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【ハプスブルク家の家系図まとめ】華麗なる一族 650年の歴史

 
ハプスブルク家 家系図
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

650年以上の長い歴史を持ち、ヨーロッパの名門となったハプスブルク家。その長い歴史は、血みどろの権力争いや政略結婚での領地拡大、近親婚など様々な人間らしいドラマが織り成され紡がれてきました。この記事では、ハプスブルク繁栄のきっかけを作ったルドルフ1世から、陽の沈まぬ帝国と呼ばれたスペインハプスブルク家

王妃

悲劇の王妃として有名なマリー・アントワネットシシィと呼ばれ愛されたエリザベートに至るまで、著名な君主と王妃を輩出してきた、近代までのハプスブルク家 家系図をまとめてみました。

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だれでもわかる、肖像画でみる650年の家系図

こちらが13世紀ハプスブルク家の名前が表舞台に出てきてから、近代に至るまでの家系図です。

家系図の見方

  • 緑色:スペイン ハプスブルク家
  • オレンジ色:オーストリア ハプスブルク家

ハプスブルク家全体の家系図

晩年のハプスブルク家 家系図

近代におきた様々な革命、第一次大戦が大きなきっかけとなり、帝国は解体へと進んでいきカール1世が最後の『オーストリア皇帝』となりました。息子のオットーは皇帝になることはなく、様々な権利も剥奪されましたが、いまも子孫はそれぞれの国で活躍されています。ここからは、ひとつひとつの時代をかんたんに解説していきたいとおもいます。

(※なお家系図については、現代にも名が残っている人物をメインに、かんたんにまとめております)

 

家系図でみる、ハプスブルク家の歴史 (初期)

『ハプスブルク家』名前の由来

ハビヒツブルク城 (ハプスブルク家のはじまり)

ハプスブルクの始祖は、10世紀末ころスイスにあった弱小の豪族でした。そして2、3代目が家名の由来となる『ハビヒツブルク城(大鷹の城)』をたてます。12世紀にはいるとこの城を本拠とする子孫が「ハプスブルク伯爵」を名乗るにいたりました。

 

表舞台に出てきた、思わぬきっかけ

ハプスブルク家 かんたんに (ルドルフ1世が描かれた絵)

ときは13世紀、当主ルドルフが20年近く空席だった『神聖ローマ皇帝の座(このときはドイツ王も兼ねていた)』に偶然つくことになったのです。というのも諸侯たちの足の引っ張りあいで空席となっていた席に7人の諸侯が自分たちに都合のよく、扱いやすい人物を据えよう暗黙の了解で選んだのがハプスブルク伯ルドルフだったのです。当時55歳でありました。

 

ハプスブルク家が安定するまで、150年…

しかし彼は思わぬ粘りをみせ、結果としてボヘミアと、オーストリア一帯を手にすることになります。「自分たちの都合のように動いてもらおうではないか」とタカをくくっていた7人の諸侯の思惑は見事にはずれ、情勢は思わぬ方向へ

晩年ルドルフは『さらなるハプスブルク家の反映と拡張』を目標として、神聖ローマ皇帝の座を末裔に継がせようと奮闘しました。それからは『神聖ローマ皇帝』の座はとってはとられをくりかえし、150年かけ、ハプスブルク家は安定して皇帝の座を世襲していくことになります。

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家系図でみる、ハプスブルク家の歴史 (中世)

婚姻外交の基礎を築いた、マクシミリアン1世

マクシミリアン1世「戦争は他家に任せておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」

この言葉が示すとおりプスブルク家は婚姻により領土を拡大してきたわけですが、最も成功した例はマクシミリアンの時代であったといわれています。具体的には、

  • 自身の結婚により、ブルゴーニュ、ネーデルラントを獲得
  • 子の結婚により、イベリア半島の大部分と、ナポリ王国、シチリア王国を獲得
  • 孫のカールはスペイン王とローマ皇帝を兼ね、ハプスブルク家隆盛の基礎を築く

ハプスブルク家 家系図(参考:誰でもわかる【肖像画つきスペインハプスブルク家|家系図 】)

子だけでなく、孫の結婚相手までを決め、ちゃっかりと領土拡大を実現させていったのですから、まったく、マクシミリアン1世の知略には恐れ入ります。スペインはアメリカ大陸をも征服し、のちに、文字通りの「日の沈まない帝国」を築くことになりました(参考記事:中世最後の騎士と呼ばれた英雄、マクシミリアン1世)

 

中世に存在した『スペイン・ハプスブルク家』

(ラス・メニーナス ディエゴ・ベラスケス画)

スペインハプスブルク家は、中世に君臨し『日の沈まぬ帝国』と呼ばれた巨大な王朝です。1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域だけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地をも支配していました。

ハプスブルク家 領地

広大な領土と富を手にし「黄金時代」を築き上げた一方で、度重なる近親婚のために病弱な王が続いたことでも有名です。近親婚の程度を示す数値(近親係数)は、初代には0.025だったものが、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していたといいます。そのためスペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率はたかく、その結果わずか5代で断絶、という悲劇の歴史をもつ王家でもあります。(参照記事:【ハプスブルク家】高貴な青い血, 顎にみえる禁断の歴史

