【復元画像でみる楊貴妃】傾向の美女と呼ばれた、世界三大美人の正体

中国の歴史

世界三代美人に数えられている楊貴妃、彼女は中国唐代の皇妃でありました。玄宗皇帝の寵姫だったのですが、同皇帝があまりに寵愛しすぎたために『安史の乱』を引き起こしたと伝えられ、別名『傾国の美女』とも呼ばれています。

壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であったともされる彼女。また、才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られています。この記事では、復元画像とともに、『傾国の美女』と呼ばれた楊貴妃にふれていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • 楊貴妃は、三代美女に数えられ、中国四代美人の1人でもある
  • 皇帝の寵愛を独占、結果的に国は傾き「傾向の美女」と呼ばれることに
  • 反乱が起こり、楊貴妃はその原因を糾弾され王命令によって自死するに至った

※日本でいう世界三代美人は クレオパトラ7世、楊貴妃(唐の皇帝玄宗の皇妃)小野小町(平安時代前期の歌人)、世界では小野小町ではなくへレーネだといわれている

スポンサーリンク

楊貴妃とは

楊貴妃 復元画像 (復元イメージの楊貴妃)

719年6月22日に誕生した楊貴妃。ちなみに貴妃は皇妃としての順位を表す称号であり、姓は楊、名は玉環といいました。名前の由来については、生まれながら玉環を持っていたからといった説や、また庶民でありながら生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄琰に売られたからという後世の俗説も残っています。

楊貴妃は蜀州出身で、本籍地は蒲州永楽県にあったといいます。四川には楊貴妃が幼いころに落ちたといわれている伝説の池「落妃池」が残されています。

book

『定命録』によると、蜀に住んでいた時、張という姓の山野に住む隠士が彼女の人相を見て、この娘は、将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴に値するだろう」と予言し、さらにまた従兄の楊国忠の人相を見て、「将来、何年も朝廷の大権を握るであろう」と告げたといわれています。

スポンサーリンク

皇后と同位の女冠へ

唐 第9代皇帝 (楊貴妃)

735年、楊貴妃は玄宗と武恵妃のあいだの子の寿王李瑁の妃となりました。李瑁は武恵妃と宰相の李林甫の後押しにより皇太子に推されたのですが、武恵妃が死去し、翌年、宦官の高力士の薦めで李璵(後の粛宗)が皇太子に冊立されました。

それから5年後、楊貴妃の運命が大きく変わります。

長安の東にある温泉宮にて、義理父であるところの玄宗に見初められ『女冠』となったのです。これは宮中の女性が位階を与えられたことを意味し、皇后の地位は奪えないものの同じくらいの力を持っていました。歳の差34、つまり父 (玄宗) が息子 (寿王李瑁) の嫁を横取りした形となります。楊貴妃の真意は不明ですが、当時皇帝には誰も逆らうことはできませんでした。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけたといいます。

玄宗の至宝

楊 貴妃とは

世界三大美人の一人で、古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)にも数えられる楊貴妃ですが、壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性だったそうです。ふっくらした様子は、復元画像にも見えますね。

楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれました。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく物腰が柔らかであったと伝えられています。

745年、貴妃に冊立され、彼女はついに『楊貴妃』と呼ばれるようになりました。父母だけでなく、いとこの楊銛までが楊貴妃にあやかり、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなりました。楊銛・楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は門を並ぶほどであったと伝えられています。

スポンサーリンク

出しゃばる家族

楊 貴妃とは

746年には嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り戻されたこともありました。しかし玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。この時、高力士はとりなして楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は太華公主の家を通じて夜間に後宮に戻ってきたのでした。

玄宗は楊貴妃が戻りその罪をわびる姿に喜び、祝いに多くの芸人をよんだと伝えられる。それ以後楊貴妃は、さらに玄宗の寵愛を独占するようになっていきました。玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり鞭を渡したといいます。本人が望んだかどうかは記録されていませんが、楊貴妃のために玄宗は絹織りや、装飾品の工人を数百人単位で用意するというかなりの入れ込みようでした。

楊貴妃の最後

楊 貴妃とは

752年、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握りました。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていきました。また楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなりました。楊一族は唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきたのです。これが世に言う『安史の乱』です。

本来玄宗は唐を復興させて絶世期へと導いた皇帝だったはずなのですが、楊貴妃が現れてからというもの、彼女の虜となり散財をし楊家を取り立てたりと身勝手な行動が目立ちました。そして755年、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落(安史の乱)。洛陽が陥落したことを知った玄宗は楊貴妃をつれて逃げ出しました。しかし家臣たちの不満は、「あの女さえいなければ」と楊貴妃へと向かっていきました。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命じたのでした。

楊貴妃が亡くなって

楊 貴妃とは

『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縄で首を捻られて殺されたと記録されています。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。生き残り説もありますが、陳玄礼らによってその死は確認され死体は郊外に埋められたそうです。

玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後改葬を命じましたが、礼部侍郎李揆からの反対意見により中止となりました。玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたと伝えられています。皇太子妃のままであれば安寧な生活を遅れたのかもしれませんが、美しすぎるあまり義理父の目にとまり皇帝が暴走、結果として殺されるに至ったのでした。

スポンサーリンク

まとめ

楊 貴妃とは

三代美女に数えられ、中国四代美人の1人でもある楊貴妃。皇帝の寵愛を独占し、彼女の虜となった玄宗は彼女のためにありとあらゆる贅を許したあげく国を傾け、彼女は「傾向の美女」と呼ばれるに至りました。反乱が起こり、楊貴妃はその原因を糾弾され王命令によって自死するに至ったのでした。

冷静にみていくと、「楊貴妃は皇帝に振り回され権力を家族に利用された」という見方もできます。『傾国の美女』として知られる彼女ですが、果たして非はあったのでしょうか。ただ確実なのは「国を巻き込み」悲劇の最後を迎えたからこそ、彼女の名前は現代まで語り継がれることになったのでしょう。皮肉なことに、マリー・アントワネットやエリザベートと同じように、「悲劇で最後」を終えた女性は長く広くその名が語り続けられるものですから。

この記事を読んだ人へおすすめの記事

スポンサー広告
管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

Naaya Alexisをフォローする
中国の歴史
スポンサーリンク
Naaya Alexisをフォローする
不気味なる歴史の舞台裏

コメント

タイトルとURLをコピーしました