【モーツァルトと毒殺説】音楽の天才はいかにして亡くなったのか

オーストリアの歴史

ハイドン、ベートーヴェンらとともに古典派とよばれるモーツァルト。「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」と言われるほど、私たちの生活に馴染み深い天才作曲家ですが、その最後には多くの謎が残されています。天才はなぜ亡くなったのか、この記事ではモーツァルトの最後について深掘りしていきたいと思います。

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生まれながらの天才

作曲作品はのべ700曲以上といわれ、代表作には三大オペラ (フィガロの結婚、ドン・ジョバンニ、魔笛)などの不朽の傑作を残したモーツァルト。彼は1756年オーストリアのザルツブルグで生まれました。

3歳の頃から既に才能を発揮しており、5歳のときにはすでに作曲に取り組んでいました。そんなモーツァルトは、音楽家であった父に連れられヨーロッパ中を演奏旅行し、一躍脚光を浴びることになります。やがて大司教宮廷音楽家となり81年にウィーンで独立を果たしました。

35歳での死去

しかしモーツァルトといえど、フリーでの音楽家としての生活は困窮を極めていました。

多くの仕事を精力的にこなしていたものの、収入は依然として不安定であり、多額の借金を背負うこととなります。さらに幼い息子も亡くし、これが原因で体調と神経を病んだモーツァルトは薬を服用していたそうです。

91年7月、「魔笛」を作曲中であったモーツァルトは、灰色の服を纏った不気味な男から、依頼主の名も明かされないまま「レクイエム」作曲の注文を受けることになります。その「レクイエム」に取り組んでいる最中、半ばまで作り上げたところで力尽き、12月5日、35歳でこの世を去ることとなりました。

死因はリューマチ熱?

モーツァルトの死因は、「リューマチ熱」であったとされており、これは皮肉にも、幼少期の度重なる旅行が原因だったといわれています。というのも、当時は道路の舗装が不完全であったため、馬車の振動が健康を脅かしたというのです。

実際にモーツァルトは旅行先で病に伏すことも多かったといいます。そしてこのとき罹患したリューマチに生涯悩まされることになり、これを持病としてしまったために、彼の体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまった、というのです。またこの時代は、体内の血液を排出させることで症状の改善を求める「瀉血 」も行われていました。これが病状を悪化させたのではないか、ともいわれています。

モーツァルトの毒殺説

また、病死以外に、「毒殺説」も囁かれています。というのも、モーツァルトは病床に伏す前に、妻コンスタンツェに、

私は毒を盛られた

と語っていた、というのです。

 

私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れた

その毒が体中を回っている。

体が膨れ、体全体が痛み苦しい

ともらしていたというモーツァルト。彼が亡くなった後、ウィーンの新聞は「モーツァルトは毒殺されたのではないか」と報じ、それは、「ライバルであったサリエリのせいではないか」、という噂まで立ち上りました。今は無関係であったとされておりますが、当時宮廷音楽家であったサリエリは、死ぬまでこの噂に悩まされることになるのでした。

真実はわからず

このほかにも、フリーメイソンによる毒殺説も囁かれました。

フリーメイソンのメンバーであったモーツァルトが、そのことを秘さなければならないのに、死の直前に「魔笛」で、そのことが分かってしまうような場面を描いたために、殺されたというものです。モーツァルトの死因について諸説あるのは、検死解剖が行われなかったためであり、直接の死因は実はわかっていないのでした。

遺体は共同墓地へ

遺体は、ウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の「共同墓穴」に埋葬されましたが、実際に埋葬された位置はわかっていません。誰も霊柩車に同乗することが許されなかったためです。しかし、生前モーツァルトの周りには裕福な友人や、後援者がいたにもかかわらず、モーツァルトはなぜ「貧困者用の共同墓地」に埋葬されることになったのでしょうか。

墓石もなく、無名のままで、共同墓穴へと葬られたのはなぜだったのか、その理由はわかっていません。ちなみに没後100年にあたる1891年、ベートーヴェンらの眠る中央墓地に、当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際も、位置がわからなくなってしまったのでした。

まとめ

幼い頃から作曲や演奏に才能を発揮し、生涯で600曲以上を作曲した天才モーツァルト。1781年からウィーンに定住し、87年には「宮廷作曲家」の称号を得て活躍するも35歳で急逝。

そんな天才の最後は切ないもので、死因から埋葬地までが謎に包まれ今も明かされていません。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に、墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓のパーツなどを拾い集めて、適当な場所に、適当に作ったものだとされています。世界を音楽で彩ったモーツァルト、その最後はあまりに悲しいものだったのでした。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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