命運尽きた女王の最後【メアリーステュアートが処刑されるまで】

イギリスの歴史

 生まれながらのスコットランド女王、メアリー・ステュアート。フランス宮廷へ嫁ぐも夫を亡くし、故郷のスコットランドへと帰った彼女が起こしたのは女王にあるまじきスキャンダルでした。この記事では、『女王』であったメアリーが逮捕され処刑されるまでを追っていきます

この記事のポイント
  • 夫亡き後、故郷のスコットランドへ戻った女王メアリー
  • しかし恋多きメアリーは、続くキャンダルによりスコットランド女王の地位を追われる
  • 英国へ逃げ込むも、エリザベス暗殺計画を企てるなどしてやむなく処刑された
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恋多き女王

メアリーは、フランス王妃の座を失っても、依然として『スコットランド女王』でありました。彼女はプロテスタントを容認することで、スコットランド市民の支持を勝ち取ろうとします。そして、1565年にはいとこのダーンリー卿と結婚

しかし、メアリーはダーンリー卿に対して、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買いました。しかし彼の甘やかされた傲慢な性格が浮き彫りになるにつれメアリーの愛情も冷めていったのでした。

きっかけは夫殺し

(ダーンリー卿)

ダーンリー卿は、とても嫉妬深い人物でした。彼はメアリーが今度は音楽家デイヴィッドと関係があると知ると、浮気相手の音楽家を何度も何度刺して殺してしまいますしかしメアリーにはもうダーンリー卿に対する愛はなく、また新しい男を作り恋に現を抜かすのでした。

新しい男性と結婚したいメアリー・ステュアートですが、ダーンリー卿との離婚はカトリックの規則で禁じられていました。彼女が唯一ダーンリー卿と離婚できるのは『彼が死んだ場合のみ』という状況の中、エジンバラ郊外のカーク・フィールドハウスで謎の爆発があり、ダーンリー卿が遺体となって発見されたのです。

強まる嫌疑

もちろん殺害容疑をかけられたのはメアリー

ダーンリー卿はメアリーの命令により、彼女と親しいボズウェル伯爵たちにより殺された」といった噂が瞬く間に広がりました。ボズウェル伯爵はダーンリー殺害の容疑については無罪となりました。しかし裁判が終わったほぼ直後にメアリーと結婚したものですから、メアリーへの疑惑は強まるだけでした。

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メアリーの投獄

(スコットランド女王メアー)

メアリーとボスウェルの3度目の結婚は、2度目の結婚に劣らず幸せなものでした。ボスウェル伯爵自身もまた王になるという野望を持っていたため、メアリーへの恋心はあれど伯爵自身もメアリーを利用したのではないか、といわれています。しかし結果ふたりの結婚はダーンリー卿殺しの疑惑を深めただけで、国民はメアリーを『姦通者、殺人者』と非難するようになりました

女王への不信感は膨らんでいき程なくしてアリー軍とスコットランド貴族軍との間で衝突。メアリー側の軍は敗北して、女王はレーヴェン城に投獄されてしまいます。

イングランド女王の元へ

(イングランド女王 エリザベス1世の肖像画)

最終的にメアリーは、庶子だと散々バカにしていたイングランドエリザベス1世の元へと逃げ込みますしかし状況を聞いていたエリザベスはメアリーを再び拘留慈悲をかけ処刑には至らなかったものの、シェフィールド城の堅固な要塞にメアリーを閉じ込てしまいました。

迫り来る運命に至るまでの数年間、メアリーはエリザベス1世に幽閉をとくよう懇願します。しかしメアリーを擁護する一派がありエリザベスは自分の王位を脅かすとして、次第に嘆願を無視するようになり、結果メアリーはエリザベス女王の管理下で19年間監禁されることになりました。

エリザベス殺害計画

エリザベスの母親アン・ブーリンと父イングランド王ヘンリー8世の結婚が教会から認められていなかったため、エリザベス1世は庶子だとして彼女を排そうとする人たちも存在していました。実際に陰謀も渦巻いており、アンテナをはっていたエリザベス。そんな最中、メアリーの看守とカトリック司祭の間でエリザベス暗殺といった陰謀に関する手紙が見つかります。

最期の慈悲で生かしておいたけれどもはや限界、「これ以上は危険メアリーを生かしておいては自分の命が危ない」と感じたエリザベスは、メアリーを反逆罪として処刑台へ送ることにしました。

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処刑

(処刑台へむかうメアリー・ステュアート羽織りものの中に真紅のドレスが見える)

メアリーは何時間も祈って最後に微笑み、真紅の衣装をきて堂々と断頭台に立ちました

最初の斧の一撃はメアリーの首を避け、後頭部に食いみました。2回目に振り下ろされたときも首は切られたものの、まだ苦しみつつも生きていたといいます。3回目に振り下ろされた斧でようやく処刑が成功、執行人は首をもちあげて「女王陛下万歳」と群衆へ叫びました。

英国女王との確執

覚悟を決めたエリザベスはこういい残し、死刑執行令状にサインしたといいます。

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エリザベス自身はプロテスタントでしたが、国内にある宗教的対立を考慮して、カトリックの弾圧はおこないませんでした。

ただ、亡命してきたスコットランド女王については、カトリックである彼女を利用としようとする反対派の不穏な動きもあり自身も脅威とみなしていた、といいます。メアリーの処刑に躊躇していましたが、最終的に議会からの強い要請もあって執行を承認したのでした。

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まとめ

(オランダの画家(作者未詳)が1613年に描いたメアリー1世処刑の場面 引用元Wikipedia)

夫が亡き後、フランス王妃の座を失い、故郷のスコットランドへ戻ったメアリー。しかし恋多きメアリーは続くスキャンダルに加えて、夫殺しを企んだことにより信頼を失い、スコットランド女王の地位を追われてしまいます。従兄弟であるリザベス1世に慈悲を求めるも、裏ではその座を狙い「エリザベス暗殺計画」を企てるなどしてやむなく処刑されることとなったのでした。

本来ならば、メアリーが逃げてきた時点で殺されても不思議ではないもの「監禁」という形で彼女を生きながらえらせたイギリス女王。メアリーは最後までエリザベスに感謝することはなかったそうで、断頭台でも堂々と立ち、王女としての威厳を失わなかったとか。「生まれながらの女王」と呼ばれるメアリー・ステュアートですが、最後に至るまで堂々と女王たる姿であり続けたのでありました。

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