【マザーテレサの生い立ち】最も偉大な人道主義者と呼ばれた修道女の人生

世界史奇談

20世紀で最も偉大な人道主義者の一人と考えられているマザー・テレサ。カルカッタで始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められています。この記事では、貧しい人々のために命の限りを尽くしたマザー・テレサの生い立ちをみていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • オスマン帝国の、カトリック教徒の家庭に生まれたマザー・テレサ
  • 29歳でインドへ入り、ヒマラヤ山脈下部のダージリンで修道会を開き現地の人へ尽くした
  • やがて彼女のもとにはボランティアや寄付が集まり、貧しい人のための施設が作られるに至った
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マザー・テレサの生い立ち

マザー・テレサ、本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ彼女は1910年8月26日、現在の北マケドニア共和国に位置するオスマン帝国に生まれました。母ドラナはルーマニア人、父ニコはアルーマニア人 (ルーマニア人と同系の少数民族)でした。父は手広く事業を営む実業家で、アルバニア系コミュニティの政治 (独立運動) に関わっていた名士でしたが、テレサが8歳のときに亡くなってしまいます。

アルバニアにはイスラム教徒が多く、テレサの家族はマケドニア地方では珍しいカトリック教徒でした。彼女の家は比較的裕福な一家でしたが、父母は信仰心あつく貧しい人への施しを積極的に行っていました

宣教師になるために

彼女は生まれた翌日、スコピエで洗礼を受けました。彼女は後に洗礼を受けた8月27日を「真の誕生日」、と考えるほどの信仰あつい修道女でした。テレサ (アグネス) の幼少時代についての記録はほとんど残っていないのですが、小さいころから聡明であり、12歳のときには「将来インドで修道女として働きたい」という夢を持っていたといわれています。

ジョアン・グラフ・クルカスの伝記によるとテレサは幼いころ、宣教師の生活とベンガルでの彼らの奉仕の物語に魅了されていました。1928年テレサは18歳で家を出て宣教師になるため英語を学ぼうとアイルランドのラスファーナムへ向かいました彼女はそれ以来、母にも妹にも2度とあわなかったといいます。彼女の家族は1934年ティラナにうつるまでスコピエに住んでいました。

29歳にてインドへ

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彼女は1929年にインドに着くとヒマラヤ山脈下部のダージリンで修道会を開き、ベンガル語を学び、修道院近くの聖テレサ学校で教えました。さきにかいた『啓示 (貧しい者のために活動しなさいという天の声)』は、テレサがリトリート (年間行事) のために、カルカッタからダージリンにあるロレート修道院へ電車で向かった際の出来事だったとされています。

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マザー・テレサは、何をした人なのか

修道女であり、宣教師でもあるマザー・テレサは、病気の人々や貧しい人々のケアに生涯を捧げた人物です。マケドニアでアルバニア系の両親に生まれ、17年間インドで地理や歴史の教鞭をとったマザーテレサは、1946年にすべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くようにという啓示 (内なる声) を受けたといいます。

学校で上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていました。カトリック教会の上層部からなんとか1948年に特別許可をうけ、彼女はインド カルカッタのスラム街へはいりました。そこではインド女性が着る質素なサリーを身に纏い、学校に行けない子供達をあつめて街頭で無料の授業を行いました

貧しい人たちの為に施設を建設

やがて彼女のもとには聖マリア学院の教え子を含むボランティアが集まり、寄付も寄せられるようになり、1950年には「神の愛の宣教者会」が設立されました。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでありました。

マザー・テレサという名前の由来

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テレサは1931年5月24日に最初の宗教的誓いを立て、彼女の名前テレサは、宣教師の守護聖人である『Thérèsede Lisieux』にちなんで名付けられました。ちなみに「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名です。テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになり、『マザー・テレサ』の愛称で深くひろく親しまれました

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まとめ

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彼女が得た数々の賞の中でもっとも有名なものは、1979年に受けたノーベル平和賞でしょう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリー (インドの民族衣装)と皮製のサンダルという質素な身なりで出席しました。賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることに決まり、授賞式では「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望しました。また賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」と答えました。

またインタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられた彼女の答えは「家に帰って家族を愛してあげてください」というシンプルなものでありました。貧しい人太刀を救うことは彼女の義務ではなく、天から与えられた『当たり前のこと』だったのでしょうか。そして普通の人にはそれができないからこそ、世界の人は彼女のことを今も語り継いでいるのかもしれません。

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