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【映画版 八日目の蝉】ラストに込められた意味とは

 
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち、英会話スクールの公式カウンセラーを併任。

 

少し前に話題になった八日目の蝉誘拐犯と誘拐された少女との逃亡劇、その後の二人の運命を描いた物語、角田光代原作のベストセラー小説を映画化したヒューマン・サスペンスです。

“誘拐犯”に育てられた主人公(井上真央)は、誘拐犯である育ての親と、本物の両親の間で葛藤しながら生きて行く。この作品の魅力は、心を閉ざした主人公が過去と向き合い、受け止め「愛することがどういうことか」という問いに、自分なりの答えを見つけていくところにあります。この記事では映画の魅力に触れながら「映画のラストに込められた意味と、その先」を読み解いていきます。

(Amazon prime 八日目の蝉視聴ページトップより引用 https://www.amazon.co.jp)

 

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あらすじとネタバレ

誘拐された少女恵理菜(井上真央)と、誘拐した犯人野々宮希和子(永作博美)

どしゃぶりの雨の中で起きる誘拐事件

希和子は不倫相手の子供を身ごもるが、本妻に許される訳もなく、堕ろし、子供を産めない身体になってしまう。彼女は衝動的に不倫相手の家に侵入し、寝ていた赤ちゃんを誘拐。希和子は赤ちゃんを「かおる」と名付け、まるで自分の子供のように愛し、育て、少しでも長く一緒にいたいと毎日祈りながら生活をする。一方かおるも、希和子を本物の母だと思い、周りの人にも愛され、すくすくと成長をしていく。4年間の逃亡生活の末、警察に保護された「かおる(本名:恵理菜)は、本物の両親の元にもどるが、幼い恵理菜にはなぜ「自分がここにいるのか」が理解できない。

封印してきた過去と向き合い、見えてくるもの

一方正妻にしても、普通の母親になりたかったのに、不倫相手の面影がちらつく娘に苛立ちを覚え、やり場のない気持ちを家族にぶつける。娘も両親を好きになろうと努力するが、そこに普通の生活はのぞめなかった大学にはいり、自分も家族のいるひとを好きになり、その人の子を身ごもる恵理菜。封印していた過去と向き合い、かつて希和子と暮らした小豆島へと向かった恵理菜が見つけたもの。それはこじれてしまっていたけれど、「愛することがどういうことか」という、いままで自分が失ったと思っていた気持ちだった。

 

最後に、主人公が見つけたものとは

恵理菜が保護されたあと、誘拐犯として刑務所にはいった希和子。本物の両親の元に戻ったけれど、とてもギクシャクした日々に混乱する恵理菜。大人になった恵理菜は、心を閉ざし、その怒りを野々宮希和子にぶつけ、「世界一悪い女が、私の人生をめちゃくちゃにしたんだ」と言い放つ。でも、子供時代を一緒に過ごした千草(小池栄子)と自分が希和子と過ごした場所を巡っていく途中で、過去の、愛された記憶を思い出して行く。恵理菜がたどり着いた答えは、”誰のことも、憎みたくなんかなかった“こと、お母さんのことも、お父さんのことも、希和子のことも。なんの因果かこうなってしまったけど、「本当はこの島に戻りたくて、誰のことも憎みなかった」のだと。

 

ラストからみえる、あたたかいその先の物語

善悪では、道徳では、はかれないけど、希和子をはじめ、小豆島で過ごした人たちを含め「自分を愛してくれた人たち」は存在した。それに気付いた恵理菜は、自分の子供に、思いっきり愛情を注いで育てていくことを決意する。それに対して千草は、優しい顔で、「生まれたら、お父さんとお母さんに見せにいこうよ、抱っこしてもらおうよ。うんと可愛がってもらおうよ」と言葉を返す。これからはまた家族が新しいステージに踏み出す。父親はいないけれど、恵理菜が子育てをしていく。過程はどうあれ、孫が生まれるのだ。幼い娘の大切な時期を育てられなかったお母さんも、きっと一緒に育てて行くんだろう。反対した両親の、誘拐された傷が癒えない両親の心の傷を救うのは、もしかしたら新しい命なのかもしれない。

 

あとがきにかえて

生みの親か、育ての親か、道徳の問題をいれると議論しきれない物語でしょう。誰が良い、悪いの話しではとても割り切れず、いろんな事情を持つ人がいて、どう折り合いをつけて生きていくか、どこまで受け止めるか、いろんなことを感じる映画です。

個人的には、カルト施設で一緒だった千草が、大人になった恵理菜に近づいた理由がすきです。普通の環境で育たなかったために男の人が怖く自分のなかに閉じこもってしまう自分も、外へ出ていきたいと。ひとりではむりだけど、二人ならできるんじゃないかな、という場面が好きです。絶望に落とすのがときにひとであるならば、それを救うのもまたひとなのだ、という解釈で終わりました。映画しかみていませんが、ラストは前述したとおり、あたたかいものであったとおもいます。劇場でご覧になった方は、もう一度みるとまた違う発見があるかも、しれません。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち、英会話スクールの公式カウンセラーを併任。

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