【メアリースチュアートの処刑失敗説】お騒がせのスコットランド女王

メアリーステュアート 処刑その他
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メアリースチュアートがスコットランド女王になったのは1542年生後6日目のことでした。陰謀をもったイングランドに狙われフランスへ逃げ、あげく王妃になるも夫が亡くなり故郷へ帰国。その後は恋人を次々にかえ、あげく邪魔になった旦那を殺害。居場所が亡くなった彼女は、自分が散々バカにしていたイングランド女王エリザベスの元へ亡命.…..

逃げる女王

慈悲をもって幽閉にとどめたエリザベスでしたが、あろうことかメアリーに命を狙われやむなく処刑へ。斬首人の斧は思う通りにいかず最後まで粘り強さをみせたメアリースチュアート。この記事では斬首人さえも困らせた彼女の処刑までをおっていきたいとおもいます。

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メアリー・ステュワート

最初の原因となった、スコットランドでのスキャンダル

メアリースチュワート 家系図

姑カトリーヌ・ド・メディシスにフランス宮廷を追い出されたメアリーは、スコットランドへ帰国。1565年にメアリーはいとこのヘンリー卿と結婚し、息子ジェームズを出産しました。しかしアリーは、『ダーンリー卿はもはや顔だけ』と見切るや否や、彼を事故にみせて殺害してしまします。これには彼女の浮気相手であるスコットランドのボスウェル伯爵が関わっていたとされています。

 

夫殺害の容疑をかけられ、即座に投獄

犠牲

そのすぐ後にメアリーは愛人のボスウェル伯爵と結婚しましたが、あまりに勝手なふるまいにスコットランド貴族たちは激怒。『夫殺害の容疑をかけられたメアリー・ステュワートは即座に投獄され王位も剥奪。スコットランド王は、1歳になる息子のジェームズが継ぐことになったのでした。しかし彼女は翌年、メアリは牢獄からさっさと逃げ出しイングランドに亡命してしまいます。

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メアリー・ステュワート、イングランドへの亡命

ライバルと呼ばれた、いとこのエリザベス女王の元へ

イギリス

フランスに帰ることもできない彼女が向かったのは、いとこエリザベス女王のいるイギリス。そもそもメアリー・ステュワートはヘンリー7世の血をひいておりイングランドの王位継承権も持っていたので、彼女を王位へつけるべきだと主張する一派もいたほどでした。

 

いとこに投獄されたメアリースチュアート

メアリー・ステュワートの投獄

そんな高貴な身分を利用して『エリザベスは庶子散々バカにしていたメアリー。しかしそんな彼女がいきなり駆け込んできたものですから、エリザベス女王は驚愕しますが、とりあえずメアリーを投獄することにしました。さすが半世紀の安寧をもたらした女王エリザベス1世いとこへの慈悲なのか殺すことはせず、城を転々とさせつつもメアリーを19年間幽閉したのでした。

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ついに決まった、メアリー・ステュワートの処刑

エリザベス1世

しかしメアリーはかくまってくれたエリザベスに感謝するどころかスペインのフェリペ2世とエリザベスの暗殺を企てる始末。政敵を使って陰謀を企てられたら自らの命が危ない。1587年ついに限界を感じたエリザベス1世、政治への脅威を取り除くよう周りからも説得されメアリーの処刑を命じました

 

メアリー・ステュワートに告げられた、処刑のお知らせ

廷臣

メアリーの処刑はフォザリンヘイ城で行われることになりました。1587年2月7日、エリザベス女王の側近が午後2時から3時にかけて当時スコットランド女王が監禁されていたフォザリンゲイ城に到着しました。そして看守の目の前で囚人の処刑に関する書を読み上げ、翌朝7時から8時に処刑を実行すること、看守はすべての準備を整えるよう命じました

 

処刑を告げられたメアリースチュアート

メアリースチュアート

メアリーはあまり、驚きは見せなかったといいます。というのも、彼女は自分の不幸に終止符を打つことを切望しており、イギリスで幽閉されて以来死を覚悟をしていたからです。それでもメアリーは、使者たちに「自分の身支度をし、自分の意志を固め、自分のことをきちんとするための時間を少しください」と頼んだそうです。しかしシュルーズベリー伯はこう返したといいます。

廷臣いいえ、いいえ、マダムあなたは死ななければなりません、死ななければならないのです。処刑が行われるのは午前7時から8時までです。その時間より少しも遅れてはなりませんよ

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メアリースチュアート、処刑の日

処刑の直前に、メアリーは何をしていたのか

メアリースチュアート 幽閉

メアリーは処刑までの時間を、友人や親戚にお別れの手紙を書いたり侍女たちに別れを告げたり、祈ったりして過ごしました。そして来たる処刑の時間。足場は大きな部屋の真ん中に立てられていましたそれは両側に沿って12フィート、高さが2フィートあり、粗い麻の布で覆われていたといいます。

メアリーの処刑 (メアリー・スチュアートの処刑前)

メアリーは絞首刑台の上に立ち、神へ許しを乞いました。

 

メアリースチュアート、処刑失敗説

メアリー・ステュアートの処刑

白い首と喉があらわになったメアリー・スチュアート。彼女は公共の場で、特に大規模な集会の前では服を脱ぐことは嫌だと拒んだそうですが、そんな声が届くはずもなく….。そして女王が自分の罪が神によって赦されることを願ったのと同じように、死刑執行人は彼女の前にひざまずき許しを請いました。祈りをくりかえすと、頭を丸太の上にのせ、死刑執行人は彼女の首に斧を振りかざしました……….

メアリースチュワート 処刑 (1613年に描かれたメアリー・スチュアートの処刑シーン)

大きな一撃を加えましたが首は完全には切断されず2度めの斧をいれてもまだ動いており、3度目にようやく成功….。

斧女王陛下万歳!真の敵は、このようにして滅びるのだ

斬首人は、切断された首を持ち上げ、出席者に示して叫んだそうです。

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あとがきにかえて

メアリー・ステュアートとフェリペ2世

高貴な出自と美貌で、色んな男性の人生を狂わせてきた魔性の女王、メアリー・ステュワート処刑後彼女の髪の毛は真っ白だったといいます。それは決して歳のせいではなかったそうで、19年間幽閉されたストレスか、はたまたいつ殺されるかといった恐怖か…. 

メアリーステュワート (若き日のメアリー・スチュアートの肖像画 ゲッティイメージ)

それにしてもメアリーを処刑したエリザベートの跡を、メアリーの息子ジェームズ1世が継ぎ『スチュアート朝』が開かれたのですから、なんとも皮肉なものです。メアリー・ステュワートは処刑されましたが、たしかにその爪痕をイングランドに残していたのでした。いとこでありライバルのエリザベス1世から見たメアリーは (【エリザベス1世】イングランド発展の礎を築いた女王の素顔) にもまとめております。

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