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三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話

2020/02/04
 
三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 

私が8歳の時、母が「三叉神経痛」を発症しました当時は「が痛い」というだけではどこの病院でも「原因不明」、痛い痛いとうずくまる母に私は「大丈夫?」と声をかけることしかできませんでした。

色々と試しましたがどれも効かず、「三叉神経痛」だとわかったのは、発症して8年がたったころです。そして「神経と血管が絡まっていること」根本的な原因だと断定され、2回の手術をうけ完治にいたりました。痛みから解放されたとき母は50歳でしたいまは苦しんだ15年間を取り戻すかのように人生を楽しんでいます子供視点ではありますが、「三叉神経痛は治るんだ」と誰かの希望になることを祈り、私たち家族の壮絶な戦いを記したいとおもいます。

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目には見えない病、三叉神経痛

三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話

三叉神経痛とは顔に痛みのでる病気です。顔の感覚(いたい、さわった、つめたい、あついなど)を脳に伝える神経が三叉神経ですが、この三叉神経に痛みが起こり、顔を痛く感じるのが三叉神経痛です。いろいろな理由でおこりますが、特発性三叉神経痛という、むかしは原因不明とされていましたが、そもそも原因は脳にあっておこることがわかってきているそうです。(情報引用元:脳神経外科疾患情報)

 

三叉神経痛はどれほど痛いのか

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母は「顔に高温のアイロンを、ずっと押し付けられているイメージ」と表現していました。脳神経外科疾患情報にはこう書かれていました。

三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話三叉神経痛の顔の痛みにはかなり特徴があります。痛みは非常に強いものですが、突発的な痛みです。一瞬の走るような痛みで、数秒のものがほとんどで、ながく続いてもせいぜい数十秒です(中略) 痛みで歯磨きができないこともあります。触ると痛みを誘発されるポイントがあり、鼻の横などを触ると、顔面にぴっと痛みが走る、という場合は三叉神経痛の可能性が高いです。 季節によって痛みが変動するのも特徴で、11月や2月に痛みがひどくなる方が多いです。(参考元:脳神経外科疾患情報 https://square.umin.ac.jp/neuroinf/medical/503.html)

ただ母の痛みは永続的なものでしたので、個人差があるのでしょう。季節目の変わり目には、とても顕著に痛みがでていました。また根本的な原因は「血管と神経が複雑に絡まっていたこと」にあったので、「三叉神経痛」+そういった先天的な要因があったのかもしれません

 

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一般的に言われている三叉神経痛の治療法

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内服治療もありますが、あまりにひどい場合は手術となります。母が病院にいたときも、似たような症状の方が手術を待っていました。当時はまだ原因がハッキリしていなかった (ほんとに一部の先生しか、診断や治療を行えなかった) ので「この日のために、何年も待っていたんです」というご家族が結構いました

具体的な手術例

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痛みのでているのと同じ側の耳のうしろの方の皮膚を髪の毛の生え際にそって510cm切開します。皮膚と頭蓋骨の間の筋肉を剥離して頭蓋骨に穴をあけます。脳を包む硬膜という膜を切開し、小脳という部分と頭蓋骨との間の隙間から56cm奥にはいっていくと、脳幹部から三叉神経が出ている部分になります。ここで神経を圧迫している血管を見つけて、神経につよくあたらないように移動して減圧します。硬膜はもと通りに縫合して、頭蓋骨、筋肉、皮膚を塞いで手術を終了します。(参考元:脳神経外科疾患情報 https://square.umin.ac.jp/neuroinf/medical/503.html)

母が経験した手術

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母の場合も『頭にメスをいれて、癒着している神経と血管を離す』といった手術でしたしばらくして目覚めた母が、一生懸命呼吸をしながら「苦しいから人工呼吸器をとって」とバタバタしながら叫んでいたことを、まるで昨日のことのように覚えています。そこまで発狂した母をはじめてみたものですから、私と弟はふたりぽつんと佇んでいました。父だけが母に触ることを許され「痛い」という背中をさすっていました。「生きている、よかった」という安堵と、「こんなに苦しいものなのか」という驚き。もちろん全身麻酔で術時間も数時間と患者の大変さは語るまでもないのですがその時間集中力を切らさない先生もすごいとおもいました。弟も何か感じたのでしょうか。彼は何の因果か猛勉強して旧帝大の大学院まで進み、副作用専門の研究者になるのですが、それはこれより10何年さきの話しです。

