Wise man learns from History.

【ピョートル大帝】ロマノフ王朝、身長203センチのイケメン変革者

2020/09/08
 
ロシアのピョートル1世
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ロマノフ王朝 3代目のツァーリ長身のイケメンピョートル1世望まれてロシア皇帝 (ツァーリ)の座についたのに、野心にあふれた義理の姉ソフィアに殺されかけ、骨肉の争いのすえに命からがら王冠を奪還。新しい首都を開拓し、絶対王政の基礎を築くなど様々な変革をもたらした人物でもあります。この記事では、彼の波乱に満ちた人生を肖像画とともにみていきます。

(この記事を読むのに必要な時間は、約5分です)

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大帝と呼ばれた長身のイケメン、ピョートル1世

ピョートル大帝 (少年期) (少年期のピョートルの肖像画)

ピョートルは1672年ツァーリ・アレクセイと2番目の后妃ナタリヤの子として生まれました。すくすく成長したピョートルでしたが、父アレクセイは亡くなり後を継いだフョードルも早逝。かくしてロマノフ王朝にお世継ぎ問題が勃発しました

 

若くしてツァーリとして即位

ピョートル大帝 (家系図) (ロマノフ王朝 ピョートル大帝周辺の家系図)

ピョートルは、元ツァーリアレクセイの後妻の息子しかし先妻の方にも男児がおり、異母兄イヴァンは健在でした。しかしイヴァンには精神障害があったため、外戚であるミロスラフスキー家と姉ソフィアに擁されていましたた。「強く健康な男児をツァーリにすえたい」という亡き父や周りの意思を継ぎ、ツァーリとして即位したのがまだ若いピョートルでした。

 

即位に異を唱えたのが、腹違いの姉ソフィア

ピョートル大帝の義理姉 ソフィア アレクセイ

しかしこれに異を唱えたのが、父の先妻の娘ソフィアです。精神障害はあるけれど、先妻の息子『イヴァン (ソフィアにとっては弟)』は生きているのに、何故ピョートルが玉座につくのか。野心に溢れていた腹違いの姉ソフィアは、兵を率いピョートルを玉座から引きずりおろそうと画策します。結果として、ピョートルは命までは取られなかったものの、彼に仕えていた廷臣や叔父は惨されてしまいました。

 

命はとりとめたが、田舎へ追放されてしまう

ピョートル大帝を守る母 (義理姉軍)(義理姉の兵から、ピョートルを守る母)

武器をかまえてはいってくる暴徒たちから、小さいツァーリピョートルを必死で守る母ナタリアとにもかくにも九死に一生を得たピョートルと母。ピョートルはが後世『二重人格者とあだ名されるほど厄介な性格になったのは、このときの強烈なトラウマが原因とされています。

腹違いの姉ソフィアはピョートルを玉座からおろし、弟を『イヴァン1世』として戴冠させますピョートルはどうなったか、と『共同統治者へ格下げされ田舎へ追っ払われてしまったのでした。(事実上の追放ですねえ….. )

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身の丈2メートルのたくましい青年

ピョートル、ツァーリの座を取り戻す

ピョートル大帝 (ピョートル ゴッドフリー・ネラーによるピーター1世の肖像画)

それから7年ピョートルは身の丈2メートルのたくましい青年となりました。この間にピョートルは上流貴族の娘と結婚をし、地道に反ソフィア勢力を味方につけていきました。そして反乱分子をあつめたピョートルはソフィアへ復讐を果たしついにツァーリの座を取り戻しました。7年前ピョートルと侍従を襲いツァーリの座を奪っても命まではとらなかったソフィア。それに習ってかピョートルも彼女を修道院へ幽閉するだけにとどめました。

 

ピョートルのヨーロッパ視察が役立ち、ロシアは近代化へ

ピョートル大帝が乗船していたと思われる船(ピョートル大帝が乗船しているとみられる船)

ソフィアとの争いがひと段落し、ピョートルはロシアの近代化を目指すためヨーロッパへ視察へ出かけました1年半に及ぶピョートルのヨーロッパ視察は、あらゆる意味で大成功だったといいます。各地でピョートルは先進文化にふれてまわり、身分にもとらわれずオランダの造船所では連日、船の建造に得意の槌をふるいました。造船所では大工のピョードルと呼ばれ、親しまれたそうです。

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ロシアの好感度は、たちまちアップ

海外視察にでたピョートル大帝 (左にうつる男性こそ、造船所で槌をふるうピョートル大帝)

普段は宮廷におり威厳にあふれているはずの絶対君主が平民に混ざって泥仕事を行なっているわけです。田舎者の三流国といわれていたロシアの好感度はたちまちアップ、現地ではニュースになったほどでした。ピョートルは死体解剖にも立ち会い、工場、病院、造幣局、大学、天文台、議会、博物館と、子供のような好奇心むき出しであらゆる場所を視察し、また武器、手術用具、書物に絵画などを買いあさったといいます。またエンジニアや医者、学者、画家といった専門家も高給で雇いロシアへ招きました。

 

どんな目にあってもめげない、恐ろしき女

ロシアに存在した鉄の女君主 皇女ソフィア・アレクセイエヴナ (皇女ソフィア レーピン画  窓にみえるのがその死体)

さらなる領土拡大と近代化を目指し、ヨーロッパの先進技術を視察する旅へ出たピョートルでしたが…. 1年半後に『モスクワで十兵隊蜂起した』との伝令がはいり、急ぎロシアへ戻ります。

