【ツタンカーメンの呪いと真相】王墓に纏わる奇談、ファラオの眠りを妨げる者への制裁

世界史奇談

正規の発掘といわれたツタンカーメンの王墓の発見。しかしそれは、フォラオの3,000年もの眠りを妨げることでもありました。関係者は次々と怪死を遂げ、未だにその呪いはとけてないとされています。しかしそれは本当に呪いだったのでしょうか。この記事では、ツタンカーメンの呪いとされた一連の出来事とその真相を見ていきましょう。

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ツタンカーメンの呪い

1992年11月4日、英ハワード・カーター率いる考古学調査隊の隊員たちは、全員興奮に包まれていました。なぜなら、古代エジプト王朝の王たちが眠る「王家の墓」で、第18王朝のファラオ・ツタンカーメンの墓の入り口を発見したからです。

それは全く盗掘された形跡もなく、そこにはツタンカーメン王のミイラと共に莫大な金銀財宝が眠っていると思われました。発掘は順調にすすみ、数々の副葬品を手に入れつつ、翌年4月には玄室にまでたどり着きます。

しかしその入り口の粘土板には、不吉な警告が刻まれていました。

 偉大なるファラオの平安を見出す者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう

玄室には、資金援助をしたイギリスのカーナヴォン卿も一緒に入りました。これが時空をこえた呪いの始まりだったのでしょうか、眩しく輝く黄金のマスクをその目にし、得意の絶頂であったカーナヴォン卿でしたがそのときは悪寒を感じたといいます。

資金提供者、カーナヴォン卿の急死

カイロのホテルに戻ったカーナヴォン卿は、高熱を出して寝込んでしまいました。薬も効かず原因不明のまま病状は悪化する一方で、ついにはこんな譫言を口にするようになります。

鳥が… 人間の顔をした鳥が、私の顔を引っ掻くのだ…

およそ2週間にわたり高熱と悪夢にうなされた後、病室に駆けつけたカーターたちが見守る中、カーナヴォン卿は最後に「彼の呼ぶ声が聞こえる、私もついていくよ」と呟いて息を引き取ったそうです。

彼とは一体だだったのか、それは悲劇の王ツタンカーメンであり、「卿はツタンカーメン王の呪いによって殺されたのではないか」という噂が瞬く間に広がりました。実は、呪いの前兆はすでに墓が発見されたときから見えていました。

カーターは、エジプトで幸福を運んでくる鳥とされている自ら飼っていたカナリアに導かれて墓を発見しますが、そのカナリアは墓を発見した直後にコブラに食い殺されていました。エジプト人の間では「墓をあばく者は偉大なる神に罰せられる」という言い伝えもあったといいます。

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悲劇のファラオ

そもそもツタンカーメン王は、黄金のマスクと若くして死んだことから有名になった王でした。少年時代に王位を継ぎ、わずか18歳で急死を遂げますが、その原因は依然としてわかっておらず暗殺説が後を立ちません。また、ツタンカーメン王のアメンホテプ4世は、一神教の神を信じ、それまでの首都テーベとすべての神殿を捨て、アマルナへ首都をうつしたことで臣下らの恨みをかっていた人物でありました。その父王の死についても暗殺説が囁かれているほどです。

ツタンカーメンは首都をテーベに戻した後、18歳のときに頭を打って死亡したとされています。たしかに打撲の痕跡が認められ、単に頭を打ったのではなく棍棒による撲殺の可能性も否定はできず、まさに悲劇の王と呼ぶにふさわしい最期を迎えていました。

その後、ツタンカーメンの妃であった15歳の未亡人を妻とし、王位に就いたのは新官のアイという人物でした。しかしその4年後には、ホレムヘプ将軍がアイから王位を奪って独裁者として君臨。一神教を排して、アメンホテプ4世とツタンカーメンの名前を歴史から抹殺するため、あらゆる造形文字から2人の名前を削り取ったといいます。

手付かずだったツタンカーメンの墓

ところが、なぜかツタンカーメンの墓にだけは手をつけていませんでした。

そこには手をつけられない何か理由があったのでしょうか。その理由が王墓にかけられたなんらかの「呪い」だったとしても不思議ではなく、そしてツタンカーメンの墓を暴いたカーナヴォン卿は、その呪いを受けて死んだのではないか、と周囲は想像しました。

呪いの犠牲者は、カーナヴォン卿だけでは終わりませんでした。彼が亡くなったのと同時刻、イギリスにある卿の自宅にいた愛犬が突如狂ったように吠え、雷に撃たれたかのように頓死したのを皮切りに、次々に謎の死がつづきました。玄室の調査に立ち会ったアメリカの考古学者アーサー・メイスが、カーナヴォン卿の死の直後、同じエジプトのコンチネンタルホテルで原因不明の死を遂げたのです。

