今宵、闇に消えた恐怖の物語をあなたへ

【時代を変えたフランス皇帝】なぜナポレオンは、こんなにも英雄扱いされるのか

 
ナポレオン・ボナパルト
この記事を書いている人 - WRITER -
歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

フランス革命の申し子といえば、ナポレオン・ボナパルト。トゥーロン攻囲の戦功になどにより瞬く間に出世街道を登っていったナポレオンは、その後民衆の支持ににより皇帝にまで上り詰め、果ては島流しにあうまで波乱万丈の人生を送り続けることになります。にもかかわらずなぜ、『皇帝ナポレオン』の英雄伝説は尽きないのか。この記事ではその理由を探っていきたいとおもいます。

スポンサーリンク

頭角を表した『ナポレオン・ボナパルト』

トゥーロン攻囲戦

トゥーロンの功績もあり、1796年3月イタリア遠征軍総指揮官に任命されたナポレオン。当時の北イタリア諸国はオーストリア支配下にあり、国境を接するフランスは何としてもこの脅威を取り除かねばなりませんでした。ナポレオンの戦略は、『重要地点を見定めてはそこへ兵力を集中させ、速攻即勝する』といういかにも彼らしいものでした。

ニースへ到着した26歳のナポレオンは、「乞食集団」とまで揶揄されていたみすぼらしいフランス兵へこう檄を飛ばしたと言います。「君らは裸で食料もない。だが私はこの世でもっとも豊かな平原へと連れていこう。君らはその地で、富と栄光と名誉を得るだろう!」とはいっても、当時のナポレオンは風格もなく貧相であったと当時の記録には示されています。

最高司令官とはいえど、容貌や態度、身なりのいずれをとっても人を惹きつけるものがなく。それどころか小柄で貧弱、蒼白な顔に大きな黒い目、頬は痩せかけており、こめかみから肩まで垂れ下がる髪の毛が何とも頼りなく見えた。

 

見た目には頼りない最高司令官

当時も今もフランス将軍といえば、軍事能力より肉体的美しさが重視されていました。その点、この時点でナポレオンは「頼りある将軍」という気配はまるでなく、疑惑の目を向けていた人も多かったのです。それでもこの貧弱に見える司令官は、勝利に次ぐ勝利を重ねてたちまち大衆の心を鷲掴みにしていくのでした。

アルコレ橋のボナパルト

その時代に書かれた有名な絵画こそ、『アルコレ橋のボナパルト』アルコレはヴェローナの沼沢地にある村で、その時オーストリア軍が陣取っていました。フランス軍は川を隔てて対峙しますが、兵力は2万前後とほぼ互角。そこをナポレオン軍はわずか3日で劇的勝利をおさめたのです。

 

ナポレオンの英雄伝説

books

伝えられるところによると、攻めあぐねたナポレオンは自ら軍旗を握り、少数の部下とともに擲弾降り注ぐアルコレ橋を突進その勇気に鼓舞された兵士らも一斉に後に続いたため、オーストリア軍は圧倒されて敗走したといいます。この絵を見ると背景は硝煙がたなびくばかりで、敵の姿もなければ川や橋も見当たりません。ただ身をひねったナポレオンが、後方にいる兵を目で促し橋を渡ろうとする直前を描いていると考えられます。

アルコレ橋のボナパルト 1796年の油彩画習作 (ルーヴル美術館所蔵)

風に長髪をなびかせたナポレオンは、ルシヨンが見た通り蒼白い肌で頬もこけています。とはいえ、引き締まった表情と決然たる眼差しには力がみなぎっているようにも見えます。ナポレオン本人もイタリア遠征開始から半年を経て自身をつけていたのかもしれません。軍服は豪華そのもので、まるで仕立て下ろしのようです。濃紺の上着は金の糸で刺繍がほどこされた赤い襟付き。中に白いシャツをきて防寒用の黒いチーフ。腰には四角いバックルのついた金蘭のベルト。一見頼りないわりに、圧倒的な存在感をはなっています。

 

アルコレ橋の真実

アルコレの戦い

ちなみにこのシーンを違う画家も描いています。これらの若き将軍のは、今でも圧倒的な人気を誇っています。しかし画家グロの賛美と色目が入っており、実際ナポレオンは旗をふったこともなければ、先頭に立つどころか橋を渡ってさえいなかったといいます。目の前に敵の砲兵隊が居並ぶ狭い橋を進むのは、「撃ってください」というばかりでとても現実的ではなく。将軍が負傷すると全体の指揮にも影響するわけですから、逆にそれをやっては全軍総崩れになるわけで、ナポレオンの逸話にはやはりいつもどこか尾鰭がついていことを念頭においておかなければならないということでしょう。

