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【ロシアの美しい変革者】ペテルブルクを開拓した、ピョートル大帝

2020/01/24
 
ロシアのピョートル1世
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

ロマノフ王朝 3代目のツァーリは、身長2メートルをこす大男 “ピョートル1世” です父と周りに望まれ「ロシア皇帝」の座についたのに、野心にあふれた義理の姉ソフィアに殺されかけ、骨肉の争いの末命からがら王冠を奪還。新しい首都を開拓し、絶対王政の基礎を築くなど様々な変革をもたらした人物でもあります。この記事では、彼の波乱に満ちた人生をみていきたいとおもいます。

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義理姉と玉座をめぐる骨肉の争い、殺されかけた少年時代

ピョートル大帝の誕生(画:ピョートル大帝の誕生)

「心身ともに健全な皇帝を」と父より望まれ、若くしてツァーリの座についたピョートル。しかし父の先妻の娘ソフィアはこれを良しとせず、兵を率いてピョートルを玉座から引きずりおろそうと画策します。ピョートルは命は何とかとりとめたものの、忠実な進化や叔父(母の弟)は惨殺されてしまったのでした。

ロマノフ家 皇女ソフィア 家系図(義理姉の兵から、ピョートルを守る母)

とにもかくにも九死に一生を得たピョートルは、その後反乱分子をまとめあげ、義理姉であるところの皇女ソフィアに残酷な復讐することになるのでした。彼が後世「二重人格者」とあだ名されるほど複雑なになったのは、このときの強烈なトラウマが原因とされています。

 

自ら処刑、拷問をいとわない冷酷な君主

ロシアのカリスマ変革者、ピョートル1世(ゴッドフリー・ネラーによるピーター1世の肖像、1698年)

7年の歳月が流れ、ピョートルは身の丈2メートルのたくましい青年となりましたまた上流貴族の娘と結婚をし、反ソフィア勢力も味方につけます。ソフィアに復讐したのち彼女を修道院へ幽閉。さらなる領土拡大と近代化を目指し、ヨーロッパの先進技術を視察する旅へ出たのですが。1年半後に「モスクワで十兵隊蜂起した」との伝令がはいり急ぎロシアへ戻ります

義理姉ソフィアが糸をひいているとして1,000人近くを逮捕。拷問に次ぐ拷問で責め立てましたが、物証はなく。見せしめのためにソフィアを閉じ込めた修道院前の広場で彼らの多くを処刑し、首謀者とされる3人お首吊り死体を彼女の部屋の窓にぶら下げたといいます。

ロシアに存在した鉄の女君主 皇女ソフィア・アレクセイエヴナ(レーピンが描いた「皇女ソフィア」 窓にみえるのがその死体)

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ピョートルのヨーロッパ視察が役立ち、ロシアは近代化へ

ロシアのカリスマ変革者、ピョートル1世(ピョートル大帝が乗船しているとみられる船)

1年半に及ぶピョートルのヨーロッパ視察は、あらゆる意味で大成功だったといいます。各地でピョートルは先進文化にふれてまわり、オランダの造船所では連日、船の建造に得意の槌をふるいました宮廷にいるはずで、威厳にあふれた絶対君主が、外で平民にまじっているのですから、田舎者の三流国といわれていたロシアの好感度はたちまちアップ、現地ではニュースにもなりました。

ロマノフ家 皇女ソフィア 家系図(造船所で槌をふるうピョートル大帝)

ピョートルは子供のような好奇心むき出しで死体解剖にも立ち会い、各種工場、病院、造幣局、大学、天文台、議会、博物館を視察し、武器や手術用具や書物、絵画を買いあさったといいます。またエンジニア、医者、学者、画家といった専門家も高給で雇い、ロシアへ招きました。

 

カリスマピョートル大帝と、凡庸な息子アレクセイ

ピョートル大帝と息子アレクセイ(ピョートル大帝と息子のアレクセイ Nikolai Ge, 1871年)

背も高く力自慢、圧倒的なカリスマ性と政治力をもちあわせたピョートル大帝でしたが、最初の妻エヴドキヤとの間にできた長男アレクセイは実にひ弱で、近代化に反対する保守的な人物でした。

