【トラウマめくルイ17世の運命】つらい最後を迎えたアントワネットの子供たち

ルイ17世 ブルボン王朝
この記事のポイント
  • ルイ16世の死後、王党派に担ぎ上げられた王太子ルイ・シャルル
  • 王族の血統を憎んだ革命派により、獄中でひどい虐待を受けた
  • 不衛生な独房に閉じ込められ、わずか10歳で肺炎により亡くなった

マリー・アントワネットの愛息子ルイ・シャルル。彼はルイ16世の処刑後3年間、『フランス国王ルイ17世』として王党派により担ぎ上げられた悲劇の王太子としても知られています。

この記事では、王党派の支持を受けたばかりに、むごい扱いをうけ命を奪われたルイ17世の生涯について、紐解いていきます。

ルイ・シャルル

ルイ17世の肖像画 (ルイ・シャルル 引用元:wikipedia)

ルイ・シャルルはアントワネットの次男として、1785年3月、フランスのヴェルサイユ宮殿で生まれました。

物心つくころにはフランス革命が勃発し、贅沢な生活から一転して命を狙われる立場になります。亡命が失敗すると一家は革命派によって逮捕され、ひとりまたひとりと処刑されていきました。

フランス王ルイ16世の処刑後、王党派は息子のルイ・シャルルを正当な王位継承者として認めました。これにより『ルイ17世』が誕生するのですが、しかしそれは名ばかりで在位もたったの3年と短いものでした。

捕らえられた一家

フランス革命の機運が高まる中、王家は1789年10月にヴェルサイユからの脱出を余儀なくされました。一家はパリのテュルイリー宮殿に移り住み、そこで2年間暮らすことになります。

しかし1792年8月、暴徒がテュイルリーを襲撃し、国王夫妻と姉マリー・テレーズ、ルイ・シャルルは捕らえられてしまいます。1791年6月一家は命からがらパリからの脱出を試みるも失敗、パリに連れ戻されてしまったのでした。

彼らは市の境界内にある中世の要塞タンプル塔に投獄されました。父ルイ16世は裁判にかけられ、有罪判決を受けて1793年1月にギロチンにかけられました。

この時から、王党派はルイ・シャルルをフランス王『ルイ17世』と呼ぶようになりました。

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強いられた監獄生活

姉マリー・テレーズと引き離され、暗い独房に閉じ込められたルイ17世。

この頃から王太子は、靴屋のシモンとその妻の管理下 (つまるところ保護者) に置かれることとなります。閉じ込められた、理由は、

共和主義の思想を植え付け、王室を忘れて普通の市民とするため

と半ば、こじつけでありました。

ウィキペディアをはじめ幽閉中のルイ17世に対する噂には、想像を絶するほどの仕打ちが記されており、それには性的、または身体的な虐待が含まれています。しかしこれらの噂は立証されておらず、シモン家を訪れた人々が提供した事例証拠とも矛盾しています。

そして家族による虐待の詳細を記した「宣誓供述書」を提出したルイ17世ですが、これは無理やり書かされたものではないか、と推測されています。

不衛生な独房

独房に閉じ込められたルイ17世 (タンプル塔に閉じ込められたルイ17世 引用元:wikipedia)

大好きな姉マリー・ルイーズとも引き離され、不衛生な独房でひとり閉じ込められた王太子。見張り役の者からは耳を塞ぎたくなるようなひどい言葉を浴びせられていたといいます。

元々ルイは明るい性格で危険が迫っても母を気遣う優しい子でしたが、投獄の最後は心身ともに憔悴しきっていたようです。

「あのろくでもないアバズレどもはまだギロチンにかけられていないのか」などと暴言をはき、投獄した大人たちを喜ばせようとしたというエピソードも残っています。

ルイ17世の死因

1794年1月、ルイ17世は独房に入れられ人との関わりも殆どなく、十分な食事も与えられていませんでした。

翌年には公安委員会により『保護者』が続々と任命されましたが、ルイ17世は病気にかかったまま放置され長いあいだ口をきくこともありませんでした。

病気を持った娼婦に無理やり性病をうつされたといった恐ろしい逸話も聞かれますが、1795年6月8日、公開されたルイ・シャルルの死因は結核だったとされています。身元が確認されず、ルイ17世逃亡の噂は何十年にもわたって広まったのでした。

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まとめ

ルイ・シャルル (ルイ17世)

王党派としてかつぎあげられ、獄中でむごい扱いを受け亡くなったルイ17世。

獄中で亡くなったのは偽物だとして生存説が囁かれていましたが、1795年に提示された遺体を元にDNA鑑定が手配され、その心臓はたしかにルイ=シャルルのものであることが証明されました。

そして2004年には、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺体の隣に埋葬されています。

時代の変わり目には血が流れるものなのでしょうか、革命派に逆らう術もなく、罪なき少年は「王の子供」というだけで悲しい最後を迎えることになったのでした。

この後ナポレオンの台頭でフランスは「君主世」から距離をとるのですが、そのあと王政が復活することをこのときはまだ誰も知らなかったのでした。

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