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【近親婚と奇形】スペインハプスブルク カルロス2世の治世

2020/11/08
 
カルロス2世の肖像
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謎の女性。歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

中世のスペイン宮廷にうまれたカルロス2世。1661年11月6日にフェリペ4世とオーストリアのマリアナの息子として誕生しましたが、度重なる近親交配の影響を顕著にうけたために、』と宮廷中から恐れられまたスペインハプスブルク家を断絶の運命を背負った人物でもありました。この記事では現在残されている文献からカルロス2世の治世をみていきたいとおもいます。

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スペインハプスブルク家 最後の皇帝

スペイン王になるも、統治はできず

カルロス2世 (カルロス2世 幼少期の肖像画)

1665年にフィリップ4世が亡くなったとき、彼の息子のチャールズ2世はたった3歳でした。父の死後、カルロス2世はシチリアを含む、スペインのハプスブルク家のすべての所有物を継承したわけですが、幼くまた病弱で精神的な障害もみられたためマリアナが摂政をつとめましたその後の10年間は、母マリアナとチャールズの腹違いの兄であるファン・ホセとの権力闘争が続きました。

ファン・ホセ

1677年から1679年までは母マリアナの敵であるオーストリアのヨセフが、1685年まではメディナセリ公爵とオロペサ伯が統治しました。それは君主カルロスが大人になってもまともに歩くことすらできず、終始よだれをたらして教育を施すことが困難だったため、だといわれています。

 

夫の容姿、立ち振る舞いに怯える妻

Marie Louise

年頃になり18歳のカルロス2世は、オルレアン公の娘マリー・ルイーズと結婚しました。夫の容姿は妻がおびえるほどで、さらにカルロス2世は自分の結婚式に出席することすらできない状態だったため、代わりに、マリーのいとこであるルイアルマンド1世が代役を務めました。彼女は結婚式では、その美しさがもてはやされましたが、精神障害の夫との愛のない結婚生活のせいで憂鬱症に苦しみ病的なまでに肥満したそうです。

常軌を逸した夫に相当精神を消耗したのか、彼女はわずか26歳で急死元々嫁ぐ前に写真をみて状況をきき、覚悟を決め泣きながら嫁いできたプリンセス、「子供ができなかったせいで義母マリアナに毒殺された」と根拠のない噂までもが流れかなしい最後でありました。

Mariana de Neoburgo

2人目の王妃となったのは、プファルツ選帝侯フィリップの娘マリアナ・デ・ネオブルゴ彼女もまた夫の奇行や、恐ろしい容姿に怯えて泣き出したという逸話が残っています。まるで人身御供のように差し出されたふたりのプリンセス

チャールズ2世には妻のどちらとも子がなく、スペイン・オーストリア王朝の終焉につながる継承問題を引き起こした。多産の家系出身ということでカルロス2世の王妃に選ばれたのですが、2番目の王妃にも子供はできず、『スペイン王家の継承問題』は深刻化していったのでした。

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当時のスペイン情勢

『日の沈まぬ帝国』はどこへやら

フェリペ4世 (カルロス2世の父 フェリペ4世の肖像画)

フェリペ2世の頃に最盛期をもたらし『日の沈まぬ帝国』とよばれたスペインハプスブルク家でしたが、この頃はその面影はいっさいなく父フェリペ4世の治世からつづく悲惨な経済状況と政治・社会的危機にくわえて後継カルロス2世の無力さが重なりひどい状況となっていました。

スペイン、特にカスティーリャの危機的状況はますます深刻化し、デフレが続いて1680年には通貨が暴落、それに続くように経済活動が落ち込んでいきました

 el Conde de Oropesa r

『政府の立派な役人』は役立たずでしたが、オロペサ伯だけが『減税と公共支出の抑制』という確固たる政策を追求しました。アラゴンと地中海地域では復興運動が起こりました。 16世紀後半フェリペ2世のもとで全盛期を迎えたスペイン帝国は、イギリスとの戦争、オランダの独立などが続き、国家財政の破綻を招き17世紀に急速に衰退していたのです。

ルイ14世 (参考:【朕は国家なり】そびえる太陽王、絶対王政のフランスルイ14世)

