【奴隷貿易の犠牲となった女性達】誰も語りたがらない負の歴史

惨散たる歴史

大勢の人が太平洋を望まず渡らされることとなった奴隷貿易。これは歴史上最も大規模な「強制移住」だったと言われています。1492年から1820年にかけて、アメリカ大陸に到着した人々の80%がアフリカ人でありました。

アフリカ人はアルゼンチンからボリビア、カリブ海の島々からホンジュラス、北アメリカまで、あらゆる国に上陸させらました。この記事では、奴隷貿易の犠牲となった女性達の扱いを深掘りしていきたいとおもいます。

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奴隷船

主に西アフリカの海岸沿いに住む約1500万人のアフリカ人は、 「生きた」 貨物として 「新世界」 の奴隷市場に移住させられました。3ヶ月から4ヶ月にわたる航海は、アフリカ人の力と尊厳を根こそぎ剥奪しました。奴隷達は船に密に詰め込まれ、カリブ海やアメリカの海岸に運ばれ、そこでは永久に既存の制度的奴隷制度を運命づけられることになったのです。

奴隷たちは、船の床や高さ1メートルほどの棚に鎖でつながれていたため、 「船体」 の中では、身動きが制限され、起き上がることさえできませんでした。少年時代にナイジェリアから誘拐された奴隷の一人であるオラウダ・エキアーノは、回想録『ミドル・パッセージ』の中でその非人道性を示しています。

それぞれが動く余地がほぼないほど密であり。

近さと気候の暑さ加わって、窒息しそうだった。

奴隷達はおびただしい量の汗を流すことになります。空気はすぐに薄くなり、さまざまな嫌な臭いを発生させた。こういった環境は、奴隷の間に病気をもたらし、多くの奴隷が亡くなる原因となった。こうして、奴隷達は「奴隷の購入者の強欲の犠牲者」となったのです 。

奴隷制度の犠牲者

奴隷貿易が始まる前、アフリカには奴隷制度が存在していました。

アフリカの王国にとっても、これは利益の上がる事業だったのです。奴隷たちは誘拐だったり、王国間の局地戦争の結果として収集されていました。その後、象牙や金とともに武器や価値のあるものと交換されて外国貿易商に売られていきました。

そして、この奴隷貿易では、男性だけでなく女性も取引されていました。1500万人の奴隷のうち、約1/3が女性だったといわれています。アフリカの女性たちは、強制奴隷制と搾取、そして「有色人種の女性である」という差別という二重の苦しみに耐えなければいけませんでした。

黒人女性は、ヨーロッパ女性の身体的な虚弱さ、繊細さに反して、筋肉質で男性的な体格を持っているとして、人間以下の存在として描かれました。アフリカ人女性の裸と 「原始的な自然」 は、動物界との比較を促すことになりました。こういった固定観念は、「アフリカ人女性は、白人女性とは異なり、劣っているとヨーロッパの貿易商に確信させ、それゆえ、性、出産、労働のために奴隷の体を搾取してもいいのだ」と自分達の為すことを正当化するものとなったといわれています。

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女性の扱い

奴隷船に乗せられる前に、奴隷の身元は、ヨーロッパの奴隷商人にすでに捕らえられていました。奴隷貿易の主人は、男性の捕虜だけでなく女性からも、所持していた衣服やその他の所持品をすべてはぎ取り、裸で乗船させました。

アフリカ人女性の民族識別の基礎となったヘアスタイルや、社会的な儀式として髪を結うことは、虫を防ぐために剃られたときに奪われていました。さらに、女性は「焼印を押す」などの身体の傷をつける儀式を受け、歯列を整えたため、ヨーロッパ人の目には恐ろしい犬歯として映るようになっていました。

船の中では、奴隷たちは「従属関係」を確実にするために、船員の娯楽の一環としても強制的に踊らされることもありました。主に、女性たちはクォーターデッキで踊り、船員たちに 「豊かなレクリエーション」 を提供したのです。

1820年、ブラジルの船に乗っていたアメリカ人は、海の真ん中で船が 「半分ベッドラム、半分売春宿」 になると説明しました。悪名高いキンバー船長の事件では、船の甲板で裸で踊るのを拒んだ10代の少女が鞭打ち刑に処され、また女性は他の理由でも鞭で打たれることがありました。

