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【ナポレオンの失墜】ロシア遠征失敗の裏にあった奇妙な物語との出会い

2021/06/28
 
ナポレオンの睡眠時間
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

英雄像を見事に築き上げたフランスナポレオン・ボナパルト。充分な出自ではないところから、圧倒的な戦略術とカリスマ性で皇帝にまで上り詰めた彼ですが、ロシア遠征での圧倒的な敗退により失墜最後は島流しにあい、孤独に生涯を終えるととなりました。彼の圧倒的な自身を揺るがせたのは一体何だったのか、この記事では圧倒的な英雄を誇っていたナポレオンが失墜した理由を見ていきたいとおもいます。

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ナポレオン・ボナパルトとは

ナポレオンボナパルト (幼少期) (ナポレオン 幼少期の肖像画)

ナポレオンは、1769年8月15日にコルシカ島 (海が綺麗な街)で生まれました。父の意向もうけ、パリの士官学校で軍の将校になるように訓練をうけるようになります。1785年に父が死ぬと、ナポレオンは家族の問題を処理するのを手伝うためにコルシカ島に戻りました。

コルシカ島 (コルシカ島 アジャクシオ城の灯台)

コルシカに滞在中ナポレオンはパスカル・パオリという地元の革命家と関わりを持ちます。しばらくの間、彼はパオリがフランスのコルシカ占領と戦うのを助けました。しかし、後に彼は立場を変え、フランスへ戻ります。

ナポレオン (ナポレオン 青年期の肖像画)

ナポレオンがコルシカに戻っている間、パリではフランス革命が勃発しました。

ナポレオンが優秀な司令塔として台頭したのは、1793年フランスの港町トューロンでの戦争。イギリス軍により占領されていた港湾を取り戻すためにたたかった、世に言うトゥーロンの戦い』です。

トゥーロンでのフランス艦隊の破壊(画:トゥーロンでの戦い)

フランス海軍の強さを維持するためにも、この港だけは絶対に取り戻さなければならない要所でありました。この戦いでナポレオンは砲兵司令官の地位につきイギリスを打ち破る戦略を考え出して見事に成功させたのです。この時の軍事指導力はフランス指導部にも認められ、24歳の若さで准将に昇進しました

 

国民の英雄となるまで

ナポレオンボナパルト (青年期) (ナポレオン・ボナパルトの肖像 画近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した)

1796年、ナポレオンはイタリアにて、フランス軍の指揮権を与えられます

彼は軍隊を戦場のあちこちに素早く移動させるために優れた組織を使用するなど奇抜な作戦を用いて勝利をおさめましたナポレオンはカリスマ的な軍事指導者として、フランス民衆にも知られるようになっていきました。

『第一統領ボナパルト』 (第一統領 ナポレオン・ボナパルト)

エジプトでの軍事遠征を指揮した後、ナポレオンは1799年にパリに戻りました

フランスの政治情勢は変化しており、ディレクトリ (総裁政府) と呼ばれた現存の政府もの力も弱くなっていました。そこでナポレオンは、弟リュシアンを含む同盟陣とともに統領政府と呼ばれる新しい政府をつくりました。当初、政府の長には3人の領事がいましたがナポレオンは自らを初代領事 (第一統領) と称しました第一統領としての彼の権力は、本質的にフランスの独裁者を意味しました

 

フランス皇帝になって

ナポレオンの戴冠式 ジャック=ルイ・ダビッド(1804) ナポレオンの戴冠式 画:ジャック=ルイ・ダビッド(1804)

ナポレオンの権力と統制は彼の改革とともに拡大し続けました

そしてついに1804年11月に開催された国民投票にて、ほぼ全一致でナポレオンは『フランス皇帝』に選出されました。戴冠式で、彼は異例にも教皇が彼の頭に王冠を置くことを許可せず、自分自身で戴冠をおこないました。彼の前に跪くのはナポレオンが死ぬまで愛したといわれるジョセフィーヌです。

