マリーアントワネット処刑のきっかけとなった首飾り事件 (後編)

革命前夜のフランスで起きた詐欺事件。陥れられたのは王妃マリー・アントワネット。このスキャンダラスな詐欺事件の主犯がラ・モット伯爵夫人であるとわかっても、騒ぎは収まりませんでした。批判の矛先はアントワネットへと向かい、王家を追い詰めていくのでした。こちらは首飾り事件 (前篇) に継ぐ後編です。
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Contents
激情したアントワネット
(オーストリアの肖像画家ヨーゼフ・ハウジンガーによる絵画)
王妃の言葉によりルイ16世は戸惑いながらも、ロアン枢機卿を逮捕しました。
高位聖職者の逮捕は異例のことです。そして8月には首謀犯のラ・モット夫人が逮捕されました。そして王妃の替え玉となった売春婦マリー・ニコル・ルゲイ・デイジーと、マリーアントワネットの手紙を偽造した元憲兵も逮捕。事件に関わった人たちは、ロアンの後を追うように全員がバスティーユに投獄されたのでした。
(バスティーユの内部 フラゴナール画 1785年)
ルイ16世は「首謀者はラ・モット伯爵夫人だった (自分の司祭長であるロアン枢機卿)が首謀者ではなかった)」と知って、心底ほっとしたといいます。本心ではことを大きくしたくはなかった王ですが、アントワネットは自分の身の潔白を証明するために「全国民の前ではっきりさせましょう」と国民の目に触れる場所、高等法院での裁判を望んだのでした。「自分とロアン枢機卿が愛人関係にあったなどと誤解されたくない」「私は被害者ですから」と。
反旗をひるがえす国民と、高等法院
(パリの旧高等法院での正義の座席)
高等法院はフランスの最高司法機関です。今回の事件ではマリー・アントワネットはたしかに潔白であり、言い分も最もなものなのでしたが、ルイ16世は渋りました。
なぜなら1614年から高等法院は、
- 法律の登記に関する拒否権をもち、
- 政治にも関与し、反国王派の牙城ともなっており、
- 国民の代表機関という主張を掲げていたからです。
「高等法院は必ずしも王家の味方ではないのだよ」とルイは心配しますが、マリー・アントワネットの気持ちはおさまらず、事件は高等法院へもちこまれたのでした。ルイが心配したとおりといいますか、これを機にいっきに王家の名誉を失墜させる裏工作がすすんでいくのです。
(バスティーユ牢獄の城壁内)
翌年5月から裁判がはじまりバスティーユに勾留中の関係者が呼び出され、喚問が行われました。ラ・モット夫人は罪人の証拠であるV(Voleuseで泥棒のこと)の文字を両肩に焼き印されて投獄されました。
無罪となったロアン枢機卿と、レズ疑惑で有罪になった王妃
(1781年 マリー・アントワネットの肖像画)
しかしロアン枢機卿は「無罪」となったので、王妃の怒りは増すばかり。
自分の身の潔白を証明するどころか、「ダイアモンド狂い」と呼ばれアントワネットの評判は落ちるばかり。さらにラ・モット伯爵夫人が裁判であることないこと証言して場を混乱させたために、王妃にとっては屈辱なことに、『マリー・アントワネットはラ・モット伯爵夫人と愛人関係 (レズビアン関係) にあるという事実無根の噂』が広まりました。(伯爵夫人はのちに、虚偽の醜聞をもとに後に本を出版し金銭を得たというオマケつき)
王妃の怒りは、鎮まらず
(マリー・アントワネットのミニチュア 1787年)
「王妃とロアン枢機卿はいい仲だったんだ」「いやいや、王妃とラ・モットが組んでやったんだろう。王妃様の宝石狂いは誰もが知るところだろ」色々な解釈が街中に溢れましたが、どれもマリー・アントワネットの悪評ばかりでした。
納得いかないマリー・アントワネットは夫である陛下に「ロアン枢機卿をパリから追放してください」とお願い、ロアン枢機卿をやむなく人里離れた山奥の修道院へ蟄居されたのでした。
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官職についていた名家が、次々と職を辞す自体に
(フランスの王室 肖像画)
これで王妃の怒りもおさまり一件落着かと思いきやそうでもなく、問題はここからでした。
「裁判で無罪になったのに、この措置はなんですか」と衝撃を受けたロアン家。ロアンの従兄弟であり乳母をつとめたマルサン夫人は王妃に「わたくしに免じて、どうかこんな不名誉なことは取り消してください」と懇願したといいます。しかしマリー・アントワネットは一切聞き入れませんでした。
(.【マリー・アントワネットの最後】赤字夫人と呼ばれた王妃の生涯 (輿入れ編))
それにマルサン夫人は激怒します。「私たちは王妃様がまだこの国の存在を知らないときから、この宮殿にいたのに」と一族の怒りは爆発し、全員でヴェルサイユを出て行くことにしたのでした。彼女らに便乗するように、宮殿内に住みいろいろな官職についていたロアン家、マルサン家、スービー家などの人物が自発的に宮殿を後にしたのでした。要するに宮中にいた官僚たちが、王妃を見限ったかたちです。
詐欺師 ラ・モット夫人に集まる同情票
(ラ・モット伯爵夫人の肖像画 1780年)
そもそもこれは「ラ・モット夫人による詐欺事件」なので、この首飾り事件に関してはマリー・アントワネットはまさに無関係だったのですが、今までに積もり積もった貴族や旧臣、国民の不満がこれを機に一気に爆発してしまったのです。