「根性をいれかえないと皇位継承権を剥奪するぞ」と父はプレッシャーをかけ、耐えかねてか息子アレクセイは、戦地へいくと偽りロシアから亡命してしまいます。肝を冷やしたピョートル大帝はすぐに追ってをかけ、息子をロシアに連れ戻し拷問の末、国家反逆罪として死刑判決を課します。そしてアレクセイはペトロパヴロフスク要塞へ収容されたあと、謎の死を遂げたのでした。(おそらく殺されたのでは、といわれています)

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新都をモスクワから、サンクトペテルブルクへ

ピョートル大帝(1世)の功績(ピョートル大帝 海岸で散布とペテルブルクの構想にふける アレクサンドル・ベノワ1916)

ピョートル大帝はゾフィーとやりあった子供時代の苦い記憶からかモスクワを憎み、新たな首都建設を模索します。新しい都は海にむかってひらき、「ヨーロッパの窓」でなければならない。候補地はネヴァ川河口の三角州、バルト海への出口に一する湿地帯じめじめして脳霧がたちこめ、人間を拒むほどの虚無と極寒の土地でした。川が氾濫すれば水浸しになる侘しい集落と荒野、狼のうろつく薄暗い森があるばかり。ただ彼は”変革者”ですから、ヨーロッパ風の自由な都を新たにつくるのだ5万人の農奴を動員し、犠牲を出しながらも10年の歳月をかけ、活気に満ちた都を見事に作り上げたのでした。

ピョートル大帝の首都移管 サンプトペトルブルク

ヨーロッパ視察で人口の街アムステルダムをみていたピョートル大帝は、不毛の地と呼ばれようとも、けして無理ではないことを知っていたのでしょう。新都の正式名は「サンクト・ペテルブルグ」、美しい水の都は「北のヴェネチア」と呼ばれました

 

華やかさとは無縁な「ロシア皇帝」とその功績

ピョートル大帝 (1世) ロマノフ王朝の変革者(Portrait of Peter I of Russia (1672-1725))

ピョートル大帝は華やかさとは無縁な生活を送りました。ヨーロッパの洗練に憧れながら、暴飲暴食、乱痴気騒ぎ、気まぐれ、野蛮な振る舞いなど、彼らしい振る舞いをやめなかったといいます。由緒正しき妃を求めるヨーロッパとは違い、妃もまた彼が気に入れば貧しい家の娘を迎え入れる、など形式にこだわることはなかったといいます。

ペテルブルクに定住したピョートル大帝 (1世) は、いっそうの中央集権化など改革をおしすすめ、農奴制を経済基盤とした「ロシアの絶対主義」を完成させました。他にもこんな功績をあげています。

  • 身分より能力重視の官吏登用
  • 都市商人の優遇
  • 製鉄業などの振興による富国強兵
  • 徴兵と秘密警察の制度化

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カリスマ大帝のナゾと、早すぎる死

死の床にいるピョートル大帝、ニキチン作(死の床にいるピョートル大帝、画:ニキチン)

ピョートル大帝は妃の身分にはこだわらず、「高貴な妃を娶り、その血をひく跡取り息子に王朝を存続される」といったこだわりもみられなかったといいます。そして1724年、悪天の11月、52歳になったピョートルは側近らと馬を駆ってペテルブルク郊外へ視察に行く途中に、雑炊した川の中洲で船が座礁し、看板で数人の兵士が助けを求めている姿に出くわします。なにを思ったか大帝は自ら凍てつく川へ飛び込んで、救助活動の陣頭指揮をとったのでした。長時間腰まで水につかった本人は、その夜から高熱をだし、持病の尿道結石が悪化、2ヶ月もしない間に亡くなってしまいます。

帝位継承法を作成し、自分の一存で次のツァーリを決定できるようにはしていたものの、書類に後継者の名前も書かれておらず「誰を後継者に据えようとしていたのか」も不明のままでした。

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あとがきにかえて

ピョートル大帝 セルゲイ・キリロフ(ピョートル大帝 画セルゲイ・キリロフ)

目覚ましい「変革者」でありながら、残虐な一面も持ち合わせたピョートル大帝。人の命など羽より軽いといい、自らの手で処刑することもいとわなかった彼ですが、最後は罪滅ぼしのように、貧しい兵士らの命を救うために奮闘し命を落としますそもそも後継者争いに巻き込まれず、義理姉ソフィアが野心を持って奮起せず少年のピョートルを襲ったりしなければ、もう少し平和な人生を送れていたのでしょうか。しかしだからこそ、反逆心を力にかえ変革ができたのか… 。文献には残っていない真実が他にも眠っているのかもしれませんね。

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