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家族の苦しみ

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もちろん一番つらいのは病気を患っている本人です。苦しいのに周りにも気を使うでしょうし、やりたいこともできない、動きたいように動けない、それに何より痛いほど辛いことはありません。ただ小さい頃から見ていた私には、「ご家族の苦しみ」もよくわかるのです。

 

大切な人の苦しむ姿を見るのが辛い

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母は当に頑張って私たち子供を一生懸命育てようとしていたのでしょう、どんなに痛くてもご飯を作ってくれていましたでもそれ以外はソファに横になってきりで、苦しそうにうずくまっていました。

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『24時間テレビ』を見ると、私は思い出すことがあります。今日は「24時間テレビか、夜中もやるんだね」といった私に母は「嬉しいね、眠れないから気晴らしになるよ」と返したのです。夜すら満足に眠れていなかったのに私はようやく気付いたのです。痛みもあるのですが、十分に眠れないから昼間もぐったりとしていたのでしょう、心がとても痛かったです。

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父の苦労と、祖父母の愛情

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姉という立場もあり「しっかりしなきゃ」といつも思っていました。うちはまさかの父もC型肝炎 (小さい時の集団注射で感染したと思われる) を患っていたので、父も毎日病院へ通い治療 (注射) をうけてかえってきて、家のことをして、子供の相手をして相当大変だったとおもいます。肝臓が悪いのでただでさえ疲れやすいのに弟は無邪気に遊んでいるときも、私は生意気ながらも心配で心配でたまりませんでした

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だからか、私は父親に対する反抗期は全くありませんでした。ときどき「無神経な (イラっ)」とすることはあれど、何も投げ出さず2人を育てあげ、母を守り抜いた父には尊敬の念でいっぱいなのです。大人になってからですが、父が保険を相当かけていたことを知った時は泣きました。「もし僕になにかあったら、母と子供2人はなんとかしてまもらなければ」そればっかり考えていたといいます。

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近くに祖父母がおり、たくさん可愛がってくれましたなので「つらい思い出ばかり」ではなく、そういった「あたたかい思い出」もたくさんあったりもするのです。

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父がかわりに海水浴などに連れて行ってくれたのですが、母は玄関で見送り、そのままいたさで意識を失い、夕方までそこで倒れていたと知ったのも大人になってからです。父と祖父母は「子供に心配かけないように」と必死で守ってくれていたんだな、と改めて愛情を感じました。

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いつか自殺してしまうんじゃないか、という恐怖

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なんで不幸って重なるんでしょうか、母は子宮筋腫を患い手術により子宮を摘出することになりました。ただでさえ痛いだろうに、全身麻酔でお腹を開くんですから、「ただ生きたい」という思いで必死に生きていたのだとおもいます。「大学だけは何がなんでも行かせる」という両親の教育方針もあり、大きくになるにつれ弟と私は塾だらけの生活を送っていましたでも田舎なので送り迎えが必要なのです。「手術後は運転を控えるように」といわれていたけど方法がなく母が運転してくれました。でもですね、あまりに(三叉神経痛)が痛かったのでしょう。途中で脇に車を止めたと思ったら、車通りの激しい大通りに向かって走り出したのです。

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もうやだ、死んでしまいたい」と走り出す母をすぐに追いかけて泣きながら止めました。それほど苦しかったのでしょう、私は「いつか母は死んでしまうんじゃないか」と思うようになり、包丁を持たせることすら怖くなりました朝起きたら母は自殺してしまっているんじゃないか、帰って死んでいたらそんなことばかり思っていました。でも私には「大丈夫だよ、絶対治るよ」と声をかけるだけしかできませんでした。

 

再び死の恐怖、乳がんらしきものが発見される

三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話

本当に神様はどこまでも残酷でした。乳がん検査にいった母に腫瘍が見つかったというのです。その日から母は落ち込み、私は理由も知らず弟と遊んだり喧嘩したりしていましたでもある日、祖母の家にとまった夜母は私にお母さん、乳がんかもしれないの。もしかしら、何かあるかもしれない」といったのです。

その日は眠れませんでした。だって「母がいなくなる可能性」を急速に意識せざるをえなくなったのです。わたしはまだ中学生です、これから何があるかもわかりません。でもいちばんの味方でいてくれる母を失ったら、どうなるのでしょうか。これが夢だったらどんなにいいか、「全部夢だった」という夢を何度もみました。幸い早期で簡単な手術で悪い部分だけピンポイントで取り出して、それから再発することも重症化することもなく、「子供のうちに母をなくす」をいう人生史上最大の不安は杞憂におわったのでした。

