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【メアリーステュアートの生涯】魔性のスコットランド女王 (後編)

2020/08/27
 
lady
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

 生まれながらのスコットランド女王『メアリー・ステュアート』。自由気ままな女王様はフランス宮廷へ嫁ぐも夫を亡くし故郷のスコットランドへと帰ります。そして彼女が巻き起こしたのは、女王にあるまじきスキャンダルでした。(こちらはに続く後編です)

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メアリー・ステュアートの投獄

(スコットランド女王メリー(1805) William Craig Shirreff 画像引用元:Wikipedia)

メアリーとボスウェルの3度目の結婚は、2度目の結婚に劣らず幸せなものでした。ボスウェル伯爵自身もまた王になるという野望を持っていたため、メアリーへの恋心はあれど伯爵自身もメアリーを利用したのではないか、といわれています。

しかし結果ふたりの結婚はダーンリー卿殺しの疑惑を深めただけで、国民はメアリーを『姦通者、殺人者』と非難するようになりました女王への不信感は膨らんでいき程なくしてアリー軍とスコットランド貴族軍との間で衝突。メアリー側の軍は敗北して、女王はレーヴェン城に投獄されてしまいます。

 

脱獄したメアリー、イングランド女王の元へ

(イングランド女王 エリザベス1世の肖像画)

最終的にメアリーは、庶子だと散々バカにしていたイングランドエリザベス1世の元へと逃げ込みますしかし状況を聞いていたエリザベスメアリーを再び拘留慈悲をかけ処刑には至らなかったものの、シェフィールド城の堅固な要塞にメアリーを閉じ込めたのでした。

(シフェフィールド城復元イメージ図)

迫り来る運命に至るまでの数年間、メアリーはエリザベス1世に幽閉をとくよう懇願します。しかしメアリーを擁護する一派がありエリザベスは自分の王位を脅かすとして、次第に嘆願を無視するようになり、結果メアリーはエリザベス女王の管理下で19年間監禁されることになりました。

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メアリーの、エリザベス女王殺害計画

エリザベスの母親アン・ブーリンと父イングランド王ヘンリー8世の結婚が教会から認められていなかったため、エリザベス1世は庶子だとして彼女を排そうとする人たちも存在していました。実際に陰謀も渦巻いており、アンテナをはっていたエリザベス。そんな最中、メアリーの看守とカトリック司祭の間でエリザベス暗殺といった陰謀に関する手紙が見つかります。

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート

最期の慈悲で生かしておいたけれど、もはや限界。「これ以上は危険メアリーを生かしておいては自分の命が危ない」と感じたエリザベスは、メアリーを反逆罪として処刑台におくることにしました。

 

メアリー・スチュアートの処刑

メアリーステュアートの処刑(処刑台へむかうメアリー・ステュアート 羽織りものの中に真紅のドレスが見える)

メアリーは何時間も祈って最後に微笑み、真紅の衣装をきて堂々と断頭台に立ちました

メアリー・ステュアート 処刑失敗説(参考:スコットランド女王【メアリー・ステュアートの処刑失敗説】)

最初の斧の一撃はメアリーの首を避け、後頭部に食いみました。2回目に振り下ろされたときも首は切られたものの、まだ苦しみつつも生きていたといいます。3回目に振り下ろされた斧でようやく処刑が成功、執行人は首をもちあげて「女王陛下万歳」と群衆へ叫びました。

 

メアリーへかけられた、エリザベスの言葉

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート

覚悟を決めたエリザベスはこういい残し、死刑執行令状にサインしたといいます。

犬猿の仲 エリザベスとメアリー・ステュアート自分の良心に目を向けて。世界はイギリス王国より広いことを覚えておいてください

エリザベス自身はプロテスタントでしたが、国内にある宗教的対立を考慮して、カトリックの弾圧はおこないませんでした。ただ亡命してきたスコットランド女王については、カトリックである彼女を利用としようとする反対派の不穏な動きもありエリザベス自身も脅威とみなしていた、といいます。メアリーの処刑に躊躇していましたが、最終的に議会からの強い要請もあって執行を承認したのでした。

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処刑されても、争いの火種を残したメアリー

メアリー・ステュアートとフェリペ2世(メアリー・ステュアートと思われる女性の肖像画)

スコットランド女王メアリーが処刑されたことを受け、怒ったのはスペインのフェリペ2敬虔なカトリックであるフェリペ2世は『プロテスタントであるエリザベス1世は異端者だ、イングランド統治者には向かない』とし、メアリー・ステュアートを王位につけようとしていたのですが、計画は処刑により白紙に戻されてしまったのです。

スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で、幾度となくイングランドの私掠船に襲われていました。フェリペ2世はイングランド女王エリザベス1世に海賊行為を取り締まるよう申し入れますが、エリザベス1世は聞き入れるどころか海賊行為に加担する始末。それにメアリーの処刑が重なり、イングランドとスペインの関係は悪化していたのです。

 

スペインがイングランドに攻め込んだ、アルマダの海戦

アルマダの海戦

もはや和議はないと考えたフェリペ2世は艦隊をつれてイングランドに攻め込みましたこれが世にいう『アルマダの海戦』です。英仏海峡に向かったスペイン艦隊でしたが、上陸部隊の集結を待つためにカレー沖に停泊していたところ、深夜にイングランド艦隊からの攻撃を受けます。

アルマダの海戦(参考:【血まみれの王室】スペイン フェリペ2世に狙われた、イングランド女王たち)

火船による攻撃を避けるために緊急出港したスペイン艦隊は、その後のグラブリンヌの海戦でも損害を受けました。スペイン艦隊はブリテン島を東から北にまわってスペインへ戻ろうとしますが、途中で遭遇した嵐と飢えによって艦隊の大半を失ってしまいました。大国スペインの脅威をはねのけ、ようやく勝利を勝ち取ったエリザベス1世。これにてうやく、メアリー・ステュアートの脅威から解放されることができたのです。

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あとがきにかえて

【処刑台でも女王】魅惑の女性、メアリー・ステュアート(オランダの画家(作者未詳)が1613年に描いたメアリー1世処刑の場面 引用元Wikipedia)

本来ならば、メアリーが逃げてきた時点で殺されても不思議ではないもの「監禁」という形で彼女を生きながらえらせたイギリス女王。メアリーは最後までエリザベスに感謝することはなかったそうで、断頭台でも堂々と立ち、王女としての威厳を失わなかったとか。

美貌と知性で多くの人を虜にして、したたかに宮廷を渡り歩いたメアリー・ステュアートも魅力的ですが 、「あなたは庶子でしょう」と侮辱されながらも、最期に行き場を失った彼女を受け入れたエリザベス女王器の大きさには感服するものがあります。あなたはどちらの女王の生き方を魅力的だと感じましたか。いずれにしても中世に生きた2人の女王の物語は、これから先も長く語り継がれていくことでしょう。(エリザベスの生涯についてはこちら【悲劇の王妃の娘 エリザベス1世】生涯独身を貫いた女王の素顔にまとめております)

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この記事を書くために参考とさせていただいたサイト

  • https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots
  • https://allthatsinteresting.com/mary-queen-of-scots
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_I_of_England
  • https://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley
  • https://www.rct.uk/collection/404444/elizabeth-i-when-a-princess

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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