【マリーアントワネットの子供たちはどうなったのか】恐怖の監禁生活とその後

ブルボン王朝

フランス革命ではマリー・アントワネットの子供達も残酷な目にあい、息子は処刑よりも悲しい最期を迎え、生き残ったのは長女マリー・テレーズだけでした。そんな彼女も幽閉から2年後に解放された時には、失語症のようになっていたといいます。この記事ではマリー・アントワネットの子供達はどうなったのか、おっていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • 革命勃発時、アントワネットの元にはふたりの子供がいた
  • 国王夫妻とともに子供達も幽閉され、ルイ17世は虐待の末むごい死を迎えた
  • 長女マリー・テレーズは牢獄生活を耐え抜き、72歳まで人生を全うした
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アントワネットの子供達

(マリーアントワネットと子供達 1787年)

こちらの肖像画は、子供たちに囲まれたマリー・アントワネットです。左が長女マリー・テレーズ右が長男ルイ・ジョセフ、彼女の膝の上にいるのはまだ幼い次男ルイ・シャルルです。母を慕う純粋無垢な子供たちと、すっかり母になったアントワネットの姿をみることができます。

夫妻は4人の子供に恵まれますが、次女ソフィーは産まれて10ヶ月で、長男ルイ・ジョセフは結核にかかり7歳で亡くなり、可愛い王女と、賢明で将来を期待された王子の悲しい死でした。アントワネットの元では、長女と次男のふたりが育つことになります。

パリでの幽閉

しかし王子が亡くなった翌月1789年7月に、フランス革命の火種となるバスティーユの襲撃が起きたので悲しみに暮れる時間はほとんどなかったといいます。

1789年7月、王政に対する民衆の不満が爆発しフランス革命が勃発。ヴェルサイユ宮殿へも暴徒が押し寄せました。子供を含む王族一家はパリへ幽閉されてしまいました。浪費グセで国民を苦しめたとして、マリー・アントワネットには市民から怒りの声が、容赦無くぶつけられそのなかには根も葉もない噂も混ざっていたといいます。

国王一家の逮捕

 (Marie_Antoinette)

1791年6月20日、国王一家はパリ脱出を試みますが、22日にヴァレンヌで逮捕されてしまいます。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻されてしまいました。このヴァレンヌ事件 (脱走事件)により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまいました。1792年、フランス革命戦争が勃発すると、

マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしている

と噂が立ちました。おさえはきかず8月10日パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃します。マリー・アントワネットとルイ16世、そして子供たちはタンプル塔に幽閉されました。

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幽閉生活

一家のタンプル塔での生活がはじまったわけですが、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、つかの間の家族団らんの時間がありました10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど、待遇は決して悪くなかったそうです。

しかし最初の生活はそこまで悪くはなかったものですが、王家への信頼が戻ることも、状況がよくなることもありませんでした。そして1793年1月、夫のルイ16世への死刑判決が下ったのです。そして間も無く、マリー・アントワネットへも裁判により、死刑宣告がくだります。

次男のルイ17世

長男ルイ・ジョセフは結核ですでに亡くなっており、王位継承権一位となっていたのは、次男ルイ・シャルル、ルイ17世とも呼ばれた男の子でした。パリへ移動の際は馬車の窓から顔を出し、

ママを許してあげて!

と群集に向け叫び続けたという、優しい一面をもっていました

新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い、両親を安心させた愛くるしい男の子だったのです。しかし彼は、父ルイ16世の死刑が決まるなり、家族と引き離されタンプル塔の階下に移されました。

獄中にて

(ルイ17世)

ルイ・シャルルは、後継人となったジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派からひどい虐待を受けることとなりました。カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、ひどい言葉を教えむりやり言わせたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅され衰弱していくことになります。

ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去っていました。そして聞くに耐えないほどの仕打ちをうけ、最期を迎えることになるのでした。

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生き残った長女

残された長女マリー・テレーズは、2年近く1人で幽閉生活を送りました。

国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答えるようにし、国民公会面会者からの質問には全く答えませんでした。また病気になった弟の健康状態をいつも気にかけ、「治療を施すように」と何度も国民公会に手紙を送っていたといいます。

マリーの部屋からは、下の階に幽閉されていたルイ・シャルルの泣き声がよく聞こえたのです。姉としては、弟がひどい目にあっているのを聴き続ける毎日は、どれだけ辛かったのでしょうか。いまや父母を失った彼女にとって、弟は唯一の家族でありました。

沈黙を貫き生き延びて

 (神殿の孤児とされたマリー・テレーズ)

マリーの唯一の慰めは叔母エリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であったといいます。逮捕された一家の中で、唯一生き残ったマリー・テレーズ

どんどん肉親が殺されていき、、叔母エリザベスもギロチンに処されます。世界から切り離された孤独な幽閉をおくるマリー・テレーズは、その後も寂しく辛い日々を過ごしました警備員から身を守るため、彼女はもはや彼らに話をしなかったといいます。

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人質交換

家族の運命について殆ど知らないまま、17歳の誕生日直前まで獄中で過ごすこととなったマリー・テレーズ。その後は人質交換で、母親の故郷であるオーストリアに送られました。

釈放された後もマリー・テレーズは、失語症のような状態に陥っていたと思います。愛する父母、そして弟を失い、2年間で想像しがたいほどのストレスを受けたのでしょう。しかしハプスブルク家と、ブルボン王朝両方の血を受いだ彼女は、それを誇りに思い、立派な女性へ成長していくのでした。

マリー・テレーズの最後

 (マリー・テレーズ)

1799年マリーは 叔父にせがまれ、その跡継ぎであるいとこのルイ・ドュク・ダングレムと結婚します。2人はイギリスに亡命して数年間過ごした後、1814年ナポレオンの退位によりルイ18世が王となり、マリー・ルイーズはフランスに帰ってきたのでした。

『復讐のためフランスに戻った王女』と呼ばれ、殺害予告文をもらったこともありましたが、彼女を慕い訪問する人々は絶えませんでした。王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫きましたマリー・テレーズ享年72歳、死因は肺炎だったといいます。

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まとめ

革命勃発時、アントワネットの元には長女マリー・テレーズと次男ルイ・シャルルのふたりの子供がいました。しかし国王夫妻とともに子供達も幽閉され、ルイ17世は虐待の末むごい死を迎えることとなります。家族が一人ずつ居なくなる中、長女マリー・テレーズは牢獄生活を耐え抜き、72歳まで人生を全うすることとなったのでした。

政敵の存在を知りながらも、王妃として舞い戻ったマリー。彼女が国民に慕われた理由は、心のどこかに痛みや恨みはあれど、誰よりも貧困や飢えに泣く市民の苦しみや怒り、苦労を誰より知っていたからかもしれません。

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