、ルイ14世の治世末期には、フランスの国家経済の破綻は確実なものとなっていました。前王であるルイ15世もまたポンパドゥール夫人といった公妾をもち、すでに国庫は赤字状態でありました。しかしそんな内情を知る由もない民衆の怒りは、すべてアントワネットに向けられることになったのでした。

断頭台へ上げられて

「際限がないアントワネットの美に対する欲求」というイメージは、民衆の中で瞬く間に広がりました。ルイ16世との夫婦仲も安定し子供ができ、ふたりの母となる頃には落ち着いていたものの、民衆の激昂をおさえることはもはや叶わなかったのです。

1789年、パリの民衆がバスティーユの牢獄を攻撃・占領したのを皮切りにフランス革命が勃発しました。アントワネットは「王室の贅沢の象徴」「赤字夫人」として大きな非難を浴びることになります。ルイ16世一家は国外逃亡を試みるも失敗し、一家全員捕らえられ幽閉されてしまいます。

marie antoinette execution

「私は贅沢などしたことはない」という主張も虚しく、ファッションリーダーとして一世を風靡した王妃は、その日々の代償として断頭台へと登ることになったのでした。

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まとめ

元々オーストリア王家に生まれ、活発な少女だったアントワネット。元々ファッションや髪型には興味がなかったものの、パリの洗練された宮殿での刺激を受けファッションに興味を持つようになりました。王室の仕立て屋ベルタンのひと声もあり、彼女が身につけるもの自体が流行となり、フランス国内だけでなく、世界中の上流貴族を魅了していったのでした。

一世を風靡した「王妃様」ですが、しかしその「散財」の結果として、貧困に喘ぐ国民の憎しみを一挙に受けることとなり、結果的に断頭台へとあげられることになります。

贅沢こそが富める者の証、当時の他のフランスの王族たちの浪費っぷりに比べれば、アントワネットの金遣いは荒いといえどさして変わらなかったのです。彼女が血祭りにあげられるのは「ファッションリーダー」として持て囃された後のことで、原因は彼女だけにあったわけでなく、それはすべて彼女以前の王族たちのツケが回ってきた形でありました。

女性の憧れであり、かたや憎しみの対象となった王妃様ルイ16世がもし一世代前に玉座についていたのであれば、ふたりが処刑されることは無かったのではないかと考えると、アントワネットが「悲劇の王妃」と呼ばれる所以もどこかわかる気がするのでした。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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