女性達の反抗

例えば、フレデンスボルグ奴隷船の入港日誌によると、「塩を盗んだ」として捕まった女性5、6人が鞭打ちに処されました。鞭打ちでは、通常は奴隷船に乗る前にふんどしやパンツで覆われていた身体の一部 (腰から大腿部) が露出したのです。これは女性の尊厳を傷つけるものでした。

一部の奴隷女性は妊娠中に「購入」されており、他の奴隷女性の助けを借りて船上で出産することもありました。しかし、これらの女性たちは出身文化の出産儀式を行うことは許されませんでした。見当識の喪失、不適切な排泄・換気システムによる疾病、そして非人道的な刑罰はときに奴隷の命を奪い、特に女性を狂わせました。彼らは餓死するか、船が新しい海岸に停泊するたびに甲板から飛び降りるかのどちらかを選ばされたのです。

女性は、鎖につながれて常に甲板の下にいる奴隷男性とは異なり、繋がれずに甲板の上に置かれたままであり、場合によっては奴隷男性よりも危険性が低いと見なされていました。船の中を動き回る自由が与えられ、奴隷蜂起のための通信や組織のための時間などの資源が与えられていたともいえます。しかし、奴隷たちの抵抗の多くは成功しませんでした。

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抵抗を試みるも

例えば、奴隷船長のジョン・ニュートンは、彼の指揮下で少なくとも五回の反乱があり、そのうち1797年の奴隷船 「トーマス号」 での反乱が際立っていたと報告しています。乗船していた女性たちは、運動と食事のために甲板で解放されていました。彼女たちは武器庫の鍵がかかっていないことに気づくと、その機会を利用して武器を奪い、奴隷船の乗組員を圧倒します。

奴隷たちは解放され、やがて船は捕虜の支配下に置かれました。しかし、捕虜が海を航行できなかったため抵抗に失敗し、形勢は逆転してしまったのでした。性的搾取の結果として、船上で妊娠した奴隷女性は、奴隷人口の増加につながったため、新世界の買い手にとってより価値があるものでした。そのため、女性は子供を将来の奴隷化から防ぐために、子殺しや堕胎を行って抵抗しました。

女性達は、時には売春、強姦、拷問、時には死に耐えなければなりませんでした。奴隷となった女性たちは、奴隷を匿名化し、声もなく、文化も持たないものにしようとする奴隷制度によって自分たちに加えられた沈黙に、受動的・非受動的な抵抗を通じて反対したのです。

(引用元:奴隷貿易の歴史)

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まとめ

奴隷制度下では、夫婦や家族はいつでも、何の前触れもなく別れさせられました。

一般的に、大規模な農園を除き、夫と妻は同じ場所に居住させてはもらえず、売られたり、所有者が変わった後には同じ近隣にさえ居住させてもらえないこともありました。このように現実には、男性が家族を支えることが物理的にできず、女性は可能な限り、主に自分で子供を育てることを余儀なくされていたといいまさう。

しかし、その中で女性たちはさまざまな方法で反撃してきました。アメリカ大陸全体で、彼らの 「横柄さ」 も注目されているのです。言葉や身振りによる反抗もあれど、これらは残酷に罰せられる対象となりまあした。また母親や助産師は、所有者の妊娠管理を拒否して堕胎し、奴隷所有者の財産を増やすことを拒んだ幼児殺害の犯人となることもありました。

都市やより自由な領土に逃げたりすることもありました。アメリカでは、地下7フィートに掘った洞窟に住む母親とその子供たちが住み、何人かはそこで出産し、何年も安全に隠れていることもあったといいます。暴動の間、女性は戦闘員に食事を与え、弾薬を運び、スパイとして活動し、負傷者の世話をした。時には男装して腕を組んで戦う者もいました。これらの「負の物語」はなかなか公に語られることはありません。華々しくスポットがあたる大英帝国や、アメリカの発展これは「匿名化」された奴隷達の血の滲むような日々の上に成り立っていることも忘れてはならないのかもしれません。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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