【切り落とされた頭の行方】英国ではじめて処刑された国王チャールズ1世

イギリスの歴史

先日イギリスでチャールズ3世が即位しましたが、「チャールズ」を名乗った初代国王が悲劇的な最後を迎えていたのはご存知でしょうか1,000年以上に及ぶイギリスの伝統と歴史の中で唯一処刑された王こそが、チャールズ1世です。

絵画にみえる凛々しい姿にはそぐわぬ残酷な最後を迎えた王でもありました。この記事では、なぜイングランド王は処刑されたのか、チャールズ1世にせまっていきたいとおもいいます。

この記事のポイント
  • ステュアート朝時代、国王として君臨したチャールズ1世
  • 絶対王政を推し進めるも議会と対立し、反逆罪として斬首刑に処せられた
  • 遺体は見せしめのようにさらされたが、頭と一緒に埋葬された
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チャールズ1世とは

チャールズ1世 (肖像画でみるイングランド王)

チャールズ1世は、ステュアート朝時代のイングランド王で、スコットランド、アイルランドも束ねていました。チャールズ1世は国王としても男性としても、勇気と威厳をもって死に立ち向かった人物だったといわれています。

当時のイングランドは、プロテスタントとカトリック同士が争い火花を散らしていました。プロテスタントを押し進める議会と、カトリックで絶対王政を強引に進めようとする彼の間には埋められない溝があったのです。最終的に国王は裁判にかけられ、処刑されるに至りました。イギリス王室で処刑された王は、後にも先にもチャールズ1世だけです。

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内戦の火種

1612年、王位継承順位1位の兄ヘンリーが亡くなり、チャールズ1世が世継ぎとなりました。チャールズには立派な資質がありましたが、反対に内気で自信がない面もあり、リーダーシップに欠かせないカリスマ性とビジョンには欠けていたといいます。

そういった不安があったからか、チャールズ1世は絶対王政をむりに推し進め、「権力の分散」を提案する議会への妥協を頑なに拒みました。しかし、これが内戦の火種となったのです。

チャールズ1世の支持者とオリバーら議員たちの7年間にも及ぶ戦いは、数千人の命を奪いましたチャールズ1世は反逆罪として有罪となり、1649年1月30日にホワイトハウスの宴会場の外で処刑されてしまいました。その後11年間は王が不在の時期が続き、内政は政敵であったオリバーが見ることとなりました。

頭の行方

死体はまるで見せしめのように、遺体は何日も世間の目に晒されました。

祝福された王の頭は、まるで生きているかのように完璧な微笑みを浮かべて身体とともに棺の中に横たわっていた

という証言も残っており、元英国王としては異例の扱いを受けたのです。数日後、国王の埋葬されるべき場所が議会により決定されるまで、遺体はセントジェームズ宮殿に置かれました。一時は国王の「頭の行方」に様々な憶測が飛び交っていたわけですが、摂政の指示により、チャールズ1世の棺は1813年に開けられ本人確認がなされました。

そこには身体と一緒に落とされた「頭」も置かれていたそうです。書面には「頭を身体に縫い付けるよう指示をした」とありましたが、縫い糸が腐ったか、縫い付けられていなかったために、「頭」は簡単に取り上げることができたそうです。

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まとめ

オリバークロムウェル (チャールズ1世との争い)

不安から絶対王政を推し進めるも、議会の反感を買い斬首刑に処せられた国王。チャールズ1世が処刑されてから、国王の不在は11年間続きました。王がいなくなると、政敵であったオリバークロムェルが内政の舵をとりました。この絵はオリバーがチャールズの棺を覗き「これは必要な残酷である」と呟いている場面を描いたものだといわれています。

一時期議会に圧倒されていたイギリスですが、処刑されたチャールズ1世の息子 (チャールズ2世) が王政復古を実現し、国王になるのはそれから11年後のことでした。時代のうねりに呑まれたチャールズ1世、彼は不運な最後を迎えた王として後世まで長く語り継がれることになったのでした。さて、先日即位したのは「チャールズ3世」、新たなチャールズ国王が築いていく歴史はどのようなものになるのでしょうか。

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