【火花を散らす王妃と愛人】カトリーヌドメディシスと寵姫ディアーヌの闘い

カトリーヌ・ド・メディシスフランスの歴史

中世のフランスにおいて、国王は寵姫を作る自由が与えられていましたが王妃は不遇な立場に置かれていました。当時の結婚において、国王の妃となるのは、身分の高い王族や大貴族の娘などでした。つまり一家の出世や、国の安寧のために政略の道具として嫁がされていたのです。

それはマリー・アントワネットエリザベートのように悲劇の結末をうむこともあったわけですが、慎ましかったがために長年生き地獄を味わうことになる王妃様ももちろんいました。それが今回ご紹介するフランス国王アンリ2世の元に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスです。

豪華絢爛なフランス宮廷に嫁ぐも、夫となったアンリ2世は自分の教育係であり20も年上の女性ディアーヌに夢中。カトリーヌの役割といえば世継ぎを産むことだけで、夫はいつも他の女性に夢中。彼女は「宮廷で幸せな日など一度もありませんでした」と言葉を残すほどでした。今日は中世宮廷で火花を散らした王妃と寵姫の争いをご紹介します。

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カトリーヌ・ド・メディシスの地獄の宮廷生活

嫁いだ夫には、20歳上の寵姫ディアーヌがいた

カトリーヌ・ド・メディシス(引用元:wikipedia

カトリーヌ・ド・メディシス、彼女は13歳でフィレンツェのメディチ家からフランス王子アンリ (のちのアンリ2世) の元へと嫁ぎました。フランス宮廷といえば、豪華絢爛で羽振りが良いのが常でしたが、彼女を迎えていたのは地獄のような生活でした。

(ディアーヌ・ド・ポアチエ引用元:Wikipedia)

メディチ家は豪商で名を馳せていましたが、宮廷は急に来た若い娘に「フィレンツェ商人」と陰口をたたき、また唯一の頼みの綱であった夫にいたってはディアーヌに夢中さらにそのディアーヌという寵姫は20も歳上で、アンリが子供の頃から「教育係」として彼にあれこれを教えてきた女性でした。

彼の心は完全にディアーヌにあり、カトリーヌには全くといっていいほど興味すら示さなかったのです。

 

王妃カトリーヌと、寵姫ディアーヌはどちらが上か

カトリーヌ・ド・メディシス

寵姫ディアーヌは、ノルマンディ大奉行ルイ・ド・ブレゼの未亡人でした。しかし数々の彫刻や絵画のモデルになっているとおり豊満な美女で、その美貌やスタイルを保つために冬でも冷水浴や乗馬を欠かさないほど自己管理を徹底していました。

結婚から10年経っても子供に恵まれなかったカトリーヌ・ド・メディシスですが、1544年からいっきに7人の子供を産むことになります。しかしその出産ですら、カトリーヌの地位をあげることはありませんでした。というのも、子供達は生まれるとすぐに後見であったディアーヌの元へ贈られてしまったのです。

ディーアヌはあまりに自分の元へ通い詰めるアンリ2世に対して、「たまには妃のところへ」と助言をすることもありました。そういった事情もありディアーヌに対して強く出られなかった王妃カトリーヌ・ド・メディシスには、ただただ耐える屈辱の日々が積み重なっていきました。

 

与えられるものに、雲泥の差

(カトリーヌ・ド・メディシスの全身画)

カトリーヌの苦労は、アンリが『アンリ2世』として国王に即位してからも続きました。即位のお祝いとして彼女が受け取ったのは、わずか20万リーヴルの王室費だけ

一方寵姫のディアーヌはというと、

  • 14万エキュのダイヤを加えた王冠用の宝石
  • ぺイヌの領地とリムールの城
  • ロワール河畔のシュノンソー城

と、とんでもない額のプレゼントを貰い受けていたのです。

シュノンソー城

しかも新たに宮廷内の役職についた彼女は多額の税金を払わなければなりませんでしたが、10万エキュとも、30万エキュともいわれるそれらは国庫ではなく、直接ディアーヌの懐に入ったと言います。この後、王妃には一応『ショーモンの城』が与えられましたが、カトリーヌ・ド・メディシスとディアーヌとの待遇は雲泥の差でした。

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カトリーヌ・ド・メディシスの嫉妬の炎

ディアーヌが一番、『王妃様はいつも後回し』

(アンリ2世 引用元:Wikipedia)

