【恋多き女王メアリー・ステュアート】処刑の原因を招いた男性スキャンダル

mary stuartスコットランドの歴史

生後6日目にしてスコットランド女王となったメアリー。領土を狙う英国ヘンリー8世の手から逃れるため、母方の故郷フランスへ嫁ぎ、「スコットランド女王」と「フランス王妃」を兼任するなどして、美貌だけでなく莫大な権力を手にすることとなりました。

しかし夫は若くして亡くなり、未亡人となった彼女はスコットランドへ戻りますが、恋多き女王は男性スキャンダルに見舞われ最終的にはそれが仇となって処刑台へ送られることとなります。この記事では、メアリー・ステュアートが処刑される原因となった男性スキャンダルを追っていきます。

この記事のポイント
  • スコットランド女王メアリー、フランスへ嫁ぎ王妃になるも未亡人となり帰国
  • その後は恋人を次々にかえ、あげく邪魔になった旦那を殺害
  • いとこのエリザベスの元へ逃げ込むも謀反を働き処刑されることとなった
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フランス宮廷を追い出されて

(メアリー・ステュアートの最初の夫 フランス王フランソワ2世)

フランスでの平穏な結婚生活もつかの間夫フランシス2世は耳の病気で亡くなりメアリーは18歳にして未亡人になってしまいます

フランスの王位は義兄チャールズ9世に引き継がれました。姑カトリーヌ・ドメディシスと仲が悪かった彼女は、フランス宮廷にはいられずスコットランドへ帰還することとなりました。

すっかり変わった故郷

メアリーは名残惜しくもフランス宮廷での華やかな生活に別れを告げ、スコットランドに帰りました。しかしそこでは牧師であり神学者であり国の改革のリーダーであったジョン・ノックスがスコットランド内のプロテスタント貴族と協力して、スコットランドのプロテスタント宗教改革を主導していました。

スコットランドはもはや彼女が知っているものではなかったのです。正式なプロテスタント国家になりつつあったスコットランドですが、メアリーが怯むことはありませんでした。

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絶えないスキャンダル

(メアリー・ステュアートとダーンリー卿)

フランス王妃の座を失っても、『スコットランド女王』であったメアリー

彼女はプロテスタントを容認することで、スコットランド市民の支持を勝ち取ろうとしました1565年にはいとこのダーンリー卿と英国人男性と結婚します。容姿端麗な彼と恋に落ちたといわれていますが、ダーンリー卿はメアリーと同じくヘンリー7世の曽孫であり、イギリスの王位継承権を主張するには都合がよいという側面もありました。

『英国の女王はエリザベスではなく、わたくしのほうが適役』と思っていたメアリー。しかしこれがきっかけとなり、悲劇の連鎖がうまれていくことをこのときの彼女はまだ知りませんでした。

狂気を帯びた夫の復讐

メアリーはダーンリー卿に対して、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買いました。しかし彼の甘やかされた傲慢な性格が浮き彫りになるにつれメアリーの愛情も冷めていきました。そして、メアリーの関心はピエモンテ人の音楽家で、細やかな気づかいを得意とする秘書デイヴィッド・リッチオにうつっていったのです。

ダーンリー卿は、とても嫉妬深い人物でした。彼はメアリーがデイヴィッドと関係があると知ると、浮気相手の音楽家を何度も何度刺して殺してしまいますしかしメアリーにはもうダーンリー卿に対する愛はなく、また新しい男を作り恋に現を抜かすのでした。

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ダーンリー卿の殺害嫌疑

(ダーンリー卿 画像引用元:WIkipedia)

新しい男性と結婚したいメアリー・ステュアートですが、ダーンリー卿との離婚はカトリックの規則で禁じられていました。彼女が唯一ダーンリー卿と離婚できるのは『彼が死んだ場合のみ』という状況のなか、エジンバラ郊外のカーク・フィールドハウスで謎の爆発があり、ダーンリー卿が遺体となって発見されました。

もちろん殺害容疑をかけられたのはメアリー。「ダーンリー卿はメアリーの命令により、彼女と親しいボズウェル伯爵たちにより殺された」といった噂が瞬く間に広がったのです。ボズウェル伯爵はダーンリー殺害の容疑については無罪となりました。しかし裁判が終わったほぼ直後にメアリーと結婚したものですから、メアリーへの疑惑は強まるだけでした。

女王の投獄

(スコットランド女王メリー 画像引用元:Wikipedia)

メアリーとボスウェルの3度目の結婚は、2度目の結婚に劣らず幸せだったといいますが、ボスウェル伯爵自身もまた王になるという野望を持っていました。なので『メアリーへの恋心はあれど、伯爵自身もメアリーを利用したのではないか』ともいわれています。

しかしこの2人の結婚はダーンリー卿殺しの疑惑を深めただけメアリーは『姦通者で殺人者』だと非難されました。そして1567年6月15日、エジンバラ近郊のカーベリー・ヒルにおいて、メアリー軍とスコットランド貴族軍との間で衝突が起こり、メアリー軍は敗北、メアリー・ステュアートはレーヴェン城に投獄されてしまったのでした。

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まとめ

フランス宮廷を追われて故郷へ帰還するも、プロテスタント宗派が幅を利かせておりすっかり変わってしまっていたスコットランド。メアリーはいとこのダーンリー卿との結婚しますが、不倫に走り、最終的には夫を殺害して再婚を果たします。続くスキャンダルに王への不信は募り、メアリー軍とスコットランド貴族軍との間で衝突が起こるが敗北して逮捕されることになったのでした。メアリー・ステュアートが逃げ込んだのは「あなたは庶子で、女王になる権利はない」と散々ばかにしていた英国女王エリザベス1世の元でした。

最終的にメアリーは懲りずにエリザベス暗殺を企て、最終的に処刑されることになるのですが、メアリーが我儘だったのか、彼女のもつ権力が大きすぎたために周りの男性たちを巻き込み大事となってしまったのか。力の持つ恐ろしさを彷彿とさせる事件なのでありました。メアリーの最後についてはこちらの記事(命運尽きた女王の最後【メアリーステュアートが処刑されるまで】)にまとめております。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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