『ラ・モット夫人は王妃の犠牲者ではないのか』といった噂もながれ、なぜか加害者に同情票が集まり、連日贈り物や花束が届くという理不尽さ。「ヴァロワ家の血を引く女性に、焼きゴテをおして牢獄にいれるなんて王家に対する冒涜では…」とマリー・アントワネットの友人でさえ思っていたというのですから、王妃への嫌悪がどれほどのものだったか想像ができます。
揉めに揉めているときに、ラ・モット夫人の夫はさっさと首飾りを解体して異国に売りさばいていました。 そして翌1787年6月に、ラ・モット夫人は何者かの手助けにより、さっさと脱獄してしまったのでした。
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結果、王家になにがおこったのか
マリー・アントワネット批判はとまらず
(マリー・アントワネット ポール・ドラロッシュの絵画より 1857年)
その後宮廷費がどう使われているかが暴露され (正確には報告せざるをえなくなった)、王族の生活ぶりとその経費が一般国民に知れ渡ります。「労働者や農民は食べることさえ必死なのに、なぜ王族は贅沢三昧できるのか」、不平不満はマリー・アントワネットに集中します。
アントワネットには愛くるしい子供もできダイアモンドへの執着も、遊びも昔ほどではありませんでした。それにしても時すでにおそし、マリー・アントワネットは「赤字夫人」と呼ばれ、評判はこれ以上落ちようがないところまで落ちてしまったのでした。
止められなかったフランス革命、王族の逮捕
(【マリー・アントワネットの最後】赤字夫人と呼ばれた王妃の生涯 (処刑編))
そして1789年、ついにあのフランス革命へと突入していきます。フランス革命とはかんたんにいえば、『ブルボン朝の絶対王政』を倒した市民革命です。国王一家はパリに連行され、パリ市民の監視下におかれることとなりました。まだ幼く愛くるしい子供達も一緒でした。
(マリー・アントワネットと2人の子供 1785年の絵)
そしてフランス王は処刑へ
(参考文献:【ヴァレンヌ事件】逃げる国王ルイ16世と憎しみに身を委ねた市民)
2年後ルイ16世とアントワネットはフランス亡命をくわだてますが 、失敗におわります(世に言うヴァレンヌ逃亡事件) 。そして1792年12月にはじまったルイ16世の国民公会での裁判。
- この男は、王として統治できる人物か、それとも死すべきか
- 共和政の樹立されるのであれば、王はいらないのではないか
少しの差で、王は処刑されることが決まりました。
(ギロチンで処刑されるルイ16世 1789年の画)
王妃マリー・アントワネットの裁判
マリー・アントワネットは1793年10月革命法廷で裁かれました。元王妃の彼女であっても、弁護士の準備に一日の余裕も与えられなかったといいます。マリー・アントワネットが告発された理由は、
- ヴェルサイユでの組織活動
- オーストリアに何百万ドルもの国庫金を送ったこと
- 1792年にガルデ・フランセーズ(近衛連隊)の虐殺を計画したこと
- 息子をフランスの新王と宣言したこと
- 息子への近親相姦
など、身に覚えのないものもありました。最後の告発にいたっては「そんなこと、ありえるわけないでしょう」と部屋にいるすべての母親に訴え、そればかりは女性の同情をかったといわれています。
後を追うように、王妃も処刑台へ
(ギロチン台の王妃 マリー・アントワネット)
遺書を書き終えたマリー・アントワネットは、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。すべて終わりました」と述べ、白衣に白い帽子を身に着けたといいます。
そして苦なく死ねるようにと、髪を短く刈り取られ両手を後ろで手に縛られました。
(処刑前の王妃の様子のスケッチ)
12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行されました。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたといいます。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていましたが、間もなくして彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られたといいます。
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あとがきにかえて
(マリー・アントワネット1791年の肖像画)
当時の社会で期待される王妃像は、君主の後ろにそっと寄り添うような女性でした。
しかしマリー・アントワネットは個性が強く、「高貴な出自と身分」について揺るぎない誇りをもっていたのと同時に「近代的女性」としての面も持ち合わせていたといいます。「普通の女性として」と思うままに生き、それによりさまざまな摩擦が生じていったともいわれています。
(王妃の二枚の肖像 1778年と1779年)
ただ一方で王太子が生まれてからは、「王妃としての義務を果たさなければ」という責任感もあったといいます。それは「最後に革命から逃避するよりも、対決することを選んだ」ことにもみてとれます。
その「健気な姿」が共感を誘いもしたが、積もり積もった国民の不満を鎮めることはできなかったのでしょう。フランス革命は、同時に展開されたイギリスの「産業革命」と並行する「二重革命」として、「近代資本主義社会」を完成させたともいわれていますので、もしかしたら彼女の片鱗が今の時代のどこかに、息づいているのかもしれませんね。
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