ロシアに戻ったピョートルは、異母姉ソフィアが糸をひいているとして1,000人近くを逮捕。拷問に次ぐ拷問で責め立てましたが、物証はなく。見せしめのためにソフィアを閉じ込めた修道院前の広場で彼らの多くを処刑し、首謀者とされる3人お首吊り死体を彼女の部屋の窓にぶら下げました(その後のソフィアの運命についてはこちら【ロシアに存在した鉄の女君主】皇女ソフィア・アレクセイエヴナにまとめております)

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カリスマピョートル大帝と、凡庸な息子アレクセイ

ピョートル大帝と息子アレクセイ(ピョートル大帝と息子のアレクセイ Nikolai Ge, 1871年)

背も高く力自慢、圧倒的なカリスマ性と政治力をもちあわせたピョートル大帝でしたが、最初の妻エヴドキヤとの間にできた長男アレクセイは実にひ弱で、近代化に反対する保守的な人物でした。

「根性をいれかえないと皇位継承権を剥奪するぞ」と父はプレッシャーをかけ、耐えかねてか息子アレクセイは、戦地へいくと偽りロシアから亡命してしまいます。肝を冷やしたピョートル大帝はすぐに追ってをかけ、息子をロシアに連れ戻し拷問の末、国家反逆罪として死刑判決を課します。そしてアレクセイはペトロパヴロフスク要塞へ収容されたあと、謎の死を遂げたのでした。(おそらく殺されたのでは、といわれています)

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新都をモスクワから、サンクトペテルブルクへ

ピョートル大帝(1世)の功績(ピョートル大帝 海岸で散布とペテルブルクの構想にふける)

ピョートル大帝は異母姉ゾフィーと骨肉の争いを繰り広げた記憶からかモスクワを憎み、新たな首都建設を模索します。新しい都は海にむかってひらき、『ヨーロッパの窓』でなければならない

候補地はネヴァ川河口の三角州、バルト海への出口に一する湿地帯じめじめして脳霧がたちこめ、人間を拒むほどの虚無と極寒の土地でした。川が氾濫すれば水浸しになる侘しい集落と荒野、狼のうろつく薄暗い森があるばかり……

 

学べば、出来ないことなどなにもない

サンクトペテルブルク建設を視察するピョートル (サンクトペテルブルク建設を視察するピョートル大帝の画)

ただピョートルは、根っからの『変革者』でした。「ヨーロッパ風の自由な都を新たにつくるのだ」と5万人の農奴を動員し、犠牲を出しながらも10年の歳月をかけ、活気に満ちた都を見事に作り上げます。ヨーロッパ視察にて人工の街アムステルダムをみていたピョートル大帝、不毛の地と呼ばれようとも、けして無理ではないことを知っていたのでしょう。

ネヴァ川

新都の正式名は『サンクト・ペテルブルグ』、この美しい水の都は『北のヴェネチア』と呼ばれました

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華やかさとは無縁なロシア皇帝とその功績

ヨーロッパに憧れるも、自分流を貫く

ピョートル大帝 (1世) ロマノフ王朝の変革者(Portrait of Peter I of Russia (1672-1725)

凛々しい肖像画が多いですが、ピョートル大帝は華やかさとは無縁な生活を送りました洗練されたヨーロッパに憧れながら、暴飲暴食、乱痴気騒ぎ、気まぐれ、野蛮な振る舞いなど、彼らしい振る舞いをやめなかったといいます。妃選びにおいてもヨーロッパとはちがい、由緒正しき妃を求めるわけではなく、彼が気に入れば貧しい家の娘を迎え入れました

 

ロシアの絶対君主を確実なものに

(ピョートル大帝) ロマノフ王朝 家系図 (ロマノフ王朝 晩年のピョートル大帝周辺 家系図)

王妃を娶ったピョートルは、ペテルブルクに定住します。いっそうの央集権化など改革を推しすすめ、農奴制を経済基盤としたロシアの絶対君主制を完成させました。そのほかにも、

  • 身分ではなく能力重視の官吏を登用
  • 都市商人の優遇
  • 製鉄業などの振興による富国強兵
  • 徴兵と秘密警察の制度化

などが、ピョートルの功績としてあげられています。

 

カリスマ大帝のナゾと、早すぎる死

ネヴァ川

ピョートルは『 高貴な妃の血をひく息子に王朝を存続させる』ことにこだわりはなかったといいます。そして1724年 悪天の11月、52歳になったピョートルは、側近らと馬を駆ってペテルブルク郊外へ視察に行く途中に、増水した川の中洲で船が座礁し人々が助けを求めている姿に出くわします。なにを思ったか大帝は自ら凍てつく川へ飛び込んで救助活動の陣頭指揮をとったのでした。

死の床にいるピョートル大帝、ニキチン作(死の床にいるピョートル大帝 画:ニキチン)

帝位継承法を作成し、自分の一存で次のツァーリを決定できるようにはしていたものの、書類に後継者の名前は書かれておらずいったい誰を後継者に据えようとしていたのかも不明のままでした。

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あとがきにかえて

ピョートル大帝 セルゲイ・キリロフ(ピョートル大帝 画セルゲイ・キリロフ)

目覚ましい変革者でありながら、残虐な一面も持ち合わせたピョートル大帝。人の命など羽より軽いといい、自らの手で処刑することもいとわなかった彼ですが、最後は罪滅ぼしのように、貧しい兵士らの命を救うために奮闘し命を落とします。そもそも後継者争いに巻き込まれず、義理姉ソフィアが野心を持って奮起せず少年のピョートルを襲ったりしなければ、もう少し平和な人生を送れていたのでしょうか。しかしだからこそ、反逆心を力にかえ変革ができたのか… 。文献には残っていない真実が他にも眠っているのかもしれませんね。(ソフィアについてはこちら【ロシアに存在した鉄の女君主】皇女ソフィア・アレクセイエヴナをご覧ください)

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