 

家系図でみる、ハプスブルク家の歴史 (後世)

友好の証としてフランスへ嫁いだ、マリー・アントワネット

マリア・テレジア (若い時の写真)

オーストリアの国母と慕われた女帝マリア・テレジアは、1755年オーストリア首都ウィーンで可愛らしい女の子を出産しました。彼女は16人の子供を産みましたが、その末娘こそマリー・アントワネットです。そう、彼女はオーストリア・ハプスブルク家の出身だったのですね。

マリー・アントワネット (家系図) (ハプスブルク家 家系図 フランスとの関わり)

オーストリアとフランスは300年もの間敵対していたのですが、イギリスとプロセインが手を組んだことで、ロシアを含めた3つの国は手を組むことになりました。結んだ公約のなかにフランス王家とオーストリア公家の縁組が含まれていたのです。

マリー・アントワネットの最後

今まで争いはありましたけれども、これからは仲良くしましょうという平和の証にとフランスへ送り出されたのがあのマリー・アントワネットです。彼女がフランスに嫁いでからの運命についてはこちら(【マリー・アントワネット最後の覚悟】逝くならフランス王妃のままで) に別途まとめております。

 

ナポレオンに散々にかき回された、ウィーン宮廷

フランス革命直後のハプスブルク家系図

バイエルン王の娘ゾフィは、19歳で『オーストリア・ハプスブルク家のフランツ・カール』の元へ嫁ぎました。当時のハプスブルク家は、フランスのナポレオンに散々かき回されたあと、彼女が嫁いだときにハプスブルク家はとても安泰とはいえなかったのです。ゾフィは義理の父帝フランツが亡くなったあとは「この革命の嵐を乗り切るためには、若く颯爽とした皇帝が必要として、

ハプスブルク家 家系図 ゾフィとエリザベート

18歳の息子フランツを皇帝の座につけ、自身で政治の決定権を握りました。

 

民衆に殺されたエリザベート

エリザベート (シシィ) の肖像画

傾きかけたハプスブルク家を持ち直し、孫の皇太子も無事に育ち一族へ安泰を見せたゾフィ。しかし君主制 (世襲の君主が主権をもつ政治形態) を反対し、自由主義力を支持するひとにとっては憎むべき対象でもありました。その被害にあったのが、ゾフィの息子フランツ・ヨーゼフの元に嫁いできたエリザベート (シシィ)です。アントワネットに次ぐ美女としても有名ですね。

そして1898年9月、旅行中にエリザベートは、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害されてしまいます。犯人の動機は王室への不満、「王族ならだれでもよかった」というのが犯人の言い分だったといいます。

 

家系図でみる、ハプスブルク家の歴史 (終焉)

それでも、革命の嵐は乗り切れず

ハプスブルク家も徐々に力を失っていったわけですが、帝国解体のきっかけとなったのは第一次世界大戦でした。今までハプスブルク家が植民地としてきた各地が利権を主張してきたのです。チェコ、スロバキア、ポーランド、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロベニア、イタリアなどにその動きがみられ、最終的にはドイツ、オーストリア、ハンガリー以外には何も残らなかったそうです。

 

ハプスブルク家の権威剥奪

ハプスブルク家は1911年に、

  • オーストリア政府が、将来の国家形成を決定する権利を認め
  • 国政において一定の責任を放棄する旨、またハンガリーに対しても同様の宣言を行い、

多くの権利を失いました。それでも一族が「ハプルブルク」という名前を放棄することはなかったため、終的にはオーストリアの国民議会が1919年『ハプスブルク法』を通過させ、

documentハプスブルク家がすべての王朝的な特権を放棄し、民間人としての地位を忠実に受け入れない限り、オーストリア領土からすべてのハプスブルク家を追放する

としたのです。

ハプスブルク家 家系図 (現在にいたるまで)

1961年にオーストリアの王冠に対するすべての主張を正式に放棄したあとは、オットーが「正式に王室の人物」と見なされた最後の人物となりました。王朝の支配は終焉しましたが、オットーには7人の子供がおり彼らは今も健在です。

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ハプスブルク家の末裔はいま……….

現在のハプスブルクの家長は、オットーの長男カール氏がつとめています。

晩年のハプスブルク家 家系図

ロシア革命で皇帝一家が惨殺されたロマノフ王朝と比べると、ハプスブルク朝は平和な終わり方だったのかもしれません。彼の長男と6番目の子供は、ブルガリアの2大新聞社とオランダのメディア会社を買収したオーストリアの投資会社の共同設立者だそうで、他の子孫もあちこちで活躍しているそうです。

末裔についてはこちら (参考記事:【ハプスブルク家の末裔】巨大王朝 | 華麗なる一族の末路)にまとめております。650年続いた驚異の一族、ヨーロッパに君臨した名家その血は確かに受け継がれ、いまもあちこちで色々な軌跡をのこしているのでした。

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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