ナポレオンはとにかく他者からのイメージを大切にしたことでも有名です。連戦連勝の若獅子としてのイメージ、ひいてはフランスの導く希望の星。はロマン主義へと向かっており、人々は新たなる英雄と、その事績を歌い上げる感動的な実物を求めていたのです。まさに芸術は「フランスの英雄」であることを誇示するのに、芸術はまさにもってこいの手段だったのでしょう。

 

イメージ命のフランス皇帝

『ヤッファのペスト患者たちを見舞うナポレオン』、ルーヴル美術館蔵、1804年

こちらに載せたのは先ほどの『アルコレ橋のボナパルト』を描いたアントワーヌ=ジャン・クロの作品。「ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン』です。中央にいるのがナポレオン、ペスト患者に触れようとするも右にいる医師に止められているところです。右下にはペストで失明した元兵士が黒い布で目を覆い、伝い歩きでナポレオンの側へ行こうとするところが描かれています。昔は高貴な人々による「手当てによる治療」というものがありました。

一般民衆が、現世の神たる王に直接触れてもらうことで、皮膚病や癲癇、結核などが治ると信じられていたのです。この作品がサロンに発表されたのは、ナポレオンが皇帝の座についたその年でした。これも『ナポレオン』の神格化を狙った効果的な描き方だったのでしょう。

スポンサーリンク

ナポレオンの失墜

イカロスの翼

イカロスの如く太陽に近づきすぎた者は翼をもがれるといいますが、まさにナポレオンの人生もまさにそれでした。皇帝になり愛するジョセフィーヌまで手にいれるも世継ぎのために離縁。あのハプスブルク家のプリンセスを強引に2番目の妃へと娶りますが、気がつけばヨーロッパ中から憎まれ母国でも敵が増え、1814年にはついに失脚してエルバ島へと流さしまいます。翌年の百日天下はあったものの、彼の名誉も富も名声ももはやすっかり見る影もなくなってしまったのでした。

かたや英雄、かたや成り上がりの皇帝。国中が血に染まったフランス革命がおさまり、ぽっと出の皇帝が去るとブルボン王政復古します。ナポレオンの天下は一体何だったのか、「王家」という共通の敵を見つけることでナポレオンの元へ一致団結した民衆は、「敵」が変わると潮が引くようにいなくなってしまったのでした。

ナポレオンの最後

ナポレオンのチェックが入らなくなったからか、その後描かれた絵画にはいかにも弱々しく栄光のかけらも感じられない元皇帝の姿が写っていたのでした。

スポンサーリンク

あとがきにかえて

民衆を導く自由の女神(1830年、ルーヴル美術館所蔵)

ロマン主義とは、18世紀後半から19世紀中頃の間のヨーロッパに興った芸術運動のことです。産業革命や独立戦争が起こったヨーロッパでは、伝統的な社会体制や宗教に反発する動きが現れました。ロマン主義はそれまでの理性や合理性を重んじる古典主義に対して、自由な感性による感情表現や多様な美の表現を尊重したのです。

ロマン主義といえば「近代的個人主義」「感性の解放」「憧憬」「熱情」といった言葉が浮かびますが、そこにはつねに幻滅や鬱が付き纏っていました。

グロ ナポレオン

ロマン主義時代の芸術家は、シューマン、バイロンというように自滅していく者も多かったのです。ナポレオンを賛美的に描いた画家グロもまた同じように深い闇へと誘われていきます。あれだけ崇拝したナポレオンもあっけなく終わり、自分の才能にも限界を感じるようになったグロ。彼がセーヌ川へ身を投げたのは64歳の時でありました。ナポレオンの功績は確かに並々ならぬものがありましたが、ここまで「英雄」と持ち上げられたのは、周りの過度な賛美や本人のイメージ作りが優れていたからかもしれません。その根拠はといって、残された絵画たちがそれを見事に物語っているのでした。

この記事を読んだ人へおすすめの記事

参考文献

スポンサーリンク

 

この記事を書いている人 - WRITER -
歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

Copyright© 本当は怖い世界史 (歴史に隠された怖い物語) , 2021 All Rights Reserved.