ツタンカーメンの呪い George Jay Gould (ジョージ・ジェイ・グールドの訃報)

次の犠牲者は卿の友人で訃報に接してエジプトにやってきたアメリカの富豪ジョージ・ジェイ・グールドでした。カーターの案内で王墓を見学したその翌朝、高熱を発するとあっけなくこの世を去りました。ちなみに同じくイギリスの実業家ジェル・ウールも王墓の見学後にグールドと同じような状態で絶命しました。

続く怪死騒動

血

その後もツタンカーメンの呪いと思われる事象が次々と関係者に襲いかかり、カーナヴォン卿の死からわずか6年間で22人を葬り去りました

1929年には、カーナヴォン卿の妻アルミナが死亡。その死と相前後して、頑強な身体を自慢していたカーターの秘書リチャード・ピレスが急死しました。その死を聞いた父親は、悲しみのあまり自殺し、その遺体を埋葬するために運んでいた車は途中で子供を轢き殺しました。

これらの度重なる訃報は、ツタンカーメン、もしくは王家の呪いとして報道されることになりました。

しかしこれでもまだ悲劇は終わりませんでした。1979年、サンフランシスコでツタンカーメンの財宝展が行われた時、黄金のマスクの警備についていたジョージ・ラブラッシュは突然脳卒中に襲われ、半身不随となりました。1980年には映画「ツタンカーメンの呪い」の撮影中に俳優のイアン・マックシェーンが車で事故を起こしました。一命は取り留めたものの、全身10箇所を骨折する大怪我をおい、他の俳優は全員出演を取りやめるという大惨事となりました。

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ツタンカーメンの呪いの真相

egypt

今回ご紹介したのは、王家の呪い (またはファラオの呪い)とも呼ばれており、エジプト王家の墳墓を発掘する者には呪いがかかる、という信仰です。といっても、実際には大幅に脚色された、今日で言うところの都市伝説に近いものです。

1920年代のエジプトにおいて、王家の谷でツタンカーメンの墳墓を発掘してミイラを取り出したカーナヴォン卿、および発掘に関係した数名らが、発掘作業の直後次々と急死したとされる出来事からこうした伝説が生まれました。しかし実際、墓の開封に立ち会った人物の中で急死したのはカーナヴォン卿だけでありました。そして、そのカーナヴォン卿の死因も、発掘以前に髭を剃っていた時に誤って、蚊に刺された跡を傷つけたことにより熱病に感染、肺炎を併発したことであることが確認されています。

呪いでなくなったとされる人々の死因

お墓

ちなみに、呪いで亡くなったとされている人々も、現在までに下記のような死因が判明しています。

まず、墓の開口部にいた発掘調査の財政的支援者であるカーナーボン卿は、蚊に刺された後、1923年4月5日に亡くなりました

そして、

  • 墓の訪問者であった大富豪ジョージ・ジェイ・グールドは、訪問後に熱が出た後、1923年5月16日にフレンチリビエラで死亡
  • カーターの発掘チームのメンバーであるACメイスは、最後の年に胸膜炎と肺炎に苦しんで1928年4月に死亡
  • カーターの秘書であるリチャード・ベテルは、1929年11月15日に死亡。メイフェアのクラブでベッドで亡くなり、窒息の疑いがある

ちなみにハワード・カーターは1923年2月16日に墓を開きましたが、亡くなったのは16年以上後、1939年のことでした。どの人物にも科学的に理解のできる死因があり、16年後に亡くなったカーターは、もはや呪いとは関係のないところにありそうです。

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あとがきにかえて

ツタンカーメンの呪い

中には、何らかのガスが墳墓に溜まっていて、墳墓をあばいた時にそれを吸った影響ではないか、と見なす人もいました。たとえばアーサー・コナン・ドイルもそれに類した見方を好んだ一人で、王の墳墓を荒らす墓荒らしを懲らしめるために致死性のカビのようなものが意図的に配置されていたのではないかと見なしました。ただ現在では古代エジプト墳墓の空気も調査されていますが、有毒なガス、カビの存在は確認されていません

ツタンカーメンの墓の発掘に直接携わった者で1年以内に亡くなったのはカーナヴォン卿だけでありました。なぜここまで話が大きくなったのかといえば、ハワード・カーターと独占契約を結んだタイムズに対抗した他の新聞社が、発掘関係者が死亡するたびに「王家の呪い」と報じたことが原因であるといわれています。

それに伴い、アガサ・クリスティーが発表した短編で「王家の紋章 エジプト墳墓の呪い」、ルパン三世のテレビシリーズに「ツタンカーメン三千年の呪い」などが放映され、ツタンカーメンの呪いという言葉が一人歩きし、多くの人々に知られることとなったのです。現在も都市伝説として取り上げられているツタンカーメンの呪い、それはあらゆる偶然をまとめ上げて人間が作り上げた奇談だったのかもしれません。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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