【ハプスブルク家にみえる下唇の起源】神に選び抜かれた一家に纏わる謎

レオポルト1世ハプスブルク家

ハプスブルク家にあってひときわ異彩を放つのは、レオポルト1世帝。面長で輝きのない大きな目、弓形の鼻、そして唇、よくぞここまで余すことなく顕れたものかというハプスブルク家の顔。皇帝の側近くに仕えた伝記作者はこう書き残しています。

 sign陛下は、突き出た巨大な下唇をお持ちであられる。陛下のお言葉は必ずしも明瞭とは限らない。突き出た下唇によりお言葉が閉ざされてしまうのだ

この記事では、同家の人々特有の「下唇」の起源にせまっていきたいとおもいます。

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ハプスブルク家系図

ハプスブルク家 家系図

近世において最初に登場した偉大な俗物、ハプスブルク家の神君ルドルフ・フォン・ハプスブルク。通称ルドルフ1世はハプスブルク家における最初の神聖ローマ帝国皇帝であり、彼がローマ皇帝(通称ドイツ皇帝)に選出されたことにより、ハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れたのでした。

彼の時代にハプスブルク家はヨーロッパ最高峰の皇帝家に発展することになります。それは追々語るとして、彼は大変な大酒飲みでありました。一説によると、ビールをなみなみと注いだジョッキを片手に路上へとお出まし、「ビール、そはなんと素晴らしき!」とのたまいつつまちまちを練り歩き市民の喝采を浴びたといいます。

下唇のルーツ

ルドルフ1世

さて、そんな神君の像には、下唇にさして特徴は顕われてはいません。神君ルドルフとレオポルト1世の間にはざっと400年ほどの歳月が流れています。それではこの400年の間に誰がハプスブルク家のあの下唇を持ち込んだのでしょうか。ルーツであろうと考えられるのは、ヨハンナ・フォン・プフィルト、アルブレヒト2世の公妃です。

ヨハンナ・フォン・プフィルト

あるアルブレヒト2世とは神君ルドルフから数えて4代目の当主であり、賢君の異名をとる名主でありました。また不具公とも呼ばれており、公の3人の兄の相次ぐ早世により思いもせずハプスブルク家当主の座が転がり込んできたのは1330年のこと。どこの国でも君主は狙われるものなのでしょうか。アルブレヒト2世の食事に毒が盛られ、腕と膝が麻痺し、以来、公は歩くこともままならぬ自体になります。

厚い下唇の女性

ハプスブルク家の下唇

この時、アルブレヒトとヨハンナ夫妻の間には、結婚生活6年にして未だ子がおりませんでした。そんな中さらされたアルブレヒト2世の身体の麻痺。ハプスブルク家断絶が取り糺されたのも無理もないでしょう。隣接する諸侯はその時のためにせっせと牙を研いでいましたが、そんな時に奇跡が起こります。

ルドルフ4世

公妃ヨハンナが、結婚15年目にして長男を出産したのです。しかし奇跡とは信じられないから奇跡というもの、父親は一体誰なのかと誰もが噂をしました。アルプレヒト2世はこの噂を打ち消すために、教会の諸教師らの口を通して自分が父であることをわざわざ宣言したほどです。その後『奇跡』は繰り返され、公妃ヨハンナはさらに3男、2女をもうけ、最後の出産は51歳でのことでした。

ハプスブルク神話『ルドルフ4世』

ルドルフ4世

ここにきて噂はようやくおさまったわけですが、真偽の決着が着いたわけではありません。公妃ヨハンナの産んだ長男、後のルドルフ4世公。肖像画を見る限り母に似て厚ぼったい下唇を備えています。性格も母に似たのか、万事慎重な父とはちがい何事も電光石火に処理しなければ気が済まないたちでありました。

おまけに他方もない夢想家にいして冷たい打算家、後世の人々は彼を「建設公」と呼びました。というのもシュテファン寺院、ウィーン大学は彼の建設によるものだったからです。しかしルドルフ4世の1番の建設は何といっても、神に選び抜かれた家というハプスブルク家神話でしょう。

しかもその工法が例によって荒っぽいことこの上なく、「泣かぬなら殺してしまえ」という創り方自家はローマの名門コロンナ家、最終的にはジュリウス・シーザーに発すると言わんばかりに公文書をでっち上げ、その偽文書を時の神聖ローマ皇帝カール4世につきつけ、恬として恥じなかった….. 当代最高の人文主義者ペトラルカにウィーンの「おおうつけ者」と冷笑されたのも無理はないでしょう。

一家最初の下唇

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しかしルドルフ4世は、治世7年にしてわずか26歳で生涯を終えてしまいます。

ゲーテを文字っていうのならば、「夜空をさっと流れいく彗星のようにハプスブルク家の地平線にほんの束の間、姿を表し忽然と消えてしまった」というところでしょう。夭折、おおうつけ、ハプスブルク家最初の下唇を持つ男。これに出生の秘密が加われば鬼に金棒、話は俄然おもしろくなり、ハプスブルク家はさらに神秘的に謎めいてくるのでした。

神君ルドルフと、レオポルト1世の間にはなんら断絶がないのはいうまでもなく。革新と断行を避け、独創的にまで非独創に徹し、曖昧にぼやかされひたすら「相手が泣くまで待つ」という、神君ルドルフ以来のお家芸が続いていくのでした。

あとがきにかえて

ルドルフ4世

さて、しかしルドルフ4世が「ハプスブルクの下唇」の始まりだったのか、その真偽は定かではありません。というのも、1900年代にルドルフ4世公の両親アルプレヒト2世夫妻の墓が掘り返されているのです。ヨハンナ・フォン・プフィルトがハプスブルク家の特徴である下唇を同家に持ち込んだ女性といわれていますが、しかしこれについては確証が得られませんでした。というのも、彼女の下唇の骨はこの種の奇形をいっさい示していなかったのです。

何百年も前に死んだ者の墓を暴くのは一体どうなのか。そこまで暴きたい謎だったのか、そこまでハプスブルク家の真髄に触れたい者が多かったということかもしれません。しかしかくかくしかじか、皮肉にも、「ハプスブルク家の下唇を誰が持ち込んだのか」は謎であることが実証されてしまったのでした。

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管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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