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【恐怖の監禁生活 | マリー・アントワネット】の子供はどうなったのか

2020/03/22
 
マリー・アントワネットの子供はどうなったのか
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

フランス革命ではマリー・アントワネットの子供たちも残酷な目にあい、息子は処刑よりもかなしい最期を迎え、生きのこったのは長女マリー・テレーズだけでした。そんな彼女も幽閉から2年後に解放された時には、失語症のようになっていたといいます。この記事では、マリー・アントワネットの子供たちはどうなったのか、をおっていきたいとおもいます。

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マリー・アントワネットの別の顔

マリー・アントワネットの子供はどうなったのか (マリー・アントワネットの結婚式とされる絵画)

マリー・アントワネットオーストリアの名門ハプスブルク家の出身オーストリアとフランスの和解の印として嫁ぐことになったマリーは当時14歳。夫となるルイ16世もまだ15歳、2人が結婚したのは1770年のことでした。(結婚云々の経緯はこちら:【逝くならフランス王妃のままで】マリーアントワネットの最期の覚悟)

 

なかなか子供ができず、苦しんだ日々

マリー・アントワネットの子供はどうなったのか (17歳 1773年のマリー・アントワネット)

マリー・アントワネットは、自分にとって求められるのは「世継ぎとなる男児を産むこと」だとわかっていました。しかし7年の間子供はできず彼女が宝石や遊びに走ったのはこういったストレスのせいだともいわれています。王室の法廷はゴシップ好きで悪名高く、陰謀に満ちたベルサイユ宮殿以上のものはなかったのです。

実際はどうだったかというと子供ができないのはルイ16世の肉体的な問題のためでした。手術を受ければすぐに治ったのですが、彼の心の準備ができたのは7年後。手術をしてようやくマリー・アントワネットは自分の子供をその手に抱くことができました

 

母となったマリー・アントワネット

マリー・アントワネットの子供 ルイジョセフ (ルイ・ジョゼフ王子の肖像 ヴィジェ=ルブラン画)

この愛くるしさ、1781年マリーは念願の男児、ルイ・ジョセフを出産しました。

待ち焦がれたかのようにマリー・アントワネットは子供を溺愛しますが、厳格な王室の儀礼のために自身で世話をすることができないときもありました。しかし様子をみて彼女は子どもたちと一緒に、ルイが与えたベルサイユの小さな城、プチ・トリアノン宮殿へ移り住みました

マリーアントワネットが子供と暮らしたプチトリアノン宮殿

 

浪費グセ、遊びグセは若かりし頃のこと

マリーアントワネットが子供と暮らしたプチトリアノン宮殿

一般的に浪費グセで名を馳せたマリー・アントワネットですが、派手な服も子供ができるまでのこと歳を重ねるにつれ慎み深い服を着るようになっていっていました。

マリー・アントワネットの子供はどうなったのか

マリー・アントワネットは、ゴシップが大好きな廷臣たちの目、またフランス市民から王家が人気を失っているという現実の両方から逃げるかのように牧歌的な (だけどわりと高価な) 第2の人生を満喫したのです。

 

取り戻せない、過去のゴシップと信頼

【逝くならフランス王妃として】マリー・アントワネットの悲喜劇的な生涯 (ルイ・オーギュス) (フランスにて手厚い歓迎をうけるマリー・アントワネット)

マリー・アントワネットがフランスに到着した時彼女は『フランス・オーストリアの平和の象徴』として暖かく迎え入れられ、人気のある王女だったのですが、若い時のゴシップは尾ひれを生み、

マリーアントワネットが子供と暮らしたプチトリアノン宮殿(20歳のアントワネット この時の悪いイメージがフランスには定着)

マリーの浪費グセと気まぐれ、わがままはフランス経済の破滅をもたらす、という格好のネタになっていたのです。ある意味不満のはけ口といいますか、なんとも歯がゆい民衆の不満が王妃に向いたかたちですね。

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マリー・アントワネットの愛くるしい子供たち

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

マリー・アントワネットとルイ16世の間には、愛くるしい子供が4人産まれました

 

マリー・アントワネットと子供たちの肖像画

マリー・アントワネットの子供はどうなったのか(Vigée-Lebrun画 1787年)