また彼の治世中、フランスとの間に2つの戦争が起こっています。1684年にはフランスとの間で20年間の休戦協定が結ばれましたが、1690年にスペイン、イギリス、オランダ、帝国の間で同盟が締結されて休戦協定は破棄され、1697年まで続く第三次戦争に突入しました。ようやく1697年レイスウェイク条約が結ばれて戦争は終結『陳は国家なり』で知られたるルイ14世の外交政策の最初の深刻な敗北を喫して、スペインにカタルーニャを与えることを余儀なくされたのでした。

 

狂気に満ちた君主、カルロス2世の最後

カルロス2世

カルロス2世の晩年は、継承権の争いに特徴づけられます。『王位とその多大なる遺産』を奪おうとする闘争が激化したのです。後継者を迎える必要から、バイエルン公子ヨーゼフ・フェルディナント(母方の叔父の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同母姉マルガリータ・テレサの孫)が後継者に推薦されましたが、翌1699年に夭折

ヨーゼフ・フェルディナント

スペイン王位をアンジュー公フィリップ (母方のいとこ)に譲ると表明して、1700年カルロス2世は亡くなり、スペイン・ハプスブルク家は断絶しました。『生まれた時から死に頻していた』といわれたカルロス2世ですが享年38歳。宮廷の誰もが想像できなかった長き人生でありましたこれにてスペイン・ハプスブルク家に呪いをもたらした、『高貴な青い血』も途絶えることとなりました。

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カルロス2世の容姿と特徴

カルロス2世

『怖い絵』としても『ラス・メニーナス』に描かれたマルガリータ (姉) とあわせて取り上げられるカルロス2世カルロス2世は生涯を通じて体調が悪かったといわれています。これはおそらく、ハプスブルク家がよく知られていた近親交配のせいであり、彼は30代になるまでにはげ始めていたし、宮殿では老人に見えたという話も残っています。彼はまた幻覚を持っていました。宮廷は彼がこれ以上長く生きることはないだろうと思ってはいましたが、彼は38歳まで生き存えました。高貴な青い血がみせた最後のねばりだったのかもしれません。

 

近親婚の恐怖

カルロス2世

親族との結婚は、遺伝子が互いにどのように相互作用するかにより、子供たちに遺伝的問題を引き起こします。通常、一方の親が欠損している遺伝子を与えると、もう一方の親の対応する遺伝子がそれを跳ね除けるのです。しかし、近交系の子供たちは、両親から同じ遺伝子を受け継ぐことがよくあります。しかしカルロス2世の遺伝子の25%は重複でした。つまり、彼の遺伝子の4分の1は両方の親から同じものが受け継がれていたのです。これは劣性遺伝子が顕著にあらわれた例だとして、医学的にも色々な調査がなされました。

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あとがきにかえて

カルロス2世の肖像 (カルロス2世の肖像画)

スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世先天的に虚弱かつ心身に異常が見られ、後継者を望める状態にはありませんでした。したがって、スペイン王家の断絶は、カルロス2世の生存中から確実視されていました。それを察していち早く根回しを進めていたのがフランス。

スペイン国王 (フェリペ6世)

2月 フランスのルイ14世は、パリ高等法院に『スペイン王位継承権執行』を命令しました。以後、スペインは『スペイン・ブルボン朝』が統治をすることとなり、かくして現在のフェリペ6世まで続くスペイン王家が誕生したのでした。

5代目だったカルロスがこのような運命を背負うことになったのは前王たちが「なんとかして我々の血を守らなくては」と奮闘した結果でありました。それが結果として多くの血族結婚を生み出し、濃すぎる血の影響をいってに引き受けたのがカルロス2世でした。

カルロス2世

もはや子供が作れない状態まで近親婚の影響がでていたにもかかわらず地位を保持するために彼をなんとかして生き長らえさせたスペイン宮廷。「とにかく長く生きてさえくれれば」と、教育を施すことすらサジを投げたといいます。カルロス2世については多くの文献が作成されており、医学的に分析されたものも多く出版されています。そちらについては (【スペインハプスブルク家の黒い歴史】カルロス2世の解剖所見) にまとめておりますので、興味がありましたら歴史に学ぶためにもどうか参考になさってください。

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