ヴィクトリア女王は、1819年5月24日にロンドンのケンジントン宮殿で生まれました。彼女は国王ジョージ3世の四男ケント公エドワードの一人娘でした。王位継承者からは遠い位置にあった彼女がなぜ女王になったのか。この記事では「ヴィクトリ女王とは」と題して、歴史におおきく名を刻んだうつくしき女王の生涯をみていきたいとおもいます。
なぜヴィクトリアは女王になったのか
4男の長女が、まさかの王位継承
ヴィクトリアは、国王ジョージ3世の四男エドワードの娘です。しかし父エドワードは、彼女の生後間もなく亡くなってしまいます。亡き父エドワードの上には3人の兄がいたわけですが、王位継承権のあった3人の叔父、すなわちジョージ4世、フレデリック・ヨーク公、ウィリアム4世には、生き残った嫡出子がいなかったのです。そういうわけで必然的に、72歳で伯父ウィリアム4世が亡くなったあと、王位継承順位が一位だったヴィクトリアが後を継ぐことになりました。
18歳で伯父の跡をつぎ、英国女王に即位
1837年のウィリアム4世の死によって、彼女は18歳で女王になりました。ヴィクトリア女王といえば有名なのは、英国の産業革新、経済発展、そして帝国時代です。彼女が亡くなったとき、英国は『太陽が沈まない帝国』と呼ばれていました。 帝国とは『複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のこと』、この頃英国は世界各地に植民地をもっていたのです。
明るく活発だったヴィクトリア女王。。家庭教師から教育を受けた彼女は、生来の日記作家で、生涯を通じて定期的に日記をつけていたそうです。 18歳とは思えない毅然とした態度でのぞむ姿が描かれています
女王に大きな影響を与えた2人の男性
政治の舵取りを教えてくれた、メルバーン首相
在位初期にヴィクトリアは、2人の男性から影響を受けました。ひとりは当時首相をつとめていたメルバーン、もうひとりはヴィクトリアの大きな支えとなる夫アルバートです。当時のイギリスはというと産業革命は頭打ち、経済的にはどん底であり、街には失業者が溢れかえっていました。
そんな大変な時期に、政治の舵取りを教えてくれたのがメルバーン首相です。40歳年上のメルバーン首相は性格も温厚で、父を亡くした女王にとっては父親のような存在だった、といわれています。
ヴィクトリアを多方面からサポートした、夫アルバート
ヴィクトリア女王は1840年にアルバートと結婚し、2人の間には4男5女がうまれます。仲睦まじしい女王一家の複製版画は、イギリス中の家庭で飾られました。アルバートはイギリスに到着すると、国の政治的慣習や歴史だけでなく、芸術、科学、貿易、産業にも積極的に関心を示しました。
良き夫であり、良き助言者でもあったアルバート。政界のなかで誰が強者か、狡猾かを見分ける才もあり、いろんな方面からヴィクトリアをサポートしていきました。『ドイツ男』と揶揄されたアルバートが、一躍脚光を浴びたのは1851年におこなわれた万国博覧会。
目玉はイギリスの産業技術の結晶ともいえる会場、クリスタル・パレス。彼が美術家とタッグを組んでつくったこの館は大英帝国のはじまりの象徴でもあり、この後にイギリスはアジア・アフリカ諸国を次々と植民地として取り込んでいくことになります。
7つの海を支配する大英帝国
世界中に植民地を組み込んでいった
万博が終わると、英国は第二次アヘン戦争で中国を、セポイの反乱を鎮圧してインドを勢力下におきます。またクリミア戦争では地中海へと南下しようとしたロシアを倒しました。エリザベス1世のときには、スペインから自国を守ることしかできなかった英国ですが、ここにようやく『7つの海を支配する大英帝国』が出来上がったのでした。
数字で見る、大英帝国の繁栄
どれほどのものだったか数字でみるとわかりやすいのですが、ヴィクトリア時代と呼ばれる64年の間に大英帝国は覇道の限りを尽くし、
- 領土を10倍以上に拡大させ、
- 地球の全陸地面積の4分の1、世界全人口の4分の1(4億人)を支配し、
- 史上最大の帝国となったのです
大英帝国を維持し、拡大するために英国は世界各地で頻繁に戦争を行っていました。ヴィクトリア朝全期を通じてイギリスが戦争をしていない時期は稀で、64年間にイギリス軍が全く戦闘しなかった時期は2年だけだったといわれています。
ヴィクトリア女王の晩年
最愛の夫アルバートの死
12月13日午後遅く、アルバートは危篤状態に陥り、ヴィクトリア女王はじめ家族が集められました。その日の晩ヴィクトリアは、涙を流して祈り続けたといいます。ヴィクトリアがアルバートの枕元に近づくと彼女に気付いたアルバートは彼女にキスをして手を握り、弱弱しい声ながら「gutes Fraüchen(私の可愛い小さな奥さん)」と声をかけたといい。翌14日朝にはアルバートは回復に向かっているように見えたが、正午までにはほとんど動けなくなり。アルバートの息が荒くなるとヴィクトリアは彼に駆け寄り、「Es ist Fraüchen(貴方の小さな奥さんですよ)」と囁き、彼とキスをしたといいます。
祈りもさることながら、同日、夫アルバートは帰らぬ人となりました。享年42歳、原因は腸チフスだったといわれています。突然のことで、同い年だったヴィクトリアは42歳にして未亡人となったのでした。
深い悲しみと、周囲からの冷たい視線
ヴィクトリア女王ら家族が見守る中、アルバートは42歳にして崩御します。ヴィクトリアは冷たくなった夫の手をしばらく握り続けていましたが、やがて部屋を飛び出して泣き崩れたそうです。女王の悲しみは深く、以後40年間を女王は喪服で過ごすことになります。大きな支えであり愛しい夫を失ったヴィクトリア。その悲しみは理解されず、ロンドンの社交界や表舞台から忽然と姿を消した女王に批判の声が集まりました。
「職務を放棄している」かのように思われたヴィクトリア女王でしたが、彼女は毎日大臣たちからの書簡に目を通し、必要な書類には署名をして送り返していたといいます。1871年皇太子のエドワード王子 (のちのエドワード7世)が父アルバートと同じ病気にかかり、回復したときは国をあげてお祝い。それをキッカケとしてヴィクトリア女王は表に舞い戻り、人気はあがっていったのでした。晩年、ヴィクトリアは大英帝国の象徴となります。
さいごに
女王の即位50周年と60周年には、お祝いに盛大な展示や催し物がひらかれました。そこではいずれも植民地の首相が出席する植民地会議が開催されました。1900年にはダブリンを公式訪問するなど、高齢となってもヴィクトリア女王は最後まで仕事を続けました。
女王はイギリス史上最長となる約64年に及ぶ治世の後、1901年1月22日にワイト島のオズボーン家で亡くなり、その後は息子のエドワード7世が継ぎました。彼女は、アルベール皇太子の隣にあるウィンザーに埋葬されました。彼女が最後の埋葬地として建てたフログモア陵です。ちなみに陵墓の扉の上には、ヴィクトリア女王の言葉が刻まれています。劣勢のときでも「敗北の可能性は考える必要がないでしょう。そのようなものは存在しません」と言い放った女王らしい言葉です。
Farewell best beloved, here at last I shall rest with thee, with thee in Christ I shall rise again (さようなら愛する人たち、わたしはここで休みます、そしてまたキリストとともに立ち上がるでしょう)
英国の歴史シリーズ
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