子供たちに囲まれたマリー・アントワネット左が長女マリー・テレーズ右が長男ルイ・ジョセフ、彼女の膝の上にいるのはまだ幼い次男ルイ・シャルルです。母を慕う純粋無垢な子供たちと、すっかり母になったアントワネットの姿をみることができます。

マリー・アントワネットの子供はどうなったのか

次女ソフィーは産まれて10ヶ月で、長男ルイ・ジョセフは結核にかかり7歳で亡くなりました。可愛い王女と、賢明で将来を期待された王子の死しかし王子が亡くなった翌月1789年7月に、フランス革命の火種となるバスティーユの襲撃が起きたので悲しみに暮れる時間はほとんどなかったといいます。

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フランス革命、幽閉された国王一家

マリー・アントワネットの子供はどうなったのか

1789年7月14日、王政に対する民衆の不満が爆発しフランス革命が勃発。ヴェルサイユ宮殿へも暴徒が押し寄せました。子供を含む王族一家はパリへ幽閉されてしまいました。浪費グセで国民を苦しめたとして、マリー・アントワネットには市民から怒りの声が、容赦無くぶつけられました。そのなかには根も葉もない噂も混ざっていたといいます。(参考記事:【陥れられた王妃】マリー・アントワネットの首飾り事件)

 

脱出を企てるも、失敗 (ヴァレンヌ事件)

ヴァレンヌ事件

1791年6月20日、国王一家はパリを脱出しますが、22日にヴァレンヌで逮捕されてしまいます。結果的にこれは国王の権威を底まで失墜させ、国王処刑の原因にもなったいわれています。よにいう『ヴァレンヌ事件』です。しかし内容をみてみると「そりゃ捕まるわ」というツッコミどころも多く

 

王妃のわがままと、甘すぎる脱出計画

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

手を貸したフェルセンは疑惑をそらすために、国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたのですが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局そのベルリン馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれたそうです。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

過多な荷物はただでさえ足の遅い馬車をさらに遅らせることとなり、逃亡計画を大いに狂わせたのでした。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻されてしまいました。

 

逮捕された王家と、一族の終わり

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

このヴァレンヌ事件 (脱走事件) により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまいました。1792年、フランス革命戦争が勃発すると、『マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしている』と噂が立ちました。おさえはきかず、8月10日パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃します。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

マリー・アントワネットとルイ16世、そして子供たちはタンプル塔に幽閉されました。

 

タンプル塔への幽閉、暮らしぶりは悪くなかったが…

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

一家のタンプル塔での生活がはじまったわけですが、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団らんの時間がありました10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど、待遇は決して悪くなかったそうです。

しかし最初の生活はそこまで悪くはなかったものですが…. 王家への信頼が戻ることも、状況がよくなることもなく、1793年1月、夫のルイ16世への死刑判決が下りました。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

そして間も無く、マリー・アントワネットへも裁判により、死刑宣告がくだります

処刑台へとむかうマリー・アントワネット (処刑台へ向かうマリー・アントワネット)

1793年10月16日午前11時、牢から出されたマリー・アントワネットは処刑台へとむかいました。乗せられたのは、「動物用の荷車」。ゆっくり市中を引き回され沿道からは、怒りにとらわれた市民からの罵倒が飛び交ったといいます。(詳細はこちら:【逝くならフランス王妃のままで】マリーアントワネットの最期の覚悟)

 

愛くるしいこどもたちは、どうなったのか

次男のルイ・シャルルは、恐怖の監禁生活へ

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

長男ルイ・ジョセフは結核ですでに亡くなっていたため、王位継承権一位となっていた次男ルイ・シャルル。パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けたという、優しい一面をもっていました

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

あたらしい住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い、両親を安心させた愛くるしい男の子だったのです。しかし彼は、父ルイ16世の死刑が決まるなり、家族と引き離されタンプル塔の階下に移されました。

 

虐待により、牢獄のなかでむごい最期を

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

ルイ・ジョセフ(ルイ17世とも呼ばれる)は、後継人となったジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派からひどい虐待を受けました。カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、ひどい言葉を教えむりやり言わせたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であったとか…

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去っていました。そしてあり得ないほどの仕打ちをうけ、病気をもらい、最期を迎えることになるのでした。 (悲しすぎてここには書けないので気になる方はWikipediaかなにかで検索を.. )

 