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ナポレオンの失墜

翼をもがれた皇帝

ナポレオン・ボナパルト

1812年にロシアに攻め込んだナポレオン

この遠征がひどい失敗に終わった理由や経緯については、多くの説が唱えられています。いずれにしても、ロシア領に深く侵攻し、次第に雲行きが怪しくなるにつれ、ナポレオンは彼らしからぬ判断ミスをいくつも犯すようになりました。

ボロジノの戦い

ターニングポイントとなったのは、モスクワからの撤退でもなければ、有名な「ボロジロの戦い」でもなく、今のベラルーシにあるヴィテブルクという街でナポレオンが遭遇した奇妙な出逢いによるものだといわれています。

ロシア遠征が馬鹿げていたとか、意味がなかったといえばそうではなく、ロシアの皇帝アレクサンドル1世はフランス帝国に対して正真正銘の脅威をもたらしていました。対してナポレオンは、それまでにヨーロッパの各国軍を次いつ着に爆破しほぼ無敗という戦績を残していたのですから、少し自信が過剰になったとて無理もないといえたでしょう。

ナポレオンの支配領域

事実ナポレオンはポルトガルの国境からオスマン帝国の辺境にいたる、西ヨーロッパ全土を支配下においていたのです。

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悲劇のロシア遠征

ボロジノの戦い

ナポレオンはロシア軍と相まみえた際に、その脆弱ぶりとリーダーシップの乏しさを目の当たりにしていました。

またイギリス人がいずれアメリカの独立戦争に気を取られることも、正しく見抜いていたと言います。ロシアでは南でトルコと講和し、ナポレオンを正面から迎え撃つ用意を整えているようでしたが、フランスとその同盟軍の兵数が68万を超えていたのに対して、ロシアが動員できたのはわずか25万人でした。

たとえ、「ロシア遠征などやめておいたほうがいい」と考える者がいたとしても、おそらくナポレオンの癇癪癖に怖気をふるい進言する者はいなかったでしょう。

 

モスクワへの行軍

ロシアの火事

1812年6月、モスクワに向けて進発したナポレオン兵は、行軍が一筋縄ではいかないことに気づきます。

補給部隊の前進は滞り本隊から遅れがちになり、最後の家畜を屠殺してしまうと食べるものも底をつきました。これはロシア軍が焦土戦術を取ったためで、彼らが退却したあとには焼け野原以外はほとんど何も残されていなかったのです。飢えと赤痢ジフテリアなどによって、一度も銃火を交えないうちに6万の兵が死亡しました。

何千頭という馬がたおれ、病気で戦えなくなる者、そして軍務を放棄して逃亡する者の数は、1日に5千ないし6千にのぼったのです。7月29日、ナポレオンとその軍政は、ロシア軍との小規模な戦闘のあと、疲労困憊のていでヴィテブスクに辿り着きますが、街はすでにゴーストタウンと化していました。ナポレオンは幕僚会議をひらかれ、副官の同意もあり元進軍を中止することが決まりました。

 

暴君の心変わり

ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画

ところが翌日、モスクワ遠征が失敗したと認めたくないのか、ナポレオンは意見をひるがえしました。ともかくナポレオンは、「幕僚を弱腰」だと非難して、自分としてはロシア皇帝アレクサンドル1世と戦場で間まみえるのが待ちきれない、と言い切ったのです。

ナポレオンは、スモレンスクかモスクワが決戦の舞台になるであろうと考えていました。彼の見る所、らの都市もアレクサンドル1世が手放すはずがないように思え、ナポレオンは冬営をやむなしとも考えていました。その間に援軍を呼び寄せ物資を補給すれば..という算段だったのでしょうが、そううまくはいきませんでした。ロシア側はナポレオンが食糧にありつけないよう、街の大部分を破壊して立ち去っていっていたのです。

更にロシアの寒さはフランス軍をとことんまで苦しめることになりました。

 

ナポレオンの大誤算

退位後のナポレオン

この状態で町を進むのは至難の業でした。

にもかかわらず、結局ナポレオンは軍を動かし、むしろ破局へ向かって進軍していくことになったのです。この失策は取り返しがつかず、10月にモスクワから撤退してきたナポレオン軍のうち、ロシア国境まで生還できたのは1万人ほどでした。フランス側の痛手といえば、人が40万ないし55万人、馬が17万5先頭と見積もられています。