1547年7月パリ東方にあるランスの町で、アンリの国王即位式が行われました。

午前8時に町中の鐘が新国王の到着を知らせるために鳴り響き、その中を黄金の馬衣を身につけた馬にまたがったアンリ2世が東條しました。しかしその時彼が身につけた式服の縁には、弓と一束の矢『H』に『D』が組み合わさり、一緒に結ばれた3つの三日月が刺繍されていたそうです。もちろんHはアンリの頭文字で、Dはディアーヌの頭文字です。

国王はディアーヌとの関係を隠す気はさらさらなく、むしろ『王妃様はいつも後回し』という事実が公然と知れ渡っていました。今宵こそはと期待して迎えるも、夫は一向にあらわれず。やり切れない思いをどこへぶつければいいのか、カトリーヌ・ド・メディシスの心の中に沸いた嫉妬心や憎悪はいかほどだったでしょうか。

 

国王の愛を独り占めにし続けたディアーヌ

(ディアーヌ・ド・ポアチエ) 

アンリ2世は国事に関しても、つねにディアーヌからの忠告を求めその意見だけを尊重していました。多くの公文書がディアーヌ自身の手で書かれ、それにはこのような署名がなされていたのです。

元々教育係であったディアーヌに対してアンリはい頃から憧れを抱き、大人になっても側におき、寵愛し続ける姿は異常なほどでした。ディアーヌにもその気があったのかなかったのか。幼い頃から色々と手解きをしてきた王太子がついに国王となり、何もかもが自分の言う通りになる宮廷が出来上がったのですから、ディアーヌも愛云々といより、「まんざらでもなかった」のかもしれません

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立場の逆転

ディアーヌの時代のおわり

(アンリ2世とモンゴムリ伯との馬上槍試合 引用元:Wikipedia)

しかしその日は突然やってきます。

1559年6月、アンリ2世は騎馬試合で瀕死の重症を追いました。哀しみにくれたカトリーヌは、片時も夫のそばを離れず「ディアーヌ・ド・ポワチエがこの病室に近づくことを禁じます」と言い放ったそうです。

昏睡状態の中でアンリ2世はディアーヌの名前を呼び続けますが、翌月傷を受けてこの世を去りました。国王の死はすなわちひと時代の終わり、宮廷における力関係もいっきに変わります。ディアーヌは、王冠の宝石やアンリの書斎机の鍵などの返還を余儀なくされました。またカトリーヌ・ド・メディシスへへりくだった手紙をかいてこれまでの無礼の許しをこい、自分の命と財産の一歳を彼女の前に差し出したそうです。

 

王妃カトリーヌの復習

(カトリーヌ・ド・メディシスの全身画)

しかし予想に反して、カトリーヌは彼女の財産も命も要求しませんでした

その代わり、ディアーヌがついこの間まで女君主として君臨していた宮廷の門は永久に閉ざされたのです。シュノンソー城は最終的にカトリーヌに渡りましたが、それも無理やりではなく「カトリーヌが所有していたショーモン城との交換」という寛大な交換取引でした。

13歳で宮廷に嫁いでからというもの、カトリーヌは息を潜めるように暮らしけして危ない橋をわたることはありませんでした。今回も同じく、なき夫の愛人に対して面と向かって復習するのではなく、静かにディーアヌを追放したのでした。

 

あとがきにかえて

アンリ2世、カトリーヌ夫妻とその子女

さて、いよいよやってきたカトリーヌ・ド・メディシスの時代

彼女の子供が王座へつきましたが、不幸にも次々と亡くなってしまいます。そして別の息子アンリ3世を皇帝の座へつけたのですが、彼女はアンリ3世を、前王 (子) のように制御することはできませんでした。

結局彼女は子供との軋轢を払拭できないまま、カトリーヌ・ド・メディシスは1589年1月、69歳で胸膜炎により亡くなりました波乱万丈な人生、やっと自分の番が回ってきたかと思いきや子供たちは次々と夭逝。ぱっとしない容姿もあり、夫とその愛妾に虐げられ続けた人生をおくったカトリーヌしかし憎悪に身を任せるわけではなく、賢明に静かにフランス宮廷に君臨しつづけ天命をまっとうした女性でありました。彼女の名前が現代こんなにも知れ渡っているのは、こういった理由があるからかもしれませんね。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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