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ようやく希望がみえてきた

原因不明とされた痛みの、病名が判明

三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話

ある日いきなり長く真っ暗なトンネルに一筋の希望が見えました脳外科の先生との出会いにより、ようやく病名が「三叉神経痛」であることがわかったのです。いままで病名がわからぬために、

  • 歯医者の勧めで、全身麻酔で4本の親知らずを抜き (可もなく不可もなく)
  • 万能だという気功をうけ (実際まったくきかなかった)
  • 顔のテーピングに挑戦し (シミが残っただけだった)
  • オーガニック食品生活を送った (身体には良かっただろうが、痛みに効果はなし)

などなど、色々挑戦して「これでもダメか」と失望の連続だった家族にとってこれは大きな希望でした。そこから数年後、「神の手」とも呼ばれた福島孝徳先生にも手術をしていただき、完治はせずともいっきに回復へ向かいます病名」がわかるって本当に大切、そしてなにより「痛くても何でも生き抜いてきてよかった」と感じた瞬間でもあったとおもいます。

 

2度目の手術をうけ、完治へ

三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話

手術後数年間はまさに痛みから解放され、喜んだのもつかの間。今度は反対の脳でも同じことが起こってしまいました。しかしそのときには3D技術が発達していましたから、より鮮明に状態を把握することができ、これまた適切な手術を受けて、あの15年間はうそだったかのように母は痛みから解放され「普通の日常生活」を送れるようになったのです。

  • 母とショッピングにいくこと、
  • テレビをみてくだらない話しをすること、
  • 旅行に出かけること

普通の親子なら何度も経験しているようなこと、わたしが22歳を過ぎた頃にようやく実現したのです「できない」と思っていたことができたのですから、これ以上の奇跡はありません。脳外科の先生達には本当に感謝するばかり。3Dがない頃に症状を言い当てた福島先生にいたっては、感嘆と感謝の言葉しかなく、また壮絶な痛みのなか鬱にもならず、家族に当たり散らすこともなく、ネゲヤリにならず自死することもなく生き抜いた母は本当に強いなとおもいます。

 

適切な治療を受ければ、三叉神経痛は必ず治る

三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話

三叉神経痛ってレアではないかもしれないけど、なかなか聞かない病気だとおもうのです。というのも、母が入院した脳外科の病棟では同じような症状の方はいましたが、日常生活を送っていてこのような病気を患っている方を見たことがないのです。

しかも厄介なことに、「痛み」というのは目に見えないものです。どんなに苦しんでいてもはたからみれば「なんでもない」ように見える、でも本人とご家族の痛みはどれほどか、とおもうのです。でもですね、ちゃんと『病院の原因を究明して、適切な治療を受ければ治る』ということを私たち家族は経験しました。確実なものはなにもないかもしれないし、どれだけ長い道のりかもわからない、苦しい気持ちもとてもとてもよくわかります。ただ「完治」という鍵は必ず世界中のどこかに眠っているということを忘れないで、生き抜けば、いつか絶対に奇跡は起こると私たち家族は思うのです。

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あとがきにかえて

三叉神経痛(顔面の痛み)に15年苦しみ、乗り越えた母のお話

ちなみに現在母は、56を迎えて五十肩を患い苦しみながらも、「あの時よりマシだ、どうせ治るし」と楽しそうに毎日を過ごしております。毎日いろんなところに出向き、いろんな人とお茶を楽しんで、治ってからは「今年の家族旅行の予算は20万までね、台湾へいこう」「今年は沖縄へいこう」と家族の旅行ガイドをしながら、人生を楽しんでいます。

私の誕生月に「何か買ってあげる」と宝石店へいって、母が同月にもっと高価な宝石を買っていたことが発覚して、奮発してもらったり。人生って本当にわからない、ャグのようで、コントのような日々を過ごしていますあの日々は確かに辛かった、でも家族の絆をより強めてくれたし、「普通がどれだけ有難いか」を身をもって体験することができました。よく祖父母の家に預けられた私と弟ですが、「よくきたね」と笑顔で出迎え惜しみない愛情を注いでくれた祖父母との時間を思い出すと心がじわーっとあたたかくなるのです。「すべては生き抜いてこそ」悲しみも、普通も何気ない嬉しさもその先にあることを今は少しわかるような気がします。これらがいつか誰かの「道しるべ」や「希望」になることを願い、記事を閉じようと思います。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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