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【世界一わかりやすいクレオパトラとアントニウス】恋多き美女の生涯

2021/07/01
 
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歴史の中の人物像を徹底的に知りたがる世界史オタク。絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

エジプトを収めたプトレマイオス朝最後の君主、その短い生涯よりもはるかに長く語り継がれている伝説的なフェニミ二スト。世界三代美女として知られているクレオパトラですが、実は本人の肖像と断定できるものはあまり残されていないのです。

彼女が優れた手腕でエジプトの民を導いたことは間違いないのですが、たとえ、その外交力が祖国に究極の不幸をもたらした大失敗のようにみえるとしてもー。この記事では、エジプトが自治を失い、クレオパトラが最期のファラオと呼ばれ、エジプトが自治を失うに至るまでに何があったのか。多くの男性を虜にした魔性の美女クレオパトラの数奇な逸話をご紹介します。

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クレオパトラが生きた、プトレマイオス朝

エジプト

プトレマイオス朝は、マケドニア系ギリシャ人による王朝ですが、300年にわたるその支配のなかで、現地後であるエジプトの言葉を習得した君主はクレオパトラ7世だけでした。彼女が紀元前51年に17歳で即位したとき、政治的な実権を握ることははなから期待されていませんでした。女性が即位するためには、相手が実の父親だろうと、兄弟や息子だろうと結婚しなければならず、それは通常「真の支配者」は夫たる男性だと考えられていたからです。

 

兄弟婚で実権を握ったクレオパトラ

クレオパトラとは

クレオパトラは弟のプトレマイオス13世と姉弟婚を行い、実権を手にしました。諸将はこれで自分たちの権力が保たれると安堵したのですが、ことはそう簡単にいきませんでした。クレオパトラはほんの数年で弟とその取り巻き連によってエジプトを追われることになります。

ヘレネー (世界三代美女のひとり)

彼女はトロイのヘレネほどは美しくなかったかもしれないし、イングランドのイケニ族の女王ブーディカほどたくましい戦士はなかったかもしれない。しかし弟のプトレマイオス13世はやがて、この姉が侮り難い相手であることを身をもって知ることとなったのです。

 

ローマの最高位にいた、カエサルとの出会い

ガイウス・ユリウス・カエサル

キリスト生誕の数十年前、エジプトの独立国家としての命運は風前のともしびでありました。ユリウス・カエサルがローマで政治指導者の最高位につき、この大国の版図は現在のフランスから中東にまで及んでいました。エジプトはローマに対して恭順の意を示すことで、何とか独立を保っている状況だったのです。

しかしいささか度を越してしまったのが、クレオパトラの弟 (であり夫である)プトレマイウス13カエサルとの戦いに敗れアレクサンドリアに逃れてきたローマの将軍を、彼は庇護するどころか殺害してしまったのです。

グナエウス・ポンペイウス

いくら内戦で打ち取った相手とはいえ、カエサルにとってポンペイウスは義理の息子にあたります。それを暗殺するなど言語道断、ローマの尊厳に対する侮辱以外のなにものでもないわけです。

そうしてカエサル (ローマで政治指導者の最高位者) はエジプトの内政に干渉するようになり、アレクサンドリアに乗り込むとプトレマイオス13世とクレオパトラのどちらがエジプトを治めるにふさわしいか吟味して決めると宣言したのです。

 

恋人となったクレオパトラとカエサル

言い伝えによると、カエサルはエジプト川から豪華な絨毯を送られ、その絨毯を広げたところ、中から21歳のクレオパトラが姿をあらわしたといいます。彼女がたちまち王位に返り咲いたところをみると、この作戦はどうやら功を奏したようでした。

クレオパトラはカエサルの子供を生み、「カエサリオン」と名付けました。クレオパトラは、強大なローマと同盟を結ぶことで力を得て、弱体化した祖国エジプトを救おうとしたのです。しかしその思惑は外れました。ローマに戻ったカエサルは妻とよりを戻し、後継者にはカエサリオンではなく、大甥にあたるオクタウィアヌスを指名したのです。

アウグストゥス

カエサルは紀元前44年に暗殺されてしまいます。それはちょうど、クレオパトラが息子をつれてローマを訪れているときのことでした。もしかしたらクレオパトラが、カエサルを説得して翻意させることに希みをかけていた可能性もありますが、もっとも彼女はそういった計算ぬきで、純粋にカエサルを尊敬し慕っていたようです。

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次のローマの支配者

くれおぱとら

カエサルが亡くなっての問題は、次にローマを支配するは誰かということでした。カエサルの死後、実権を握ったのは次の3人です。一人はオクタウィアヌス、もうひとりはすでに老齢にさしかかっていた元老院議員のレピドゥス、そして最後の一人が誇り高き将軍マルクス・アントニウスです。

