【零式艦上戦闘機】堀越二郎が生み出した零戦は当時どのくらい強かったのか

ブルボン王朝

風立ちぬにも登場した零戦。零戦の設計者である堀越二郎は、零戦の開発を振り返ってこんな言葉を残しています。「零戦は十種競技すべての種目で一位かそれと同等の記録を出し、いくつかの競技では他を圧倒する記録を出すように要求された」と。この記事では、当時の日本で最強の戦闘機といわれた零戦についてふれていきたいと思います。

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零戦とは

正式名称は、零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)。通称『零戦』と呼ばれるこの機は、第二次世界大戦期における日本海軍が有した最強の艦上戦闘機でありました。

確かに開発を命じた海軍の要求はシビアなものでした。最高速度時速500キロ、最大航続力6時間以上、当時の主力戦闘機だった九十六式艦上戦闘機に劣らない空戦性能を有すること。引き合いに出された九十六式環状線島浮きも堀越の設計で、すでに他国の戦闘機と比べても遜色がない性能を誇る名機でありました。それを越える飛行機を作れというのは、世界最強の戦闘機をつくることに他なりませんでした。

開発は困難の連続でありました。速度を高めるためなら機体を軽量化すればいいのですが、高い空戦性能を求めるならば兵装を充実させる必要があり、その分重量は増えることになります。矛盾する要素を同時に実現する必要がありました。

 

最強の戦闘機がうまれるまで

堀越率いる開発チームは奮闘し、エンジンの回転数に応じて最適な回転を行う「低速回転プロペラ」や「超々ジュラルミン」という新素材など、最新鋭の技術を結集。しかしまだ要求性能の実現にははるかに及ばなかったといいます。そこでたどり着いたのが、安全性すら犠牲にしたといわれる徹底的な軽量化でありました。

操縦席や燃料タンクの防弾設備を取り除き、機体の至るところに肉抜き穴を儲けたのです。試作品の図面をみた堀越は「あと75グラム軽くできる」とやり直しを命じたこともありました。そして19394月、零戦はテスト飛行を迎えます。エンジンの轟音を大空へと響かせ、颯爽と羽ばたいた零戦の姿に堀越はたった一言「美しい」と漏らしたそうです。すべての無駄を排除したその姿は、まさしく洗練の極みといえるものでした。

 

無敵と思われたその戦力

しかし素晴らしかったのはその姿だけではありません。

完成した零戦は最高速度533キロ、航続力約10時間 (巡航速度350キロ)と当初の要求を上回る性能を実現していたのです。防御面では脆弱でありましたが、熟練パイロットならば攻撃を受ける前に避けることができるほどの機動性は、それを補って余りあるものだったといいます。そして、戦場に投入された零戦は、敵国を震え上がらせることとなります。

19409月、初陣をかざった13機からなる零戦部隊は中国軍機27機と交戦し、全機を撃墜、味方の損失は皆無という驚異的な戦果を挙げました。零戦は41年まで中国戦線で活動し、その間に撃破、墜落した敵機は266 (不確実3)対して零戦の損失は、対空砲火で撃ち落とされた2機のみであったといいます。しかも投入されたのはたったの30機ということから、その無敵ぶりがうかがえるでしょう。

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施された、敵陣の零戦対策

太平洋戦争が勃発しても、零戦の最強神話は揺るぎませんでした。

持ち前の機動力でアメリカ軍の主力戦闘機グラマンF4ワイルドキャットなどとの格闘戦でも連戦連勝をおさめ、真珠湾攻撃と同日に行われたフィリピン攻略戦では、その破格の航続力で前代未聞の作戦を成功させます。この作戦は、南方資源地帯の制空権、制海権を確保するため、陸軍の航空隊と合同でフィリピンのアメリカ軍基地を空爆するというものでした。

零戦部隊がどこから出撃したかといえばなんと台湾。830キロを飛行し、アメリカ軍の航空戦力約160機のうち、約60機を撃破しました。攻撃を受けたアメリカ軍は日本軍の空母を探し、大規模な哨戒飛行を続けましたが、もちろん空母は影も形もなく、まさか台湾から飛んできたとは夢にも思わなかったのでした。連合軍は零戦の性能に戦慄し、「積乱雲に遭遇した時と、零戦に遭遇した時は対比して良い」という指示を受けていたアメリカ空軍の部隊もあったほどでした。

しかし、その栄光も長くは続きませんでした。

 

炙り出された零戦の弱点

「零戦には勝てない」、それを悟ったアメリカ軍は戦闘中に落下した零戦の部品はどんなに細かいものでも拾い集め、分析に奔走していました。アメリカ陣営に吉報が飛び込んできたのは19426月。不時着した零戦を無傷の状態で拿捕したのです。

この機体の徹底的な研究により、零戦は高速時の横転や急降下が苦手であることが判明。

この弱点を責めるための戦法が考案されていくことになるのですが、そのひとつが「サッチウィーブ戦法」と呼ばれるものでした。2機が1組となり、その片方の背後に零戦が追ってきた時にこの戦法ははじまります。零戦に狙われた機体は囮で、この状況でもう一方の機体がお取りの方向へ急旋回すると、零戦に正面から銃弾を浴びせることが可能となるのです。

実にシンプルな戦法ですが、急降下が苦手な零戦にとっては、非常に効果的でありました。さらにアメリカ軍はグラマンF6Fヘルキャットという祭祀陰気を大量に投入。これは分析した零戦のデータを元に改良した機体で、エンジンは零戦の倍の2000馬力もあったのです。敵の弾丸は”あたらない”ことを前提にした零戦は、先方と性能で対等以上に並ばれたとき、もはや為す術がなかったといいます。世界最強の機体は、アメリカの執念によって、ついに玉座から引きずり落とされたのでありました。

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あとがきにかえて

(19377月、十二試艦上戦闘機(のちの零式艦上戦闘機)設計チームの仲間。中央が堀越)

アメリカ軍が改良した最新機を投入したように、零戦の改良も行われていました

しかし、その成果はいまひとつ….たとえばF6Fヘルキャットとほぼ同時期に登場した改良機・零戦52型は、初期型よりも時速20キロほど最高時速を高めていたのですが、機動性が大幅に低下しパイロットからは不評をかいました。これは戦況が劣勢になり、開発のための物資が不足していたことが要因のひとつだといわれています。しかしそれ以上に、零戦が当時の開発環境で達成できる極限の性能を実現していて、もはや改良の余地がなかったことが大きかったといいます。

搭載された「誉エンジン」の馬力は2000馬力試作機のテストパイロットに「戦局の転換を期待し得べし」と語らせるほどの怪物だったのです。しかし、実戦配備の前に日本は敗戦を迎えることとなったのでした。零戦という不可能を可能にした堀越が最後に手がけた烈風はどんな性能を有したのか、確認できないだけにロマンをかきたてる話なのでありました。

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参考文献

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