Wise man learns from History.

【ルイ17世の悲しく酷い最後】マリーアントワネットの幼き息子

2020/09/12
 
ルイ・シャルル (ルイ17世)
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

マリー・アントワネットの息子ルイ・シャルルは、ルイ16世の処刑後3年間『フランス王ルイ17世』として王党派により担ぎ上げられた悲劇の王子としても知られています。この記事では、王党派の支持を受けたばかりに惨い扱いを受けたルイ17世の生涯をご紹介します。

スポンサーリンク

マリー・アントワネットの子供 ルイ・シャルル

ルイ17世は1785年3月、フランスのヴェルサイユ宮殿で生まれました物心つくころにはフランス革命が勃発し、贅沢な生活から一転して命を狙われる立場になります。亡命が失敗すると一家は革命派によって逮捕され、ひとりまたひとりと処刑されていきました。ランス王ルイ16世の処刑後、王党派は息子ルイ・シャルルを正当な王位継承者として認めました。これにより『ルイ17世』が誕生、しかしそれは名ばかりで在位もたったの3年と短いものでした。

 

ルイ17世の生い立ち

ルイ17世 (ルイ・シャルル)

ルイ=シャルル・ド・フランスは1785年3月27日にフランスのヴェルサイユ宮殿で、ルイ16世とその妃マリー・アントワネットとの間に生まれた第3子です。うまれたときは兄で王太子のルイ・ジョセフがおり、ルイ・シャルルは誕生時にノルマンディー公と名付けられました。しかし兄は結核にかかり7歳で死去、1789年6月にルイ・シャルルがフランス王位継承者となります。

テュイルリー宮殿

フランス革命の機運が高まる中、王家は1789年10月6日にヴェルサイユからの脱出を余儀なくされました。一家はパリのテュルイリー宮殿に移り住み、そこで2年間暮らしました。1792年8月10日、暴徒がテュイルリーを襲撃し、国王夫妻と姉マリーそしてルイ=シャルルを捕らえました

 

国王のギロチン処刑と、ルイ17世の誕生

マリーアントワネットの子供達

1791年6月21日一家は命からがらパリからの脱出を試みるも失敗、パリに連れ戻されてしまいます。彼らは市の境界内にある中世の要塞タンプル塔に投獄されました。王は裁判にかけられ、有罪判決を受けて1793年1月21日にギロチンで処刑されました。このときから、王党派はルイ・シャルルをフランス王『ルイ17世』と呼ぶようになりました

姉マリー・テレーズと引き離され、暗い独房に閉じ込められたルイ17世。この頃から王子は、靴屋のシモンその妻の管理下 (つまるところ保護者) に置かれることとなります。閉じ込められ他理由は、共和主義の思想を植え付け、王室を忘れて普通の市民とするためでした。

 

ルイ17世に関する、いかがわしい噂の真相

ルイ・シャルル (ルイ17世)

ウィキペディアをはじめ幽閉中のルイ17世に対するうわさには、性的、または身体的な虐待が含まれています。しかしこれらのうわさは一度も立証されておらず、シモン家を訪れた人々が提供した事例証拠とも矛盾しています。

そして家族による虐待の詳細を記した宣誓供述書を提出したルイ17世ですが、王党派が革命家たちを『虐待』で告発してきた仕返しに、無理やり同じような罪で家族を非難するよう促されたと推測されています。元々ルイ17世は明るい性格で危険が迫っても母を気遣う優しい子でしたが、投獄の最後は心身ともに憔悴しきっていたようです。「あのろくでもないあばずれどもはまだギロチンにかけられていないのか」などと暴言をはき、投獄した大人たちを喜ばせようとしたというエピソードも残っています。

スポンサーリンク

「失われた王太子」ルイ17世の死と逸話

ルイ16世と息子 (ルイ・シャルル)

1794年1月、ルイは独房に入れられ人との関わりも殆どなく、十分な食事も与えられていませんでした。翌年には公安委員会により『保護者』が続々と任命されましたが、ルイ17世は病気にかかったまま放置され長いあいだ口をきくこともありませんでした。1795年6月8日公開されたルイ・シャルルの死因は結核だったとされています。身元が確認されず、ルイ17世逃亡の噂は何十年にもわたって広まりました

ルイ17世の心臓

歴史家でジャーナリストのフィリップ・デロルメは、1795年に提示された遺体から保存された心臓のDNA鑑定を手配しその心臓がルイ=シャルルのものであることが証明されました。そして2004年には、ルイ14世とマリー・アントワネットの遺体の隣に埋葬されました。時代の変わり目には血が流れるものなのでしょうか、革命派に逆らう術もなく罪なき少年は「王の子供」というだけで悲しい最後を迎えることになったのでした。この後ナポレオンの台頭でフランスは「君主世」から距離をとるのですが、そのあと王政が復活することをこのときはまだ誰も知らなかったのでした。

この記事を読んだ人へおすすめの記事

参考記事

  • https://www.biography.com/royalty/louis-xvii
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_XVII

スポンサーリンク

 

 

この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です