いっぽうクレオパトラはというと、エジプトに戻り、共同統治者であった弟プトレマイオス14世を亡き者にして息子のカエサリオンと結婚思い通りに国政を行う力を磐石なものとしたのでした。

カエサリオン

クレオパトラは基金や疫病に苦しむ祖国を本来の姿に戻すことに腐心しました。そして、軍隊を再建する試みに心血を注ぎながら、ローマで次の指導者が現れるのを待ったのでした。紀元前41年までマルクス・アントニウスが大本命だと思われていましたが、オクタウィアヌス (カエサルが指名した後継者) は病弱でありましたし、アントニウスはクレオパトラをキリキアのタルソスに呼び、会談していました。アントニウスはとくに聡明というわけでもなく、酒色を好むことで知られていました。んな男だから、クレオパトラに首ったけになってしまったのも無理はないでしょう。

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次の恋人は、ローマの支配者候補アントニウス

くれおぱとら

クレオパトラとアントニウスはたちまち親しい間柄となり、ふたりの間にはまもなく双子が誕生しました。アントニウスはしばらくローマに戻り、事実上支配者のオクタウィアヌスとの不和の解消に勤めました。

紀元前36年にはマルクス・アントニウスはローマを船で発ちました。かねての懸念であったパルティア (現在のイランに存在した古代王国)征討を成し遂げるためと言われますが、その際クレオパトラを招き寄せていたといいます。このときから、ふたりは色欲と強欲にまみれた不倫関係へと突入し、破滅への道を歩み出したのです。

 

ふたりのあぶない関係

クレオパトラとは

アントニウスがひとたび現実の権力基盤から離れてしまえば、二人でローマの力に対抗することなど到底できるはずもありませんでしたアントニウスは、オクタウィアヌスの姉を娶っていましたからこの裏切りには代償が伴いました。ちなみにこの間にもクレオパトラはもうひとり男児を産んでおり、エジプトの戦費支援とアントニウスの統率力のかげで、ふたりは中東に広大な領土を獲得しますが、それらはすべて幼い愛児たちに与えられました。

くれおぱとら

クレオパトラはアントニウスから「諸王の女王」の称号を授かり、カエサルの忘れ形見であるカエサリオンはオクタウィアヌスを差し置いてローマ支配の後継者へと指名されました。アントニウスは妻のオクタウィア離縁しここにローマ=エジプト朝の幕開けを宣言することとなったのです。

ローマ=エジプト朝

 

命運尽きた恋人たち

アクティウムの海戦

紀元前31年、アントニウスとクレオパトラの振る舞いに業をにやしたオクタウィアヌスは、2人へ最初の討伐艦隊を差し向けました。この「アクティウムの海戦」でアントニウスが兵力で圧倒されるのを見て、クレオパトラは情夫を見捨てて逃走を図ります。アントニウスは自軍を顧みず彼女の後を追いますが、オクタウィアヌスはエジプトに総攻撃を仕掛け、1年でアレクサンドリアを陥れたのでした。

アントニウスは捕らえられるのを避けるために自刃、権勢とエジプト女王の色香に目が眩んだ末の最期でした。

くれおぱとら

クレオパトラはアントニウスよりも気骨がありました。というのも、オクタウィアヌスを相手にもう一度運試しをしていました。受け入れられなかったにしても、対等な条件での同盟を持ちかけたのです。最もオクタウィアヌスにしては、姉の夫を誘惑するような女と協定を結ぶ気などさらさらなく、彼女を捕らえてローマへ連行するつもりだったといわれています。

 

クレオパトラの最後

クレオパトラの死

クレオパトラにしてみれば、盛大な凱旋パレードで市中を引き回された上、おそらくそのパレードの終わりまで生き延びられないことを考えると、そのような運命は到底受け入れられるものではありませんでした。結局クレオパトラは3日間部屋へ閉じこもり、それから無花果の実とエジプトコブラを1匹運ばせました。そして、おそらく「蛇に噛まれて死んだ者には不老不死が約束される」というエジプトの言い伝えを胸に、紀元前30812日、その生涯を閉じたのでした。

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あとがきにかえて

クレオパトラの死因

プトレマイオス朝は、クレオパトラの死とともに幕を下ろします。アントニウスの遺児たちはローマのオクタウィア(妻)の元へと送りましたが、女児ひとりを残して、全員がほどなくして姿を消したといいます。オクタウィアヌスはというと幼いカエサリオン(クレオパトラの子)を殺し、エジプトはローマの直接支配を受けることになったのでした。クレオパトラのしくじりの代償としてプトレマイオス朝は滅亡し、エジプトは主権を喪失、それは長きにわたって独立を回復することを阻むことになったのでした。

「世界三代美女」として語られることの方が多いクレオパトラ。でもその実態は自らの魅力で危ない橋を渡り続けてもエジプトの自治を守ろうとした女王でもあったのです。クレオパトラが最期のファラオといわれるには、こういった由縁があったのでした。

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参考文献

 

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