【ネパール王族殺害事件とは何だったのか】事件概要から考え得る犯人の正体

世紀の大事件

2001年6月にネパール王国の首都カトマンズ、ナラヤンヒティ王宮で発生したネパール王族殺害事件ディペンドラ王太子が、結婚を反対されたことに激情し、父ビレンドラ国王ら多数の王族を殺害したとされる事件です。王家自体がこの事柄をひた隠しにしていたため、これだけの大きなニュースにもかかわらず、世間一般にはあまり知られていませんが、世界中に衝撃を与えることとなりました。

犯人は激昂した王太子だとされ、彼自身も自殺を図り3日後に亡くなったわけですが、これには多くの謎が残されています。この記事では、ネパール王族殺害事件について、また疑惑の目が向けられた王弟ギャネンドラの存在についてふれていきます

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ネパール王族殺害事件

ネパール王族一家殺害事件

インドの北東にあるネパールは、エベレストをはじめとする8000メートル峰の山々を8座も抱える山岳地帯の国です。登山をする人なら憧れの聖地ですが、そのネパールで、2001年に起きた事件は世界中を震撼させました。その内容は、「王太子が宮廷内で王家9人を銃殺し、自らも自殺する」という信じられないものでありました。

しかし王家自体がこの事柄をひた隠しにしていたため、これだけの大きなニュースにもかかわらず、世間一般にはあまり知られていないのです。

殺人の舞台

事件の主役となったのは、1768年から2008年にかけてネパール王朝の王家として君臨した「シャー家」です。シャー一族は16世紀に当時の大帝から「シャー (王)」の称号を与えられた後、独立した小国を征服していき、ついに1768年にネパール王国を創り、みずからが王家となりました。

19世紀なかばには宰相家に実権を握られ、名ばかりの王家だった時代もありましたが、その後再び実権を取り戻し、1990年には絶対君主制に終止符をうち、立憲君主制に移行しました。

事の経緯

ネパール王族一家殺害事件 (左から犯人とされたディペンドラ王太子、その横がビレンドラ国王)

このときの王ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴは国民の熱い支持を得ていました。余談ですが、ビレンドラ王は王太子時代に東京大学に留学していた経験をもち、親日家としても知られている人物です。彼は民主化を進めており、議院内閣制を実現したものの、有力なリーダーもいないという状況で、政党政治は混乱を極めていました。そして、ついには共産党からマオイスト(※)が離脱武力闘争が行われるようになっていったのです。(毛沢東主義者)

そんな政治的な混乱の末に、事件を起こしたとされているのが、その長男であるディペンドラ王太子です。公式発表によると事件の動機は、家族に結婚を反対されたことだとされています。王太子が結婚相手に選んだのは「デブヤニ・ラナ」、彼女は対立していた「ラナ宰相家」にゆかりのある女性だったのです。

犯人は王太子か?

ある日、シャー家定例の晩餐会で、その事実をはじめて聞かされた王と王妃は大反対します。「結婚をするのなら、王位継承権を剥奪する」といわれた王太子が突然機関銃を持ち出して乱射。国王夫妻をはじめ、王の兄弟他9人を殺傷したのです。王太子も直後に自殺をはかり、病院へと運ばれましたが、3日後にはこの世を去ってしまいました。

犯人も亡くなり事件はこれで解決かと思いきや、この事件には多くの疑問が持たれることとなりました。疑惑の矢が向けられたのはビレンドラ国王の弟ギャネンドラ、王太子からは叔父にあたる人物です。

ネパール王族殺害事件 (王太子ディペンドラ)

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疑惑の王弟

王弟ギャネンドラがに疑惑の目が向けられたのは、王族がほぼ集合している晩餐会に、ギャネンドラだけが地方視察のために欠席しており、出席していたギャネンドラの家族が皆無傷や軽傷で生き残っていたからです。

さらに、この事件の不可解な点としては、王族の埋葬が性急かつ国民にも非公開で執り行われていたことです。そして、自殺した王太子ディベンドラの糾弾が後頭部から入っていたことも、王弟でギャネンドラが怪しいという説に拍車をかけることとなりました。

その後のギャネンドラ

空席となった王位を注いだのはギャネンドラでした。しかし、独裁的な政治行動が国内外の反発を招き、やがて大規模な民主化運動によって国王の政治特権はすべて剥奪されてしまいます。そして2007年には240年にわたるう主制が廃止され、その翌年には連邦共和制を宣言しネパール王朝は幕を閉じたのでありました。

ギャネンドラ ネパール王族殺害事件 (ギャネンドラとその妻コマル)

廃位後のギャネンドラは、詩を書いたり祈祷したり、インターネットを閲覧したりなどして過ごし、近隣の森林を散策したりもしていたそうです。ギャネンドラは今に至っても多数の不動産を所有する大地主であり、不動産、ホテル、茶園業を営む実業家で個人資産数十億ドルの富豪です。

そんなギャネンドラに対して、王政廃止を主導したマオイスト議長のプラチャンダは、国内に投資して雇用の創出をしてほしいと願い出るほどだとかまた、プラチャンダは政党を造って「政界に進出しても構わない」と話すなど、特権は与えないが一市民として最大限の配慮も見せているそうです。

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あとがきにかえて

しかしいずれの説も決定的な証拠がなく、その真相は現在に至るまで不明なままとなっています。

明らかに王弟ギャネンドラの行動には不可解な部分が多いのですが、しかしあの射殺事件が公式の発表通り、ディペンドラ王太子の犯行であったなら、シャー王家とラナ宰相家という対立の中で起きたロミオとジュリエットの悲劇といえるかもしれません。現在のネパールは「ネパール連邦民主共和国」と改名し、シャー一族は首都カトマンズから退くこととなったのでした。

愛により掻き乱れた王室は、歴史を見ても少なくはありません。遠い昔に至っては、愛を巧みに利用したクレオパトラ。結果として「傾国の美女」と呼ばれ皇帝をどん底へと落とすことになった楊貴妃。近世では、愛する女性のために、国王の座を捨てたイギリス王室のエドワード8世、メーガン妃のために王室離脱をはたしたヘンリー王子など、愛が人の人生を大きく狂わせてしまうことは歴史上多くの実例が存在しているのでした。

 

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