ネマン川

ナポレオンは今や烏合の衆と化した全軍を離れて、ネマン川を渡りパリへ戻りました。それからひと月と経たないうちに、プロセインとオーストリアがフランス軍をエルベ川の西に押し戻し、ここにナポレオンの命運は尽きたのでした。

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怪しい文書

tree

なぜナポレオンは、かの状況において、進軍をむりやり実行したのでしょうか。

一説によると、情報将校数名が箱いっぱいの文書を発見したといって、ナポレオンの元にもってきたというのです。文書はロシア船舶に乗っている1人のイギリス人とフランスの王党派の活動に関するものでした。そのほとんどは英文でしたが、語学に堪能な将校が呼ばれ、ナポレオンへの読み聞かせが10日は続いたといいます。

政治的あるいは軍事的に取り立てて、重要な情報は見当たらないということは、はやばやと明らかになりました。ナポレオンはそれらの文書に不思議と惹きつけられ、しばしば読み手を遮っては意見を述べ神へ文書を与えてくれたことを感謝したそうです。ところが10日目の晩、ナポレオンは突然癇癪を起こし、文書を燃やすよう命じました。4人の将校は皇帝のすさまじい剣幕にちぢみあがったものの、好奇心がまさり読んだあげく、命令にそむいて文書を燃やさずに保管しました。フランス軍が破局の待ち受けるモスクワへと出発したのは、その2日後のことでした。

 

ナポレオンの心を揺るがした物語の存在

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翻訳を担当した将校たちは幕営にいました。うち一人はボロジノの戦いで命を落としたものの、残りの三人は戦後この話を書き留め、彼らの報告は逸失したり破棄されたりすることなく残りました。

その後、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』を読んだ彼らは、その内容にピンときたといいます。怪物を想像してしまう1人のマッドサイエンティストを描いたこの小説は、同時に、自然と世界を征服しようともくろんだ男の破滅も描いています。ナポレオンがどうして突然癇癪を起こしたのか、それはいまだに謎のままです。しかし書類の山の中には『フランケンシュタイン』があり、それに触発されたという説は後世の作り話としか思えないとしても、「撤退」を決めたナポレオンの心を変えた文書がその書類の中には確かに存在したのでした。

 

あとがきにかえて

ヴィテブスク

モスクワへの行軍を続ける選択をした1812年7月に行われた議論の記録が残されています。

将軍の「開放されたリトアニアを組織化する必要性もあれば、野戦病院と補給所を建設する必要性もあり、さらには日々伸び続ける作戦線上の上に回復と防衛とその後の進発のための拠点を設営する必要性もあります。ー我々はロシア国境に程近いこの町に留まる決断をすべきではないでしょうか?」という問いかけに対し、

ナポレオンは「こんなみすぼらしい集落を征服するために、余がはるばるやってきたとでももうのか?」と返しました飢えと想像以上の寒さが兵士を苦しめ、多くの犠牲を出しながらナポレオンは命からがらフランスへと戻ったのです。

セントヘレナのナポレオン

その後島流しとなったナポレオン。圧倒的な自身が、ひとつの物語との奇妙な出逢いによって揺らぎ、それはフランス陸軍の崩壊をもたらしましたそしてその奇妙な出逢いは、皇帝のその後の人生をすべて変えてしまったのでした。

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参考文献

  • https:// smallbusiness.com/monday-morning-motivation/famous-people-with-strange-sleeping- habits/
  • https://www.washingtonpost.com/opinions/five-myths-about-sleep/2012/11/21/4e1c9f44-3273-11e2-bb9b-288a310849ee_story.html
  • https://www.dreams.co.uk/sleep-matters-club/8-world-famous-icons-loved-napping/
  • https://www.cabinetmagazine.org/issues/31/levy_dinges.php
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Borodino
  • https://mapcollection.wordpress.com/2012/07/12/napoleons-empire-1810/

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