唯一生き残った長女マリー・テレーズ

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

父母と叔母エリザベートは革命政府によりギロチンで処刑され、弟ルイ・シャルルとも引き離されたマリー・テレーズまだ幼い彼女は2年近く1人で幽閉生活を送りました。

マリー・テレーズは国民公会による尋問には必要最低限の言葉で答えるようにし、国民公会面会者からの質問には全く答えませんでした。また病気になった弟の健康状態を常に気にかけ、「治療を施すように」と何度も国民公会に手紙を送ったといいます。

 

弟の病気を、どうか治してください

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

マリー・テレーズの部屋からは、下の階に幽閉されていたルイ・シャルルの泣き声がよく聞こえたのです。姉としては、弟がひどい目にあっているのを聴き続ける毎日は、どれだけ辛かったかいまや父母を失った彼女にとって、弟は唯一の家族.. それに兄弟は自分の分身のようなものですから。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

マリーの唯一の慰めは叔母エリザベート王女が残した毛糸で編み物をすることと、カトリックの祈祷書と信仰であったといいます。

 

お母さまはどうなさっているのでしょうか

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

フランス革命下で、唯一王族として生き残ったマリー・テレーズ。どんどん肉親が殺されていき、、叔母エリザベス夫人もギロチンに処されます。世界から切り離された孤独な幽閉をおくるマリー・テレーズは、その後も寂しく辛い日々も過ごしました。警備員から身を守るため、彼女はもはや彼らに話をしなかったといいます 。こちらは彼女が15歳のとき、幽閉された部屋の壁に書いた言葉です。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件マリー・テレーズはもっとも不幸な人です。彼女は母親に会うことはおろか、近況さえ知ることができません。何千回もお願いしたというのに愛するお母さま、どうか長生きしてください。お父さま、空から見守っていてください。神よ、両親を殺した人たちをお許しください

 

唯一の生存者、マリー・テレーズはオーストリアへ帰国

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

マリー・テレーズは家族の運命についてほとんど知らぬままに、17歳の誕生日直前まで獄中にいました。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件 (知らずに進められていた母マリー・アントワネットの裁判)

そして恐怖の牢獄生活がおわり、母親の故郷であるオーストリアに送られたマリー釈放されたあとマリー・ルイーズは、失語症のような状態に陥っていたと思います。愛する父母、そして弟を失い、2年間で想像しがたいほどのストレスを受けたのでしょう。しかしハプスブルク家と、ブルボン王朝両方の血を受けつぐという、とてつもない出自の彼女は、それを誇りに思い、立派な女性へ成長していくのでした。

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あとがきにかえて

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

マリー・テレーズは、死の間際の父から「憎しみを捨てるように」と諭されましたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のように彼女についてまわったといいます。

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件  アルトワ伯シャルル(後のフランス王シャルル10世)

1799年マリーは (叔父にせがまれ、その跡継ぎであるいとこの)ルイ・ドュク・ダングレムと結婚します。2人はイギリスに亡命して数年間過ごした後、1814年ナポレオンの退位によりルイ18世が王となり、マリー・ルイーズはフランスに帰ってきたのでした。

復讐のためフランスに戻った王女』と呼ばれたことも、殺害予告文をもらったこともありました。なんと波乱万丈な人生、しかし慈悲深い一面も持ち合わせ、彼女を慕い訪問する人々は絶えませんでした

マリー・アントワネットとヴァレンヌ事件

王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫きましたマリー・テレーズ享年72歳、死因は肺炎だったといいます。政敵の存在を知りながらも、王妃として舞い戻ったマリー。彼女が国民に慕われた理由は、心のどこかに痛みや恨みはあれど、誰よりも貧困や飢えに泣く市民の苦しみや怒り、苦労を誰より知っていたからかもしれませんね。(マリー・アントワネットの視点の記事はこちら【逝くならフランス王妃のままで】マリーアントワネットの最期の覚悟です)

フランスの歴史シリーズはこちら

この記事を書くために参考とした記事

  • https://www.biography.com/news/marie-antoinette-children-louis-charles-marie-therese
  • https://fr.wikipedia.org/wiki/Marie-Th%C3%A9r%C3%A8se_de_France_(1778-1851)
  • https://fr.wikipedia.org/wiki/Marie-Antoinette_d%27Autriche
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Flight_to_Varennes

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この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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